さらば、遠き日(二)

 佐助はまず真田と武田の痕跡をあたっていた。信玄公の居館であった躑躅ヶ崎館、それから最期の時を迎える地となった詰城要害山城、どちらも焼け落ちて石垣と残骸だけが残っている。物悲しさはあれど凄惨さはない。焦げた柱はまだあるものの弔いはきちんとされているのが見て取れた。伊達は此処を再度利用する気はないようで、一条小山に城を築きそこに城代を置いている。そうしてくれたことは助かった。在りし日の姿は無常にもないが、残る遺構はそこに確かに大切な日々があったことを思い出させてくれる。
 幸村は三門で散ったという。信玄公は最奥の主郭に陣を置いて死し、その隅の部屋では奥方以下女子衆が命を絶ったそうだ。三門の近くになると此処で好敵手を待つ幸村の姿が像を結び佐助の心を抉る。思わず落とした視線の先に広がる細雪は土塁を隠し時の隔たりを感じさせるに十分だった。
「旦那……」
 突拍子もないことを言うし猪突猛進に見える人だった。だけどいろんなことを考えて時として舌を巻くような戦術を立てる人だった。危なっかしかったけれど仕えるのは悪くない相手だった。暑苦しい行動に溜息なんてついたものだが正直に言えば仕えていて楽しかった。図太くて寿命には不自由しない人だと思っていた。それがどうして、どうして先に逝ってしまうなど。
 ――佐助はそれ以上先へ進めなかった。踵を返して別の場所へとその身は揺蕩う。鷹の啼き声が酷く胸を突いた。

 忍びが想いに囚われては足元を掬われる。何度もそう教わり自身にも言い聞かせてきたことだった。忍びであるが故にいつでも死んでいいと思っている。何にも執着しないで生を食み任務を成功させる、其れで良いと、それが自分の生涯だと思っていた。他者が散るのも我が身が散るのも同じこと、その筈なのに空に舞う細雪と同じく触れては心に染み渡るこの寂寞は如何なることか。一人懐かしいこの地を眺める目には湛えたことのない色が浮かんでいる。
 要害山城から下り、西の湯村山城跡の頂から真田の屋敷跡を眺めた。遠目に見える様子は残念ながら此処も焼け落ちたようでその姿は最早瞼の裏側にしか存在しない。だが西にあった高坂弾正の屋敷や東にあった甘利備前守の屋敷跡に比べて残骸が少なく比較的整備されているのを見るにこれは城代の、主君もしくは主君の正室となったへの配慮なのかもしれない。屋敷と同様に真田屋敷の左右にある高坂、甘利の両家も最早ない。どちらも討死だったと聞く。
「高坂様は理知的な美丈夫、甘利様は山本様も舌を巻くくらいの剛の者だったのにね」
 盛者必衰とはこのことか。ちらつく雪が頬に触れては姿を変え、白い息が一層目立ち白銀の情景に我が身も染まる。小さく見える煤けた柱の残骸が更に雪に覆われてゆく寂寞の城下、佐助もまたいっそ熔けてしまえばいいのかもと眺め、そして地を蹴って最後の目的地へとその身を躍らせるのだった。

