年が明けて庭の端々に春を感じる時候、は広縁に座して眸を閉じていた。ここ十日ほど遠くで聞こえる鳥の啼き声は瑠璃鶲であろうか。すっかり耳に馴染んだこの声がの心を落ち着け慰めてくれる。
信州の雪解けが過ぎ緋寒桜も蕾をつけ始めた頃、兄幸村は家中の主だった者達を連れて出陣した。此度の相手は稀代の戦上手、越後の軍神上杉謙信と聞き及びただ待つ身のは気を揉むしかなく身の置き場の無い日々だった。見かねた侍女の一人が半時でもゆっくりお庭を眺められては如何ですか、と勧めて以来毎日同じ時間、同じ場所で、美しく春を迎えた花と木々を愛でる様になっていた。侍女の提案は一定の効果があったようで、鳥の囀りは耳を、咲きかけた花は目を楽しませ、春の風は心に安寧を齎してくれた。
考えてみれば兄の居る間の城内は活気に満ちて人の声ばかりがしていた気がする。あれでございますよ。亭主元気で留守がいい、なんて言いますでしょ? たまには静かを楽しみませんとね、と今年四人目の子供が生まれた家臣の内儀がその様なことを言っていた。心に余裕が出来れば、それもそうね、等と軽口も叩ける。尤も、兄は夫ではないけれども。
それからは兄達の無事の帰還を信じて、はこの静かな時間を楽しむことにしている。負の気持ちは何時でも不吉であろうから。
足音がして閉じた目をそっと開けば御付の一人が茶と薄皮饅頭を持ってきた。甘味が好きな兄の茶の相手をしていた為か、近頃は幸村が居らずともにも甘味が割り振られることが多くなった。好きと言うほどでもないし大量に食す訳でもないが、要らぬといえば持ってきた者らにも角が立つ。後で侍女らに分ければ良いかと思い至るとは素直に受け取ることにした。
茶を一口含み嚥下するとふわりと香る匂いと口の中に残る旨みが良い。これは確かお館様から頂戴した茶葉であったと思い至ればその味に納得いくというものだ。は先程の考えの通り、控える侍女とたまたま庭先の掃除をしていた下女らに饅頭を与えて皆が感嘆し談笑するのを見て取るとそっと懐に手をやった。
其処には懐剣袋にも似た西陣の細長い袋。先の任務で余った西陣で作ったと大好きな忍隊長が言っていたのを思い出す。袋の紐をそっと解いて中身を出すとの口からは心知らず安堵の息が漏れた。取り出したものはその忍隊長が同じく先の任務の帰りににと手に入れてくれたという簪。これがどんなものでどんな人が身につけるのか知らなかった頃は無邪気に欲しがり大人を困惑させたものだ。もし父に駄々をこねたなら頭ごなしに駄目だと窘められ、老臣達からもお説教をされただろうと思う。だがあの忍隊長、猿飛佐助は困った顔をして何時か買ってあげると約束してくれた。約束は守られて今の手に在る。はぁもう俺様も甘いよね、と頭を掻く彼の姿が像を結ぶとの頬も緩んでしまう。これがどういうものかきちんと教えたのも佐助で、持たせるそれなりの理由も教えてくれた。手放しに喜べるものではなかったけれど我が身を心配してくれていると分かるからこれを見るだけで心はとても温かくなってゆくのだ。ひょっとしたらあの話はこじ付けで、彼の照れ隠しだったのかもしれない。
相変わらず見事な細工、大切にしなくてはとそっと袋に仕舞い、懐に入れる。懐に入れて持ち歩くのも佐助との約束。そう、二人だけの約束なのだ。
不意にガチャガチャと具足の触れ合う音が響き、いつの間にか瑠璃鶲も何処かに飛んで行ったようだ。騒がしいけれど大切な日常がまた始まる音、は心知らず笑んだ。
――兄の帰還だ。
「おお! 此処に居ったか」
「はい、御戻りなされませ。まずはご無事のご帰還何よりにございます」
「うむ」
