あれ以来幸村と伊達政宗は幾度となく刃を交える機会に恵まれた。二度目は長篠、三度目は摺上原、四度目はまた川中島、五度目は……もう数え切れない。幸村は時に傷を作り、時に相手に傷を負わせ、だが毎度変わらぬのは高揚し生き生きとした顔で戻ってくることだ。
その戦いも主君信玄公と軍神謙信公のように永遠に決着の付かないもののように思われたが兄と独眼竜はその二人ではない。そして斜陽は竜ではなく、虎に降りかかってくるようだった。
北に広大な領地を持つ奥州伊達氏。近頃は最北端の一揆を平定しますます領土を広げたそうだ。対して甲州武田は苦しい。武田の不幸は二つあった。一つは国力の肉迫する国が犇めきあう立地、戦に勝つものの新たな領土の獲得には至らないのだ。得ても国人衆への分配に忙しい。そして二つ目はその国人衆の気質だった。元々、信玄公の父信虎公は中央集権の領国経営をしようとした。だが国人衆はそれぞれ独立独歩の精神が強く信虎公のそれをよしとせず、和を尊ぶ信玄公を担ぎ出し信虎公を追放した。以来新しいお館様となった信玄公は、国人衆を纏め上げ絶妙の均衡で領国経営をしてきたのだ。主君と家臣、というより実質の武田家は盟主と呼んだほうが良いかもしれなかった。武田家が勝たせてくれる限りは国人衆は信玄公を支持し付いてくる、だが負けが込めばどう転ぶか、おのずと分かるというものだ。
無論、信玄公本人を慕って付いてくる者は国人衆の中にも一介の兵の中にも居る。それ故に今日まで国を動かせたのだ。だが慕う者ばかりを重用できぬ。離反をさせぬ為に慕う者と利を望む者の均衡を保ちながら信玄公は細心の注意を払って統治を行っている。その均衡が保てるのも勝利があるからこそ。負けが込めば味方だった者は寝返り、小競り合いに勝てば敵だった者が味方となる。それは拮抗する勢力に翻弄される小豪族らの悲しい性だった。今の武田家中は離反、懐柔の報が何度となく飛び交っている。早く何か決定打がなければ武田は崩壊する。伊達に勝つなど夢のまた夢となりつつあった。
そして今日もまた一つ、信濃のとある城が伊達に落とされたとの報が入るのだ。
「いけないのですか?」
「うーん芳しくはないね」
「そう……」
上信濃の城が一つ落ちた。それはにとって竜の鋭い爪が我が身にも迫りつつあることを実感させるに十分な報せだった。あの強いお館様の、武田の力が削ぎ落とされてゆくなどと、そう思えば言いようもなく背筋は凍る。
城内は騒がしい。雪深い時期であったにも関わらず北国の伊達が兵運用の妙を得て南下し城を落としたことは家中に極限に近い緊張感をもたらしたのはいうまでもない。兵らは練兵、奉行らは蔵に仕舞われた大量の予備の武具の確認と、領内から掻き集めた兵糧の詰め込みに忙しいのだ。伊達が攻め入れば田畑が焼かれる可能性が高い。奪われるくらいならお殿様に、と米を運ぶ領民達の土気色の様相だ。
「上田も危ないのね。私何の力にもなれないわ」
「姫、姫が此処に居るだけでみんな落ち着くんだよ」
「でも、それだけでは緩やかに弱っていくだけだわ。何の足しにもならない」
は悔しかった。お館様の努力も兄の献身も功を奏さず疲弊する国、そしてそれを憂うことしか出来ぬ我が身がどうしようもなく。
「女子の身ではどこぞに嫁いで手駒になることしか……」
「そういうこと言うもんじゃないよ。旦那が聞いたら泣くよ」
練兵に忙しい幸村から離れての傍に居た佐助は、の口から出た悲痛な覚悟を聊か強い口調で窘めた。
「でも」
「ならさ、独眼竜に嫁いでみるかい?」
「えっ……」
「見事篭絡して寝首を掻いてみせよ。もし大将に命じられたらそうするの?」
何時になく難しい顔をした佐助には息を呑んだ。心配させてしまったのだ。だが、今の武田は苦しい、ならば。
「佐助、私っ」
「はぁもう、本気にしないで。絶対そんなことはさせないしそれを命じる大将でも受ける旦那でもないよ」
「ええ……」
