さらば、遠き日(四)

 一月掛けて甲斐領内と里の様子を見聞して越後に戻ると上杉は大変なことになっていた。若狭の辺りから海路を使ったらしい織田が鉄船で越後領内に侵攻してきたのだ。未だ雪深い越後によもや攻め込むとは思っていなかった家中は一時大混乱に陥ったようだ。だが其処はそれ、軍神の采配により混乱は静まり地の利を生かして難なく撃退したそうだ。だが織田が有する鉄砲の量は看過出来ないものがありその流通を止める必要があった。端的に言えば、織田に鉄砲を流している堺の町衆をこちらに肩入れするようにすればいいのだ。謙信公は堂に篭って数日、それについて何やら思案しているらしい。
 軍神に会う前に佐助は姫の許を訪れた。越後に着いてから姫付きとなった者らは、姫様は気丈に振舞われておられましたよ、などと口々に言うが、佐助から見れば眸の奥には明らかな怖れと心細さが見て取れた。無理もない、攻め立てられた要害山城、国と父母と愛しい人、その全てを失った光景から一年も経っていないのだから。
 また戦なんて、私は疫病神なのかもしれないわ。佐助と二、三言葉を交わした後彼女はそう呟いた。痛ましい横顔に姫と一緒に逃れてきた僅かな侍女らは啜り泣き、未だ褪せることのない残影を呼び起こしてくる。
 謙信に仕える同郷のくの一かすがは、佐助と入れ違うように他の軒猿衆と共に他国へ偵察に出たようだ。気にはなったが正式に謙信に仕えている訳でもない佐助があれこれ聞くのは躊躇われ、何も聞かぬまま数日が流れた。彼女のことだ、戻ればほど良い時にある程度の情報は流してくれるだろう。もしそれが姫に害が及ぶようなことならば直ぐに。なぜなら彼女は姫にひどく同情的であるからだ。

 半月が経ち軒猿衆が一人二人と戻り始めそれからまた一月後にはかすが本人が戻ってきた。軍神の傍を離れない彼女にしては珍しいほどの遠出で、その間姫には姉姫や謙信公から縁談の話があったが姫は首を縦に振ろうとしなかった。連日の攻勢に聊か滅入る姫を遠目に見遣り、かすがは呟いた。
「当たり前だ、時間が経ったところでそう簡単に想い人を忘れられるものか」
「あら珍しい、かすがが軍神に否定的なこと言うなんて」
「茶化すな、謙信様を否定している訳ではない」
「感性が普通の女の子と一緒なのは可愛いと思うけどね。けどそれじゃこの先辛いぜ?」
「お前に言われたくなどない。未だ新しい主を決めれないくせに。甲斐が恋しいか」
「痛いとこ突くねぇ」
 喉を抑えるように笑って見せると彼女は痩せ我慢だな、と呆れ顔を見せた。それから一拍置いて、神妙な顔付きになりまた呟くように言を紡ぐ。
「この一月半、奥州へ行っていた」
「……」
「聞かないのか? お前には気になって仕方がないことなんだろう?」
「そりゃね」
「お前が来て常々思う。お前にもそんなものがあったんだな」
「なにそれ」
 佐助は今の今までどんなにのことが気にかかろうと上杉の軒猿衆が偵察で得た情報を伝え聞くのみで奥州に草を放とうとはしなかった。忍びとしての理性がそうさせなかったのか、とかすがは思い、そして煮え切らない佐助に矛盾だ、と言葉を突きつけたことがある。すると彼は先程のように笑ってみせ妬ましいくらい感情を隠し、この事に関して二人はいつも堂々巡りだった。
「おまえの探し物は――少しずつ心を開いているらしい」
「そう……」
「私はこれを姫に伝えようと思う」
「うん、姫の一番の気懸かりだから教えてあげて」
「ああ」
 おまえも行かないか、と聞くだけ無駄だとかすがは知っている。言うや否やふわりと姫の居室に身を躍らせた美しいくの一を目で追う佐助は流れに任すまま様子を伺う。姫は静かに涙を流し何度も頷きかすがの手を握っていた。ありがとう、とその口は動いていた気がする。
 家中が落ち着き軍神の手が空いた頃、姫は髪を下ろした。乳母である侍女にだけ告げてひっそりと寂しいものだった。佐助とかすがが駆けつけた時には下ろした髪も仕舞われていて流石に呆然としたがそんな二人に、ごめんなさい。前々から決めていたの、と微笑んだ彼女はまるで憑き物が落ちたかのようで何も言えなくなった。遅れて訪れた姉姫は泣き崩れ、謙信公は責めること無くこれもさだめかと瞼を震わせていた。

