さらば、遠き日(一)

 甲州武田氏が奥州伊達氏に滅ぼされて八ヶ月の時が流れた。大大名の本領が落ちたということで甲斐は当初大変な混乱の中にあったという。だが新領主となった伊達の行動は素早く戦後処理も比較的穏便に進み、現在は城代がそつなく統治しているようだ。焦げる木々の匂いも、足軽の喚声も、女子供の悲鳴も今は此処にない。伊達が武田旧臣のほとんどを処罰しなかったことから末端の混乱は急速に収まり治安も早く回復したようだ。一年経たずしてこの状態であるから新領主の手腕はまずまずといったところだろう。

 真田忍隊の長猿飛佐助はあの落城の前夜、主君真田幸村の最愛の人たる信玄公の末の姫を連れて落ち延びた。頼った先は信玄公の好敵手越後の上杉謙信。武田と伊達の戦が本格化する前に嫁いだ姉姫の夫が謙信公の甥であったことから上杉に反対するものはおらず姫の安全は直ぐに保障されたのだ。
 謙信公を真っ直ぐに見据え、名を述べ武田の窮状を告げる姫の姿は甲斐の虎の娘の名に違わぬ堂々としたもので、次々に来る報告も気丈に聞いていたが、父母と幸村の訃報、そして身代わりに残ったが伊達の手に落ちたと聞いたときには痛々しいほどに泣き崩れた。姉姫に縋り、時に佐助を責め、何故残らせてくれなかったのかと叫んだ。姫は佐助を責めたのではなく自分を責めていた。残らせてくれなかったのかではなく、何故逃げてしまったのかを。
 姉姫はただ抱きしめ、軍神は静かな声で何度も諭し、喉も涙も涸れる頃になると姫はひたすら佐助に謝罪してきた。貴方のせいではないのに酷いことを言ってごめんなさい、残りたかったのは貴方なのに、幸村のことものことも諦めきれないのは貴方なのにと。
 姫さんの悲しさは誰も推し量れるものではないよ、何も気にしないで思い切り泣けばいい、そう言いながら佐助の心中も荒れ狂った。旦那、何を置いて先に逝ってしまったのか、旦那の大切なものは此処で泣いているではないかと叫びたかった。
 そうして降り注ぐ雨に身を晒し皆に背を向けた佐助に誰も声を掛けることが出来なかった。自分は泣けないから雨が代わりに泣いてくれればいい。そう思いながら日が落ち、完全に身体が冷え切っても佐助は其処に佇んでいた。
 数日もすれば姫は悲しみよりも囚われたの身をだけを案じるようになった。戦は非情だ。男たちは命の危険を感じながら戦うのが常だが、女子は其れだけではない。名も無き雑兵相手に落花狼藉の憂き目を見、父の判らぬ子を宿すようなことにでもなれば死ぬ以上の恥辱である。そうならぬように女子はいつも懐に匕首を忍ばせるのだ。のその身は安全だろうか。姫の身代わりで残ったはずのだが、彼女自身の名が上杉の忍びから伝わるということは、当然彼女の身の上が伊達にばれているということだ。旧領主の姫でなく家臣の姫だとなれば利用価値など途端に下がる。兎角女に冷淡だという伊達政宗がにどのような扱いをするだろうか。一時の慰み者にした後は要らぬと雑兵の群れにでも放り込むだろうか。幸村が認めた男がそんなことをするはずは無いと思いながらも、そうはしないでくれと佐助は切に祈った。無論祈るだけでなく直ぐにでも駆けつけたかったが幸村から託された姫を置いていくことなどそれこそ主命に反することだった。砂を噛む想いの数日が永遠にさえ思えた。
 五日が経ち、さらに十日が経てば、生き残った忍隊の者らが徐々に佐助の許に集ってくる。彼らが齎したのは、幸村に付き従った者と幸村の影武者をした者らの死、そしてが伊達本陣で伊達政宗の庇護下にあるという報だった。続いて、身辺の警護は片倉小十郎に一任され、黒脛巾組を配置し下にも置かぬ扱いをしていると聞くと漸く胸を撫で下ろしたのだ。あの竜の右目なら決して粗略には扱うまい。きっと幸村の書状を尊重してくれるだろう。
 の安否が分かり姫はようよう安堵すると次第に無気力になっていった。勿論心中は悲しみの淵にある。ただ気が抜けたというか心をどこぞに持って行かれてしまったかのようだった。侍女達が選ぶままの打掛を纏い、運ばれるままの食事を口にし、笑いもせず涙もせぬ後はただじっと庭を眺めて時をやり過ごす姫の様に謙信公は無理もないと首を振るった。
「しんげんはえんぐんなどいらぬ。そだちゆくわかぎをながめ、まくをおろすときがきているのやもしれぬとふみにかいておりましたが、あのようななげきをみるのならばむりにでもへいをだせばよかった」
 珍しく声を震わせた謙信は、へいをおくらぬときめたときにわかっていたことです、と力なく続けて庭の菖蒲を摘んだ。それを昔馴染みのくの一かすがに手渡し姫の居室に飾らせるとゆっくりと天を仰いだ。
「これもらんせ、せめてのこったはながちらぬようみるがわれらのやくめ」
 憂戚に苛まれる声が胸を突き、佐助の後悔と憂愁を呼び起こす。伊達の甲斐侵攻がなければ、お館様が、旦那があの竜を倒していれば、いいや自分が暗殺でも出来ていたならば、今頃上田の城であの姫を御方様と呼んでいたかもしれなかったのに。そう思えば血の滲む程拳を握り締め只只下を向くしかなかった。
 それから更に十日が経ち、放っていた草の一人が持ち帰った報は佐助を驚かせるに十分だった。あの独眼竜がを正室に迎えるという話を兵らが話していたというのだ。それ程を気に入ったというのだろうか、いやまさか、根底から女を信用していないあの男が? は泣いているに違いない。死した兄と主君に燃え落ちた城、見知った侍女すら傍に居ない場所で仇の腕の中に収まらねばならないとは。
 がまだ甲斐に居る間も、奥州への道を通る間も、何度駆けつけて越後でも京にでも逃がそうと思ったか知れない。自分の腕は信じている、実行すれば必ず成功する自信もあった。だが、その度に幸村の姿が過ぎるのだ。
 佐助が姫を連れて要害山城を発つ数刻前、幸村は文を二通書いた。一つは手入れをするからとから受け取った匕首の中へ、もう一つは竜の右目に宛てて。両方ともの為にしたためたものだった。姫の言葉を受け入れて本当に逃がさない気なのか、と問えば信じられないくらい穏やかに彼は笑ったのだ。
「政宗殿は良いようにしてくれよう。それに片倉殿に頼めば万に一つも間違いはない」
 何故其処まで信じるのか、そう問うのはやめた。彼の背がもう何も言うなと言っていたからだ。文を受け取り、今生の別れを告げて樹木に飛び移ると、それまで悠然と構えていた幸村は文机の鳥の子紙をぐしゃりと握った。すまぬ、と繰り返す彼は誰に対して謝っていたのだろうか。妹に? 姫に? 大将に? 同胞に? 家臣に? 領民に? 今となっても佐助には答えが出ないでいる。
「でも旦那、何で独眼竜なんだ」
 幸村は熟考に熟考を重ねて選んだに違いなかったし、幸村が願うとおりには厚遇されている。ただ一点、そう、夫となる相手があの男でなければ、仮に竜の右目や武の成実ならばこれほど気を揉むことはなかっただろう。
 如何すれば良い? を攫えば幸村の言葉を酌んだ政宗と、幸村の文を重んじた小十郎、そして何より幸村の顔を潰し、の身を逃亡者として危うくする行為に成り下がるだけなのだ。想いだけではどうしようもない現実が佐助を嘲笑うかのようだった。
 本格的な夏を向かえ季節が過ぎる中で伝え聞くの様子は真田旧臣たちの心をざわつかせた。物静かな姫御前だの、京にある手弱女桜に準えてその儚さが美しいだの。穏やかだがよく笑い家臣にも忍びにも可愛がられた無邪気さや明るさとは縁遠いものだった。
 そしてそれは、今の姫とだぶるのだ。姫がただ座して散る花を見る度に、姫が柱に寄りかかって涙をする姿を見る度に、それがと重なって苦虫を噛み潰すような居た堪れなさが廻り心中に爆ぜた。誰も彼も失った代償はあまりにも大きかった。
 喪失感に苛まれたまま迎えた正月、姫は路銀の詰まった袋を佐助の手に添えて小さな声で言ってきた。
 私のことはもういいわ、佐助長くありがとう。もっと早く言ってあげられなくてごめんなさい。大丈夫、私は立ち直れるから。貴方の見たいものを見て、探したいものを探して。
 あの頃より若干張りが戻った声音が強がりでないことを物語っていた。


