さらば、遠き日(三)

 ――愛らしいあの声が耳の奥に響いてくる。 

「うん、それはね、普段は頭に飾らず懐に入れておいで」
「飾っては駄目なの? 確かに武家の娘が使うものではないと分かっているけど」
「うん、旦那卒倒しちゃうからね。まあそれだけじゃなくてね」
「はい」
 手渡したばかりの簪を握っては不思議そうに佐助を見てきた。簪は遊女や下位の女子が髪を飾るもの、見れば幸村が卒倒する、確かに納得のいく理由付けだった。
「うんとね、姫。これは姫が絶体絶命に陥って敵の手に堕ちたくない、辱めを受けたくない、そう思ったときに使うんだ」
「辱め……」
「破廉恥でございますって叫んでも駄目なときだよ?」
「はい」
「匕首ならすぐに奪われてしまうだろうけど、これなら帯を飾るもの程度にしか見られないだろうし、懐紙と一緒に帯に挟んでおいで。まあ一生使う日なんて来ちゃ駄目なんだけどね」
「どうやって使うの?」
「……喉を突くか、耳を貫くんだ。そうすれば死ねる」
「喉か耳……」
「ああそんな顔しないで、怖かったね。ただの気休めに持っていればいいんだよ? そうだ、尖端で傷つけないように袋でも作ってあげるからさ。大丈夫だよ」

「大丈夫」

 ――不安そうな顔に努めて笑みを湛えながらそんな会話をしたのは遠き日、簪を初めて渡した日のことだった。

******

「この簪はお姫様の御髪にありました」
 娘の声が佐助を過去から現実へと引き戻す。ゆっくり双眸を開き娘を見た。彼女は簪を眸に映しながら、一つずつかみ締めるように言葉を紡いでゆく。
「私が知る限り伊達の本陣に運ばれて臥せておられたときからです。武家の、しかもお城持ちの武将の妹姫様が御髪に飾っておられるのは意外でとても驚きました。けれどこの玉簪の細工が美しくてお姫様を彩っていたのが印象的でした」
 綺麗でしたよ、と娘は続けた。
「あの日は本当に儚くなってしまわれるのではないかとばあやと交代でお姫様に付いておりました。夕方を過ぎた頃お姫様に呼び止められて、私の手にこれを下さいました。手間をかけてごめんなさい、これを何かの役に立てて欲しいと言われた気がします。でも私はただ一言が頭を離れませんでした。お姫様は最後に、私はもうよいのです、そう仰せられて」
「……」
「最初は危惧が本当になるかと危ぶみました。自ら御命を絶たれるのではないか、それならば高価なものは不要だから私に下されたのではないかと」
 一息置いて、娘は首を振った。
「……伊達のお殿様はお姫様を叱られたそうです。何故あの時お城に残ったのかと、真田様を思うなら逃げるべきであったと。お姫様には心当たりがおありになったのかもしれません。それからはただ只管に兄上様の御位牌の前に佇んでいらして、いたく後悔されておいでのように見えました」
姫……」
「一月、お姫様やお殿様のご様子を見続けてずっと考えていました。……それから簪を見て気付いたんです。とても綺麗な簪だとばかり思っていたのですが少し細くて先がとても鋭利なんです。これは邪推なのですが、お姫様は最初あの簪を命を絶つためにお持ちだったのではないでしょうか。事実、別にお持ちだった懐刀は直ぐに取り上げられておられました。お姫様は落城の憂き目に遭われ悲しみに沈んで、でもそれでもお気持ちに駆られて御身を傷つけぬように私に下されたのではないでしょうか。伊達のお殿様は生かそうとなさり、お姫様には僅かでも生きようとする御心が芽生えになられたのではないでしょうかと」
 娘の言葉は静かに佐助を貫いて万感想いが駆け抜ける。彼女は一層大事そうに簪を撫でて心から言を紡いでゆく。
「だから、私はこれを大切にしようと思いました。お姫様の小さな小さな心意気だと思ったから」
 数秒の沈黙が流れ、佐助は初めて彼女に微笑みかけた。
姫は……今は幸せかな」
「最後にお会いしたときはまだ儚げで悲しそうにしていらっしゃいました。でも、でも見てください」
「え?」
「あのお寺も真田のお屋敷の跡も、躑躅ヶ崎の御館の跡と一緒に一番に整えられたんです。この辺りの者は皆言ってます。伊達のお殿様が真田幸村様と姫様を大切に思われていたからだって。私もお二人を見て思いました。お殿様はあまりお姫様の様子を見に来られることはありませんでしたけど、外ではとても気に掛けていらしたんだって」
「――」
「だからきっと、きっとお姫様は幸せになられると思うんです」
「……ありがと」
 それは佐助の心からの言葉だった。十分だ、これ以上にないくらい。娘に指先に広がる甲斐の町並み、自分も見たように想像より荒れ果てていないと思ったのは間違いなかった。独眼竜がに対して相応以上の扱いをしているのは疑いないのかもしれない。
 そのまま暫く町並みを眺めていたがふと娘の視線に気付いて佐助はおもむろに問うた。
「お嬢さんはあの寺にはよく行くの?」
「あ、あそこのお寺はお姫様の兄上様が眠っておられるから」
「お参り? 姫に頼まれて?」
「いえ、そうじゃないんです、私が勝手に。……お姫様は一度、此処にお参りされたんですよ。でも、あの時は伊達軍の方々に囲まれてて、なんというか」
 娘の脳裏に何が浮かんだか、佐助には見当はつけども答えは分からない。
「きっと、姫が知れば喜ぶよ」
「あなたは……」
「えーあー、うん。聞かないほうがいいよ」
「はい、御名はお伺い致しません。お姫様にゆかりの御方、それで十分です。ですから私も名乗りません」
「――そう」
 娘は一番の笑顔を向けてきてそれがふと、落城前夜のを思い起こさせた。それから娘と別れて佐助はまた寺を眺めながらとめどなく思案をめぐらせた。


 あの日、姫の身から打掛を剥ぎ侍女の被衣を手渡したは精一杯の笑顔を湛えていた。
「佐助、死なないで」
「うん、姫も。辛くても諦めちゃいけないよ」
 最後はこんな会話をしたと思う。あの時簪はいつも通り彼女の懐にあった。別れた後きっと彼女は誰にも言わず髪に添えたのだろう。人知れず死ぬ覚悟をして、でも思い直して生きる覚悟をした。幸村の傍で無邪気に笑い、時にその兄を窘めていたあの小さな姫は何時の間に強くなったのだろう。瞼の裏で何度もの笑顔が反芻してゆく。
「ごめんね旦那、また来るからそのときまで待っててよ」
 彼女の無事をこの目で確かめてから、それを報告しよう。もう次は心が詰まって入れないなんて言わないから。そう心に誓って。

- continue -

2012-10-13

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