花を踏んでは

 甲斐国躑躅ヶ崎館――

 其処は国主武田信玄の居館。お館様たる信玄公は要害山に詰城は持つものの平素はこの館で暮らし国政を行っている。国主の本拠にしてはこの居館は至極簡素だ。平地にあり堀が深いかといえばそうでもなく浅く一重に巡らせただけ。要害山城よりは便利であろうが不測の事態の場合はどうするのか、と何度となく家臣が諫言することもあったが信玄公は豪快に笑い飛ばすばかりであった。
 今日はその信玄公が武田道場なる家中恒例の手合わせの場を設け、各々武芸を競い、力を競い、知を競っている。参戦するのは男たちばかりだが、此度は各家臣団の妻子が見物する場も設けられ、男たちはますます力が入っているようだ。武士(もののふ)達は皆真剣で、その場にはえも言われぬ気迫と熱が充満している。
 その中には、当然上田城主真田幸村の姿もある。信玄公が期待を寄せる若武者、整った容姿に実直な人柄、槍を持てば一騎当千。その様な彼を隅に置くはずもない。否応なく今回の催しの主役であるようだ。
 道場の外からも聞こえる幸村の怒号、武士らの喚声、子女らの黄色い声、その全てが佐助の頭を掻き毟る。
「雲の峰も過ぎて鰯雲の季節になったっていうのに……ハァ」
 時候はそろそろ秋の日は釣瓶落しと銘打たれる頃、なのに。
「暑苦しいったら」
 頬を掻きながら木に凭れ掛かる。やがて遠くで信玄公と主君幸村が殴りあう音が入り始めると額に手を当てるしかなかった。

 武田道場の結果はといえば幸村の独壇場であったらしい。最後は信玄公の登場で道場の一角に豪快に突っ込むことになったらしいが、それでも喚声と声援を独り占めしたのは幸村であったようだ。汗を流した後は湯を浴びて当然宴だ。この場でも幸村は引っ張りだこである。
 前述のように、此度は女子の観戦の席も設けられたことから宴にも多数の花が参戦しており彼女らの標的もまた幸村だ。実直と生真面目の度が過ぎてきた幸村は年を重ねる度に女性の扱いが不得手になってきたようで今の現状に右往左往している。
 あーらら、と無礼講故宴の末席に加わっていた佐助は配下の忍び衆と共に顔を緋色に染め上げる主君を傍観していた。
「そろそろ慣れないとねぇ」
姫様相手だと普通なのに」
「そりゃ妹は違うんだろ」
「お、ありゃ小山田様のとこの姫様じゃね?」
「甘利様んとこのおひいさまも居るぞ」
「やるねー幸村様」
 とまあ忍び達は気楽なものだ。忍びだけではない。家臣団はじめ末端に至るまで今日は浮き足立っている。それもそのはず今宵は特別なのだ。信玄公は気風が良い、それ故に無礼講の宴は多々あるが、此度のように家臣の子女が集まる宴はそうそう無い。普段お目に掛かることの出来ぬ家臣らの珠玉の花、どの娘が良いであろう、どの殿御が良いであろうと皆々品定めに忙しいのだ。その穴倉に放り込まれる幸村などは格好の餌食かもしれない。ああお気の毒にと各々真菜を突く。
「皆楽しんでますか?」
「あ、姫様」
 主君の進退を憂いていると聞きなれた衣擦れの音と愛らしい声が耳に響く。笑みに彩られたは佐助らの前に銚子を手に座した。鬢批前の身であるが他子女の例に漏れずもこの宴に参加していた。それってどうなのよ、と思う反面その分不埒者が何も知らぬ彼女に手出しをせぬよう忍隊できっちり護らなければなるまい。
「お館様のお言葉に甘えて存分に」
「良かった、さあどうぞ」
「お姫様にお酌して貰えるなんて俺様大感激」
「お口がうまいのね」
「そりゃ長ですから」
「六郎もどうぞ」
「ありがたく。幸村様の傍に行かないんですか? 姫様に労われるなら幸村様もお喜びになりますよ」
「けれど今行くとお邪魔でしょう?」
「あの目は助けを求めてる目だと思いますよ」
「……そうみたい」
「かといって行くのもねー」
 姫御の話などそっちのけでこちらに救援を請う幸村の視線に気付いたのか、周りに居るお姫様方の目は兎に角怖い。適当に用事を付けて助け舟を出すのは簡単だが子女の恨みを買い忍びの仕事に弊害が出てはことだ。同じ武田家中に居る以上人間関係が何処に繋がるか分からない。ましてやその鬱憤が躑躅ヶ崎館に上がるに当たるようなことになっては目も当てられない。結果、佐助はおおらかに見守る、という選択肢を選ぶことにしてに耳打ちした。
姫」
「はい?」
「ああなっちゃいけないよ」
「?」
「長……」
「つか嫁入り前のお姫さんが、あーあ、あんなに引っ付いて。お父上たちはなんとも言わないのかね」
 何か言いたげな六郎を尻目にそれまで粗菜を突いていた十蔵がこれまた人事のように呟く。何気なく周囲を見回せば、子女らの父は幸村を茶化すか、各々の話題で盛り上がり娘を気にかけた様子もない。これが幸村との父昌幸であったなら口うるさくを男から引き剥がしていたことだろう。遠い日、城下に下りた子供達を追いかける亡き主君の顔が想を結ぶと佐助の頬は緩む。
 ああ俺様、それなりに昌幸様のことも好きだったんだなと目を閉じ、盃に揺蕩う酒を一気に呷って続けた。
「だよねー。きっとそろそろあれが来るから大丈夫と踏んでるんじゃない?」
「あーあれかー」
「あれですかー」
 瞬間――

