同じく惜しむ少年の春

 外に出れば宴の熱気とは打って変わり秋爽の気がそこに在る。幸村は渡殿の柱に手をついて深く息を吐いた。
「……なんと昨今の女子は慎みのないことよ」
 すでに夜の帳が降り鈴虫の啼く声は心に平穏を取り戻してくれる。夏が過ぎた今、蝉の声よりこの鈴虫の声の方が良い。幸村にとって失礼ながら先程までは蝉の声に包まれているが如く脳をかき乱すものだった。いや、それが可愛いと思えねばならぬのだろうか。まだまだ精進が足らぬ、と首を振る。
「否否、俺が不甲斐無いのは認めよう。だがはああならぬようにしっかりと教えねば」
 もし忍隊の長が聞いていれば、良かった、教育方針は俺様と一緒だったと言ってくれるだろうか。そもそも幸村にはあの妹が男に擦り寄るところなど想像もつかないが。
「しかし……」
 何時からだろうか、女子がこれ程苦手になったのは。妹に抱く感情は今も昔も変わらない。たった一人の可愛い妹、苦手だと思ったことは無い。母も好きだった。母のあわせた香をいい香りだと言うととても柔らかく微笑んでくれたのを覚えている。穏やかで懐かしいあの日々から女子が苦手になる日常が待っているなどと誰が予想出来たろうか。
「まこと、人生とは分からぬ……」
 幸村は再度深く深く息を吐いた。鈴虫が吟じる唄が慰めのようにも感じて少しだけ情けなくなった。

 日ノ本一の兵がはぁと息を吐いていると不意に後ろから、大げさね、と声が耳に響いた。
「うぉっ!」
 予想外の声に不覚にも情けない音を吐き出してしまった。間髪入れずがばっと後ろを振り向けば薄紅に荻の花をあしらった打掛を身に纏った愛らしい人の顔がそこに在った。その相手は聊か頬を膨らませて自分を見つめている。
「これは姫っ」
 ドキリと鳴る心音を抑え急いで膝をつき頭を下げると相手からは一層不機嫌な、否、寂しげにも似た気色が漂ってくるのに幸村は当惑した。如何したことだ、宴の席で不埒な振る舞いにでも遭われてしまったのだろうかと気にはなるがずけずけと聞くのも憚られた。何といっても相手は敬愛する主君の末の姫君、幼子の頃とは違うのだから。
 幸村、と名を呼ばれ内心息を呑んで顔を上げる。
「はっ! ――うぉぶはっ!」
 盛大に仰け反ってしまった。姫は屈んでおり、顔を上げた視線のすぐ先に花の顔を惜しげもなく晒して近づけていたのだ。予想外の事態に今度は血液が沸騰しそうだった。当の姫といえば、驚きすぎ、唾散ってるわよ、と無礼を働いた幸村に動じることなく頬に手を当てている。
「ここ、これは面目ないっ!」
 何たる失態、驚いたとはいえ主君の姫の顔に唾を飛ばしてしまうとは。まずはお拭きせねばと懐やら漁るも妥当なものが見つからず、漸く拭けるような物と探り当てたのが己が額当てぐらいしかないのだから情けなくなる。これが身綺麗で女子への気配りが出来る高坂殿であるなら万事怠り無いだろうにと思わずにはいられない。
 幸村が途方にくれていると小さな笑い声が包む。妹の鈴を転がすような声とはまた違う、だけどひどく耳に残る姫の声だ。
 怒ってないわ、そんな顔しないで、とその声が告げるに殊更申し訳なくなってしまう。
「いや、重ねて面目なく……」
 幸村を思い遣ってか姫は戯けてみせた。そんなことより武人たるもの簡単に背後や目の前を取られるようではなりませぬぞ? 幸村殿、と。
「姫」
 だが、まことお人の悪い、と紅蓮の鬼真田幸村は居心地が悪くなる。この姫はいつも幸村の二手も三手も先を見据えているようで傍に居られるとどうしようもなく落ち着かない。先程とてそうだ。幼い頃父からも散々言い含められ今もまた姫に言われたが、武人たるものいつ首を取られるか分からない。だからどれだけ他に気をやっていたとしても周囲に怠りなきよう警戒しているのにこの姫はいつの間にか傍に来ている。鈴虫の声は聞こえていたのに姫の衣擦れの音は聞こえなかった。全く姫は神出鬼没。嫌いなのではない、気さくな姫は寧ろ好ましいと思っているのに。
 幸村、と全てを打ち消すかのように再び姫の声色が幸村の耳傍を撫でてゆく。
「はっ」
 返事をすると少しだけ機嫌が良くなったと思っていた姫御はまた頬を膨らませて、ややあって眸を逸らしてしまった。妙齢の女子の心に疎い幸村ははて、と首を傾げるしかない。なればこそ心を砕き、凝結する心情を解して差し上げるのが務めというものと脳を奮い立たせ真摯に問うた。
「姫、如何なされたか」
 だが彼の人は別に、と首を振るばかり。
「したが姫は虫の居所を悪うなされておられる」
 姫はなんでもないと再度首を振り、その為様に戸惑ったが幸村も引き下がるのはやめた。
「いや、姫の機微に気付かぬ幸村ではござらぬ。お話下され」
 伏せる眸の形の美しさに人知れず見惚れていた。思わず言葉が口を滑ってゆく。
「某が何かしたのですね」
 そうじゃないわ、と応える姫が今の幸村にはもどかしい。
「姫、言うて下され。某気をつけまする故」
 そう続けると佳人は驚いた顔をして見つめ返してくる。その唇から、それは私が父の娘だから? と憂いとも恐れとも含む声音がして幸村を突いてきた。まるで互いが槍衾の攻防をしているかのようだと思えた。
「? 仰っている意味が分かり申さぬ。確かに姫はお館様の姫君。なれば誠心誠意お仕えするが某の役目」
 姫の花唇は、そうよね、なんでもないのよと頷き、そして、私はただ……と続く。打掛の衿にある手許が僅かに握り締めるのを見て取って幸村は聞き返した。
「ただ? 何でござろうか」
 すると彼女はばっと幸村を見る。そして次に発せられる聲は槍雨の如く幸村の全身を刺してくるのだ。