 眸を閉じればその先に浮かぶのは懐かしい顔と暖かな日々だ。小さな若様と姫様、まあるい頬が年月を重ねるにつれすっきりとし、若様は父に似た髪の色と面影を、姫様も同じく父譲りの髪と母に似た目鼻立ちになった。武に優れた若様も愛らしい笑顔の姫様も佐助の自慢だった。なのに先に逝くなどと、守りきれず敵の手中にあるなどと、この虚無感は何処へ行けばよいのだろう。
 甲斐に戻ったら、最後へ此処へ行こう。そう決めた場所で佐助は立ち尽くしていた。甲斐国内でも由緒ある大きな寺社、幸村と信玄公が葬られたのはこの寺だ。今や伊達の庇護にあるこの寺は昔のままの佇まいを残していた。元々正面から入るような性分ではない。例の如く木々の隙間から中を覗き、荘厳な趣は過去に目にしたそのままで時が止まった様にさえ感じ、鎮座しているであろう仏像の顔を思い出せば心知らず声が漏れた。
「仏も閻魔も本当にいるのなら頼む、うちの旦那を返してくれないか」
 その願いに答える者などいない。
「馬鹿みたい。らしくないったら」
 首を振れば乾いた笑い声が出て、思わず額に手を当て背を木の幹に預ける。だが指の隙間から覗く眸は寺から離れることはなかった。
 それから幾許か時が経ち昼も過ぎ雪も止んだ頃、寺から一人の若い娘が姿を現した。僧侶に丁寧に頭を下げゆっくりと踵を返し帰路に着くであろう娘を見たとき、佐助ははっとした。
「あれは……」
 身形は良いがそれ以外は何の変哲もない町娘、だが彼女の懐の辺りに目を奪われた。今様色の細帯に挟まれた銀色の細長い形状、それは佐助が忍びであるからこそ遠目でも視認出来る程の目立たない物だった。だが見間違えようはずもない、それはかつて佐助の手にあったものなのだから。娘が歩を進める度、粉雪の中ほんの少し差し込む光がその銀を照らしキラリとその存在を伝える。
 ――そうだ、絶対にそうだ。思い立った佐助の行動は早かった。直ぐに木から身を躍らせ娘の先を行く。何も知らぬ娘が石階段を下り塀沿いに進んで角を曲がった時、丁度視線が合うように。
「ねえ、お嬢さん?」
「えっ、あ、私ですか?」
「うんそう。他に人いないでしょ?」
 突然目の前に現れた男にその娘は目を丸くした。年の頃はと同じかその上かとりわけ美人という容貌ではないが気立ての良さを感じる目元だ。流行の肩裾模様の小袖を身に纏っていることから裕福な部類の娘だろう。
「驚かせてごめんね? でもちょっと聞きたいことがあってさ」
「はあ、何でしょうか?」
 佐助は娘の懐に匕首のように鎮座し輝いている銀色のものを指差した。
「その細帯に挟まれた簪を手に入れた経緯について聞きたい。出来ればそれを持っていた人の様子も」
「簪を……? もしや、……あ、あのこちらにっ!」
 娘は両手で持っていた風呂敷の包みを片手に持ち替えて、急くように佐助の手首を引っ張った。直ぐに近くにある大木の裏側に身を隠し周りの様子を伺い、人の気配がしないことを確認すると、ほう、と息を吐いた。尤も、佐助には周りに人が居ないことなど確認済みだ。
 娘は風呂敷を木の根元に置き、懐に挿した銀のもの――銀細工の玉簪を大事そうに両の手にとって佐助を見た。
「こちらに、ゆかりのお方で?」
「うん、そうなるかな」
「武者狩りなどは行われておりませんけど、あまり人目に」
「分かってるよ。気にしないで」
 時として人は弱い。伊達の戦後処理を見るに武田の残党狩りなど無用の長物であろうが新しい支配者に気に入られようと不必要な密告をするものがいるかもしれない。娘の危惧するところはそこなのだろう。
 初対面の男に何を話して良いのか、陰に連れて来たものの本当に武田ゆかりの者か考えあぐねる娘の様子に佐助から口火を切った。
「その簪を持っていた人はあの寺で眠っている人の身内だ」
 娘は静かに頷いた。
「どちらも子供の時から知っている。教えてくれないか、それを持っていた――姫の様子を」
 すると娘は今度は大きく頷いて切なそうに、だが眸には大きな悦びを湛えて一層簪を握っていた。
「ああこんなことが! 姫様にゆかりのお方っ! 何処からお話したらいいのやら」
「時間が許す限りでいいよ」
「はい、はいっ」
 佐助はそこらにあった土をさっと掃いて持っていた布地を敷いた。其処に座るよう誘導すれば娘の心を解すには幾らかの効果はあるだろう。娘は言われるまま腰を下ろして一つずつ思い出すように口を開いた。
「私はこの近くで商いを営む家の娘です。武田様ともご懇意にさせて頂いてそれなりに繁盛しておりました。――ですが武田様と伊達様の戦が激しくなり、ついには城下を伊達軍に押さえられ、要害山にお篭りになられた方々の様子を知ることが出来ないままあの日が来ました」
 確かにこの近くに大きな商家があった。城下を押さえた伊達軍が此処一帯を燃やしはしないかと武田方は随分危ぶんだのを覚えている。
「要害山のお城が落ちた日、此処とはまた別のお寺に拠点を置いた伊達軍から礼儀作法を心得た女子を数人寄越して欲しいと迎えが来ました。家人は皆、何をさせられるのかと震え上がりましたけど御使者は言われました。要害山よりとある姫をお助けしたのでその姫の身の回りの世話が出来る者を探していると。宛がわれたのは姫君と歳の近い私と肝の据わったばあやと、気の利く下働きの女子が三人でした」
「うん」
「本陣に着いてその姫君が真田幸村様の妹姫だとお聞きしました。伊達のお殿様がお手ずからお助けになられたそうで幸いにもお怪我はない、ですが御身内を亡くされ心が弱っておいでなので話し相手になって欲しいと。確か鬼庭様という御方にそう伺いました」
「吏の綱元か……」
「最初にお会いしたときのお姫様は本当に痛ましくて。食べ物が喉を通らぬ程深い悲しみに沈まれて、でも取り乱されず切れた紅い紐と血糊の付いた打掛を抱きしめて静かに泣いておられました。時折、御髪を飾るこの簪にも手をお触れになって」
「飾っていたの?」
「はい」
 また一陣、風が吹き、佐助は目を閉じてもう一度、そう、と頷いた。

- continue -

2012-10-06

皆様、彼女のこと覚えてらっしゃるでしょうか?