「ぶすいだとわかっていますが、できるならぞくせにとどめおきたかった。そうおもうのはわたくしのごうまんでしょうか」
 ある日、謙信公直々の呼び出して茶席に呼ばれた佐助は軍神の悔恨を聞いた。かすがは心配そうに様子を見守り、佐助はどうでしょね、とだけ言って口を噤んだ。何故なら答えなど出る訳もないから。しばしの沈黙の後、謙信公は柄杓にゆっくりと湯を注いで一言漏らした。
「だてとわぎをむすぼうとおもいます」
「謙信様……」
「わがえちごにあったおだのしゅうげき、あれはおうしゅうにもあったようです」
「奥州にも?」
「しんぱいいりません。とらのわこのしょうちゅうのたま、かのひめにがいはおよばなかったようす。つるぎ、せつめいしてくれますか?」
「はい。……織田はどうやら北の地に新たな領地を欲しているようだ」
「それは分かるけどなんで越後と奥州なのさ?」
「ああ、順当にいけば甲斐信濃から狙うようなものだがな。まあ、甲斐信濃を押さえているのは伊達だし本拠が混乱している間に甲斐信濃を掠めと取ろうとしたのかもしれん」
 かすがが続けた事情はこうだ。数年来続く織田豊臣の争いにケリを付けたい織田は決定打を打つべく新たに広大な領地を欲した。西には豊臣が陣取り、それならば北へ東へ、加賀の前田を配下に置き、三河を滅ぼし遠江駿河を射程に収めた。その課程でどっちつかずであった堺の町衆を引き入れて、種子島を大量に供給出来るようにすると、その種子島を手に最北端の一揆衆を襲撃し伊達を圧迫、そして一方は加賀の前田領を通過して越後攻略に乗り出したようだ。
「馬鹿だな、上杉も伊達も大大名。譜代も財も不自由せぬ我らがそう簡単に落ちるものか」
 それはただの小手調べであったのかもしれない。ただ、伊達側の様子を探るに付け魔王織田信長の正室濃姫も参陣していたと聞き知ればどうとって良いものか一考の必要があった。軍神も相当疑問に思えたのかもしれない。
「うえすぎとだて、このふたつがむすべばさかいのまちしゅうどももさぞおどろくでしょうね。せんじつおだとくむためにていたくとよとみをみかぎったといいますよ。いこくとぼうえきしとみをえて、かちうまにのりたかったのでしょうが、きたのこうだいなちときんざん、それからわれらのへいをあまくみないことです」
 茶筅を回し点て終わると謙信公はふたりにそれぞれ碗を差し出した。まわしてひとくちのむよりたくさんのめたほうがいいでしょう。さほうもてきどに、と笑むと自身もまた碗を手にして口を付けた。
「とよとみもねごろしゅうやさいかしゅうとむすぼうとしているようですが、ふふ……いかがあいなるか」
「伊達は応じますかね」
「おうじるでしょう。あのりゅうはうつけではない。――しんぱいにはおよびませんよ。まんがいちにもとらのわすれがたみにてをだすこともないでしょう。むろんわたくしもさせません」
 こうして同盟を結ぶ遣いが奥州へ派遣されたのだった。流石に言い出しづらかったその決定を姫に伝えると彼女はそう、と言い、心知らずの名を呟いた。白い手から少し覗く数珠が否応なく哀情を誘った。


 そして、上杉側も伊達側も様々な想いを胸にこの同盟は締結されることになる。軍神は最後の一押しの為に内々に奥州を訪問した。心情とは違い、真田でなく上杉の者として独眼竜の本城を訪れた佐助は例の如く庭の木々からの様子を眺めていた。その姿を見るまで本当に大切にされているか、辛い目にあっていないか散々心の臓が抉られる想いだった。
 仇であり背となった独眼竜に呼ばれ現れたは流水の上に杜若をそえた花筏を浮かべる文様の打掛を羽織り静かにその横に座った。その眸に竜に対する恐れはなく、竜もまた懇篤な色を左目に湛えていた。ああそうか、と佐助はひどく安堵し姫の話を伝え聞き涙するに胸の奥底が熱くなる。幸村が見たらどれ程喜ぶだろうと。
 その後、軍神の意を受けたが一旦退席すると佐助は伊達側の前に姿を現した。独眼竜はぴくりと眉を顰め、竜の右目は珍しく目を見開き、そしてかすがと睨み合っていた竜の従弟は一層警戒の色を強めた。どーも、お久しぶりと軽口を叩く佐助の心中を得た謙信公が形見の受け取り役に佐助を指名すると独眼竜は黙って頷き、佐助が飄々としたまま手を振って辞すると遠くで謙信公の声がする。かんしゃします、と続けた軍神が何故か信玄公と重なり、星の廻りは分からぬものだと痛感した。