 私ともお話して欲しかったし、お酌もしてあげたかったなって……。

「っ――!!」
 なのに幸村は他の女子と……、行きたくても私が行ったら他の者は遠慮しなきゃいけないし、そうするのは我侭だし……今だって幸村に八つ当たりだし……。
 恥ずかしくなったのか最後には眸を潤ませて姫はまた下を向いてしまった。
 幸村は硬直した。姫はなんということを仰るのか、心の臓が高鳴る。姫の潤んだ眸、ほのかに朱を添えた頬、消え入りそうな声、瞬時に理解してしまった。そして思い出したのだ。
 女子が苦手になったのはこの姫と逢った日からだ。姫に微笑まれると旨く話せない。何を言われても傍に居られるだけで鼓動が早鐘を打ち落ち着くことがない。だが姫の声はこの上なく心地よく何時までも傍に居たくなる。他の娘をみて落ち着かぬのは姫様を思い出して堪らないからだ。
 ああもう忘れて! 幸村の莫迦! と、動かぬままの幸村に大層居心地の悪さを覚えたのか姫は立ち上がる。姫が打掛を翻して一歩踏み出そうとした途端条件反射のように彼女の腕を取った。
「姫、お待ちを」
 静かに、気を安んじて己の素心を吐く。
「この幸村、その、自惚れてもよろしゅうござるか」
 すると驚いた花の顔は次に一層笑顔を咲かせて頷いた。攻防は完全に幸村の負けだ。
 二人はどちらとも無く手を握って互いに染まる頬を見せまいとする。そして其のうち、そっと待宵の月を見るのだった。