頭を下げ口上を述べるに幸村は、そのように改まずともよいと続け、侍女が差し出す敷物も断りの横に腰を下ろした。彼は目上にも目下にもに兎角礼儀正しく、意外に作法に厳しい人となりであったが自分のこととなるととても気安い人だった。
「帰陣の三献の儀はもうお済みに?」
「ああ、其方も来れば良いものを」
「私は武運に縁の無い女子ですし」
「其方の顔を見れば皆喜ぶぞ」
「ありがとうございます。残りですけどどうぞ」
「おおありがたい。戦場には持ってゆけぬ故恋しかったぞ」
まだ残っていた薄皮饅頭を差し出すと兄は屈託の無い笑顔で口に入れた。幼い頃は佐助から一本も取れなかった兄も、元服直前になる頃には信じられないほどの使い手に成長し、今ではその名は国内外に広がっている。背も伸び腕も太くなり顔は精悍になったが甘味を頬張るその顔だけは変わらない。
幸村の様子を見ていただったがふと気になって問うてみた。
「兄様、此度の戦はとても激しかったのですか?」
「うん?」
「何時もより具足が擦れていますし」
「ああ」
「それから、一等心が躍っていらっしゃるように思えます」
「そうか」
命の遣り取りの場は血が滾ると皆は言う。何時に無く戦の後の高揚が未だ幸村を覆い糸を張っているようで、の前では血生臭さも戦の焦燥も見せぬ彼にしては珍しいことだった。優しい兄も戦に出ればその例に漏れずなのかもしれない。
「一番手柄でもお上げに?」
「其方は勘が良い」
だが向ける笑顔は変わらない。
「――うん、そうだな。面白い男に出会うたのだ」
「面白い男?」
「ああ。知っての通り此度の相手は越後の軍神、お館様も我らもそのつもりで陣を張っておったのだが覆わぬ方向に運んでな」
「思わぬ方向?」
「どうなったと思う?」
「まあ兄様」
まるで謎かけのようでもあり問答のようでもあり、普段の兄からは想像出来ない言い回しには目を見張り、そして口元は緩む。
「には分かりません。素直に教えて下さい」
「ハハッ、白旗を上げるには早うないか」
「お話が気になるのでさっさと恭順の意を示すことにしました」
妹の言葉に幸村は掻い膝に姿勢を崩して膝に乗せたほうの手の甲を口に当てて喉を鳴らすように笑った。
「其方に叛意とは想像がつかんぞ」
「足元を掬われますよ」
「全く近頃は油断がならぬ。――話を戻すがな、乱入者が出たのよ」
「乱入者? 戦場にでございますか?」
「そうよ! 突撃してくる軍勢が謙信公かと身構えておれば何か違うのだ。旗指物をよう見れば竹に飛び雀と思うたそれが竹の形も雀の形状も違う。何処の紋であったかと一瞬考えたがすぐ思い出した。あれは奥州の伊達だと」
「奥州の伊達が信濃まで南下しておるのですか。領地的なこともですけど奥州はまだ雪解けも……」
「ようようして来た頃であろうな、俺も驚いた。更に驚いたのは対岸に張っておる上杉陣の後背を伊達の別働隊が突いていたことよ。あの軍神がお館様以外に隙を突かれることがあるのかとな。それから俺の隊に突撃してくる旗指物の一群から一際強い軌跡を放って迫る者がおった」
幸村の眼には一層の高揚が浮かんでいる。茶を持ってきた侍女は話しの骨を折らぬようそっと横に置いて下がってゆく。
「目の覚める様な蒼の陣羽織に三日月をかたどった兜、六の刀を自在に操る男だ。いや、忘れられぬのはあの眼よ。隻眼であるというが遜色など全く感じない、寧ろあれが両目であるなら適う者など居らぬのではないかとさえ思えた」
「まあ」
「その男か伊達の当主、独眼竜伊達政宗。刃を交えて痛感した。あれ程血が滾る相手がおるのかと。いや全く、お館様以外に心躍る使い手がおったとはな」