 最初は奥御殿に居たというが今は主殿にある一角がの居室だという。政宗の居室とは幾つか部屋を挟むがそれぞれの部屋の用途を考えれば実質的に隣といってよかった。軒猿衆から聞いた、独眼竜が正室を傍に置いて離さないというのは事実なのだろう。
 長櫃を開け大事そうに中身を取りだすの姿は母君山手殿に似ているかもしれない。姫の無事が知れただけで十分、文は不要だという彼女には思慮深さも加わったと感じるのは佐助の贔屓目だろうか。
 どんな言葉を掛けようかその答えが出ぬまま佐助は彼女の前に立つ。口をつくのは何時もの軽い自分、驚きに染まる彼女の眸に一層の懐かしさを覚える。竜の右目の姉という女を制し二人きりになると彼女は取り乱すでも泣き出すでもなく、佐助と同じく懐かしさを浮ばせて花唇を笑みで彩った。
 遺品を受け取り双方と止め処なく話しをした。やがてが幸村から受け取ったという匕首を差し出し、自分は伊達の女になると言った。眸は滴に濡れながらも静かに笑む彼女は佐助の知る小さな姫ではなかった。悲哀や様々な感情を知ったであろうは一年の間にとても美しくなったように思う。そして強く。その様に自然と今まで口にすることが出来なかった言葉が漏れ出でる。別れの日感じ取った幸村の想い、意思とは関係なしに出るようで、旦那が言わせてるのかもしれない等と埒もない思考が廻る。
「柄にもなく言いたいこと纏まんないや。でもね、きっと旦那は喜んでるよ。望むとおりになってくれたって」
「そうだと嬉しいわ。……佐助」
「うん?」
「佐助、あの……」
 簪のことだと直感的にそう思う。今度は佐助の心が溢れる番だった。
 ――おばかさんだね、俺様に詫びなんていらないんだよ。よく悲しみに駆られてその首に突き立てなかった。耳を貫かなかった。頑張ったね姫、強いね姫。生きるって約束ちゃんと守ったね。沢山覚悟もしたんだろうね、沢山泣いたんだろうね。あの時俺様に死なないでって言ったよね、俺様もちゃんと生きてるよ、約束守ったよ。
「いいんだよ、よく頑張ったね」
「佐助っ……」
 ――ああ、俺様その顔に弱いんだ。可笑しいね、無く子も黙る真田忍隊の長なのにさ。
「泣かないで、笑って見送って、ね?」
 健気にも懸命に笑むに佐助も限界だった。音も無く立ち上がり背を向けて、最後に幸村を守れなかったことへの謝罪を口にすると黒い靄の中に身を躍らせたのだった。

 の前から消えて木々に乗り移った佐助の手には形見の打掛と幸村の遺髪がある。佐助はまた一人呟いた。
「きっと姫は生きていける、簪はもう必要ない。旦那、旦那の目に狂いはなかったね」
 風が吹けば打掛から微かに懐かしい香が香り、遺髪が少しだけ靡く。それがまるで幸村がそうであろう? と言うようで佐助の目頭も熱くなるのだ。天を仰ぎ佐助は覗きはじめた月を見る。暫しの間この忍びにも涙を流させて欲しい。ほんの、昔馴染みのくの一が様子を見に来るまで。

 眺める月が三日月であることに気付いて、蒼天の忍びはほんの少し悔しくなった。

- end -

2012-10-20

【風に追慕】〜【さらば、遠き日】まで全二十六話、武田時代&佐助視点のお話はこれにて完結です。 最後までご高覧頂きましてありがとうございました。今回もちょっとした後書を設けましたのでご興味のある方はどうぞご覧下さいませ。 後書→