 そして此処に、宴の席を飛び出した幸村を追って来た者達が居た。局の角に隠れ渡殿を伺いながら各々思いの丈を声に乗せる。
「いやあ超展開だったけど幸村様頑張った!」
「旦那変なところで鋭くて肝心なところで鈍感だもんなー。誠心誠意の部分でもう駄目かと思ったけど」
「いやー良かった良かった」
「てか思い立ったら吉日みたいに気付いたら直球でしたよねー幸村様」
「どうするー? 今出るのは流石に間が悪いよね」
「みんな、もうっ。戻りましょう、ね?」
姫様こういうときはからかってみるのが楽しいんですよ」
「この先大変ですよ。何せ相手はお館様の末の姫君。幸村様どうするんだろ」
「ねー」
「シーッ。聞こえるわっ」
 忍び達は暢気では一人あわあわとして嫌な汗が出る。図らずもそうなってしまったのであるが出歯亀をされたと知ったらあの兄と姫様はなんと言うだろう。この場で一番年下の身でも今はそっと退散するのが最善の策だと知っている。だが――
「心配要らぬ!」
「えっ!?」
「お館様!!」
 そうは終わらせてくれそうに無い御方の怒号のようなお声と姿が見えて内心は絶望した。
「流石は儂の姫、欲しい獲物は自らの手で取りに行ったか! 一番手柄じゃ!!」
「獲物て」
「お館様お声がっ……」
「ここは儂の国で儂の館! 気遣いは無用ぞ!」
「ちょ、てかいろいろ言いたいんですけどそれでいいんですかー!? 姫様の進退とか好きにさせて」
「幸村ならばの! それ以外であったら他国へ遣るつもりでおったわ」
「まじすか」
「今宵は祝いじゃ! 朝まで飲み明かそうぞ!!」
「お館様っ畏れながらお静かに……っあ……」
 ガタリと音がしてがそっと見ると、視線の先にはふるふると身を震わせた姫と口をぱくぱくとさせた幸村の姿。これはまずい、本当にまずい、と忍隊長を見ると彼はにやりと笑い、を抱えて木々に飛び移った。
「大将ー頑張って下さいねー」
「ぬっ! 何じゃ佐助? ぬがぁっ!!」
 ああっとは眼を覆った。甚だ無理からぬことだが、あの優しい姫がこともあろうに父信玄公の脳天を扇で思いきりぐりぐりと押すのだから。繊細さの欠片も無い父上なんて嫌い! などという声が聞こえ、主君は愛娘に防戦一方。こうなってはがこの場を収めれる可能性など無きに等しい。ああ、三条の方様か御重臣のお歴々が早くお止め下さればと願うばかりだ。
 そしてその無理からぬことをされたもう一人はどうなったろうかとそっと見やると、へこんだ柱の傍で兄幸村は渡殿の床に突っ伏してしまっていた。某破廉恥なことを! とでも言ってぶつけたのだろうか。
「ああ……」
「まーそうなりますよねー」
 の抗議の目も忍隊の長は例の飄々とした笑顔でかわして次の木々に移る。翌朝のことを考えて憂鬱なは、皆を照らす美しく冴えた待宵の月がなんだか恨めしく感じてしまいはぁと溜息をつくのだった。

- end-

2012-09-01

花を踏んでは同じく惜しむ少年の春、2話に分けたお話はこれで終わりです。
「本編前の姫の平和な日常」ということでしたので、平和な武田家中と出番が少なかった兄上の春を織り交ぜてみました。はまこさま如何でしたでしょうか?

姫様の名前は皆様お好きな名前を想像してきゅんきゅんして頂きたいと思います。 姫様の科白はわざと「」(カギ)をつけておりません。参考は松姫ですが史実の姫ではなく架空の姫として書いておりますので名前を付け、科白を付けてしまいますとキャラが立ち、ダブルヒロイン的になってしまうかなと思った為です。

恥らう姫から根掘り葉掘り聞き出そうとする幸村は自覚の無いドSだと思います。そうであったらいいと思います。それから武田家中は皆娘に弱いとなお良しです。
大変楽しく書かせて頂きました。はまこさまありがとうございました!