「大丈夫、まだ救いはあるよ。旦那の顔見てごらん? 相手にとって不足なし、そんな顔してるでしょ?」
「そうね」
「姫がそんなんじゃ旦那も頑張り甲斐がないでしょ。さっきみたいなこと、旦那に言っちゃいけないよ」
「はい……」
は袖を口に当てて下を向いてしまった。ただ兄の身を案じたが故の発言であったのに言い過ぎたかもしれないと佐助もまた気まずくなる。ほんの少し沈黙が流れたが、すぐにそれを打ち消すように侍女の衣擦れの音が聞こえた。
「失礼申し上げます。姫様、殿がおいでにございます」
「わかりました」
応えるや否や、は敷物から退いて下座に下がり頭を垂れ佐助も横に控えたところで幸村が入ってきた。練兵を終えたばかりの溌剌とした気が彼の顔に充満している。
「、おお佐助もか。何を話しておった」
「はい、兄様が良いお顔をなさっておいでだと話しておりました」
嘘ではないな、と思いながら佐助も頷いた。
「ふふ、状況は芳しくないがな」
「兄様……」
「大丈夫だ。我が闘志この上なく滾っておる。それに技も更に冴えておれば必ずあの男と渡り合えよう」
「其れほどまでにお強いのですか? 伊達様は」
「ああ、褒めてばかりもおられぬが武士(もののふ)としても将としても、あれ程の男そうは居るまい。刃を交えるは誉れぞ」
「兄様、は此処でご武運をお祈りしております」
「どうした、改まって」
幸村はの不安を吹き飛ばすかのように可笑しそうに笑い、心配致すなと続けた。それから珍しく顎を撫でてふと思い立ったように言を紡ぐ。
「、たまには其方の箏を聞きたい」
「箏にございますか? 其れはかまいませんが」
「ああ、道具は奥の部屋か。よい、俺がそちらに行く故」
「では、先に失礼して仕度をして参ります」
「頼む」
本当に珍しいこともあるものだ、と幸村以外の者はそれぞれ思い、と侍女は別室へ踵を返す。柔らかい残り香が漂いその匂いの持ち主の足音が遠ざかると佐助はおもむろに問うた。
「米蔵はどう?」
が下がるのを見計らってか幸村の声は打って変わって低くなった。将としての本来の顔が見え隠れする。
「もういっぱいだな。政宗殿がこちらに来るなら篭城戦だ。領民に強制はせぬが逃げれぬ者らは城に囲うつもりだ。ならばあの量でかまわぬであろう」
「領民を思えば回避したいところだけどね」
「そうはなるまい、次は上田であろう。……佐助」
「うん?」
「にはあのこと、言うでないぞ」
「勿論」
実際、重臣からを信玄の養女にして嫁に出してはどうか、という話が出たことはある。嫁ぎ先は伊達か、はたまた対伊達を構想しての周辺諸国だ。幸村は渋ったが主家を思えばそれを口に出すことも憚られ弱り果てたが、主君武田信玄自身がそれを拒んだのだ。を遣るのならその前に自分の娘を遣るのが筋だ。だが仮に今嫁に出したとて和睦がなるか、もしくは協力を得られるかは微妙である。伊達に出せば体のいい人質、国人衆や周辺諸国に出せば寝返りのとき伊達への交渉材料に使われかねぬ、と。
「……もっと早うに嫁に遣れば良かったやも知れぬ。だが俺の目に適う男がおらぬのだ」
庭を眺めながら、あの男以外……と続けた言葉を佐助は聞き逃さなかった。それが何の返答も求めていない呟きであると知る佐助は言及せず、の様子を見るべく黒い靄に包まれる。
五つほど離れた部屋の広縁での姿を見止めると、彼女は佐助が送った簪を胸に幸村と同じように庭を眺めていた。
「これを使う日が来るかもしれないわ」
その言葉の後に風が強く吹いて彼女の表情は読み取れなくなった。だが、佐助の心内にはこの兄妹が離れ離れになるような一抹の不安が過ぎるのだった。
上田が落ち、武田の本拠甲府へ、そして要害山城へと逃れるのはそれから三月後のこと。望む望まずに関わらず、はその手に絡めとられてゆくことになる。
- end -
2012-09-15
本当は奥州もいろんな勢力があって大変なのですが、作中では筆頭がほぼ取りまとめている、という解釈で書いております。