「お強うございましたの? 伊達様は」
「ああ、俺とは実力伯仲と言ったところか。最後は双方の家臣が止めに入った故、互いに体力は減ったが傷を負うには至らなんだ。此度は引き分けよ」
「御身十分にお気をつけになって」
「案ずるな、俺は負けぬ。――だが見事であった。あの男とは再度刃を交えたい」
「まあ」
何故か一抹の不安がの心を過ぎった。主君武田信玄の上洛の為にだけ邁進していた兄に此処まで言わせる伊達政宗とはどのような男であろう。幸村が遠くへ行ってしまうような今までに感じたことの無い漠然とした何かが芽吹いた気がした。
「もー旦那、敵さんのことばっかり褒めてちゃだめでしょ。独眼竜に遇って楽しかったのは分かるけどさ、おかげで今回の戦はごたごたで処理が大変なんだから」
と不意に頭上から掠めた声はその芽吹きを一掃するものだ。橙色の髪が屋根の上からひょっこりのぞいている。
「佐助」
「おおそうであった」
「はーいただいま姫ちゃん。変わりなくて俺様一安心」
いつも通りの飄々とした物言い、汚れ一つ綻び一つない忍装束は彼がなんの怪我もなく無事に戻ってきた証だった。
「おかえりなさい佐助、お怪我が無くて良かったわ」
「んふふー俺様デキる忍びだからね。ちょっと旦那、馬で駆けてあれだけ砂埃浴びたのにそのまま来たでしょ。超埃っぽいよ」
「あ、すまぬ。風呂にも入らず来てしもうた」
「まあ兄様、お構いなく」
「そういう訳にはいかないの。旦那が歩くところ全部砂が落ちちゃうよ。お掃除する人大変。さっさと湯殿に行く行く」
「むぅう、分かった。また後でな」
「はい、ごゆっくり」
幸村は勢いよく立ち上がり大股で湯殿へ足を向ける。その後ろ姿は嬉々として、尚も機嫌のよさを感じさせた。幸村が角を曲がるまで眺めていると、ずいっと目の前に佐助の顔が現れた。
「はいはーい。姫はこっち向くー」
「っ!」
「おっ合格。きゃーとかひゃっとか言うかと思ったのに。まあそれでも可愛いけどね」
「何が合格なのっ、びっくりした」
「俺様のお姫様育成計画の試験です」
「いくせい?」
「んふー、姫ちゃんがお嫁に行ったときに俺様一人にやにやするんです。だから詳細は内緒ー」
「はぁ」
佐助は腰に手を当て満面の笑みを作って続けた。
「とりあえず旦那がお風呂でゆーっくりして一息ついてる間に機織り場に連れてったげる。行きたいって言ってたでしょ?」
「え、いいの? 佐助もお休みしなくて大丈夫?」
「うん、俺様疲れてないしこの通り泥も無くて綺麗でしょ? いい子でお留守番してた姫ちゃんにステキ忍者さんからのご褒美だよー」
「ありがとう、大好きよ佐助」
「俺様も姫だーいすき」
は佐助は優しい、と笑顔を振りまき、佐助は俺様甘すぎ、と頭を掻きながら広縁を進み行く。戦の後になんとまあのほほんとしているのかと庭師と下女は作業の手を止めその姿を眼で追った。でもそんな日常があるからこそ死地から帰ってこようとするのかもしれない、と数ならぬ身は臆度する。庭師と下女は手の中にある淡い色の薄皮饅頭を見て、我知らず口元が緩んでいた。
- continue-
2012-09-08
佐助的プ○ン○ス・○ーカー。
10,000hit企画、茜さまリクエストの『戦国【雁の聲】 幸村が政宗と初めて出会ったことを言う話』です。茜さま長らくお待たせ致しました!
久しぶりの筆頭がらみです!若武者らしい幸村とそれを助けるデキる忍者佐助etcをうまくかけていればいいのですが。よろしければご笑納ください。
砂糖入りのお饅頭は超高級品だったそうです。スーパーで見かける薄皮饅頭、大切に食べようと思う私です。