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 今、佐助は身を冬の風に晒しながら懐かしい甲斐の城下を見ている。様々な記憶と想いが駆け巡り白雪に染まる城下は郷愁を掻き立てる。越後を発つ前に得た情報と己の記憶を頼りに痕跡を辿ることにした。
 白い息はこの雪の中で生きている証、眼前の白に染まる情景にそれもまた溶けてしまいそうな錯覚を覚える。何にも染まらない心ならばこの胸中を廻る情動などものともしないだろうか。この喪失感を味わわなくて済んだだろうか。いつか刃を交えた伝説の忍びの顔がふと脳裏を過ぎっては消えた。
 もう一度白い息を吐くと同時に白銀現れる黒い靄、それに包まれて佐助の姿もまた消散していった。

- continue -

2012-09-22

10,000hit企画、ゆいさまリクエストの『戦国【雁の聲】 夢主と佐助の話』です。ゆいさま長らくお待たせ致しました!
この話は10,000hitリク04〜08の武田時代を踏まえ、滅亡後何を想い生きていたかを描いたお話です。10,000hitの戦国【雁の聲】リクの総まとめといったほうが早いでしょうか。
滅亡後のお話ですので他のお話より暗くなるかと思いますが、ゆいさまのお気に入って頂ければ幸いです。

菖蒲の花言葉:うれしい便り、良い知らせ、吉報、消息etc