「破廉恥でござるぅぁああぁぁぁぁあぁぁ!!」

 躑躅ヶ崎館を耳を劈く絶叫が響き渡った。うわうるさっ! と思わず口を突いた言葉を六郎に窘められたが格段気にするでもなく、佐助は声の方向を仰ぎ見る。佐助の視線にも気付かないのか声の主は、破廉恥破廉恥と連呼し酷く狼狽しながら宴の場から逃亡し、後に残るのは酒の入ったままの盃と馳走の数々。そしてその逃走劇の素早さに唖然としたまま座する子女と家臣達だった。見慣れているはずのの手とて止まり、間を取り持つかのように宴の席を秋風が一陣舞っては消えた。
「どーすんのこの空気」
 予想よりド級の声音が全てを掻っ攫っていった。流石真田幸村、とは言うまい。
 だが不意に。
「ふはははは! 幸村も相変わらずの堅物よ。落とすには相当根気が要ろうぞ。のう?」
 信玄公だ。彼がそう言えば皆はっとして動き出す。絶叫に打ち勝つには豪快な笑い声だということなのだろうか。
「いやいや、難攻不落とはこのこと。幸村は何れの花にならば落ちるのやら」
「皆、見目は申し分ない。後は立ち居振る舞いと教養と言ったところかのう」
「まあそれでは姫方が可哀想。滅多にない機会故心が弾んでおるだけのこと。普段どおり穏やかにお声をかけられればまた違うはず」
 信玄公、その弟信繁様、継室三条の方が口々にそう言えば家臣らも追従するように会話は元に戻っていった。ただ、姫方ははしたなかったと恥ずかしくなったのか各々の父の傍に下がり下を向いてしまったようだ。こういうとき声を掛けれる男がいい男なんだけどなぁと佐助は酒を呷りながら周りを見るが、気付かない者や声を掛けあぐねる者だけしか居ない。
 ふと視線を感じて上を見れば信玄公や三条の方の双眸にぶち当たる。口元に笑みを湛える彼らをみて佐助は得心する。待っているのだ、気の利く男が現れるのを。やれやれいい性格してるわ、と思いながら息を吐くように呟いた。
「さて、と。とりあえず旦那を捕まえにいきますかね」

- continue-

2012-08-25

10,000hit企画、はまこさまリクエストの『戦国【雁の聲】 本編前の姫の平和な日常』です。はまこさま長らくお待たせ致しました!
きっと武田家中はこんな感じ…と思いながら書いてみました。他リクより回数が少ないですがお楽しみ頂ければ幸いです。