若木萌ゆ(七)

「佐助ぇぇえぇぇええ!! 佐助は何処におるかあぁぁああ!!」
 未半刻を過ぎようかという時、心地良い薫風の流れる奥御殿を日雷のような怒号が轟く。城内の者ならばそれが誰のものか分からぬ者は居ない。広縁を少々乱暴な跫音が通り抜け、驚いた侍女たちが端で畏まる衣擦れの音がする。
「幸村様っ! せめて御手の槍をお置き下されっ!」
「女子共も皆驚いておりますれば!」
「才蔵っ! 羽交い絞めにしてでもお止めせよっ!」
「それくらいで止まるとは思えない」
「よいからっ!!」
 の耳には兄の声以外はざわついた音ですべてを聞き取れなかったようだが、忍びの佐助には一言一句はっきりと届いていた。頬をぽりぽりと掻いて想を練る。甘味の調達か、鍛錬の相手か、はたまた例のあれか。あの様子じゃやっぱあれだろうなぁ、などと思いながら首を傾げるに笑顔を貼り付けた。
「兄様? 随分急なお戻りね。皆も慌てているようだけど……」
「なんだろーね」
 心内ではさっさと退散したほうがいい、と警鐘を鳴らす自分が居る。そのうち、才蔵其方も来いっ、と聞こえた声音が主君らしくない苛立ちを孕んでおり退散は無駄であろうと諦観せざるを得ない。跫音はどんどん近づき、無遠慮にスパンと障子が開かれれば主君の姿が現れる。彼は眉間に皺を寄せながら凝然として佐助を見据えた。肩と息が聊か上がっているようで普段にない兄の様子には目を丸くしたがすぐに口上を述べた。
「兄様お帰りなさりませ。随分お急ぎでお戻りのご様子、お白湯を用意させましょうか」
「ああ、、席をはずしてく……いや居てもかまわぬか」
「え?」
 障子の先では入室を控え畏まった家臣団と才蔵が居る。家臣団ははらはらとした面持ちで、才蔵は相変わらず何を考えているのか分からない無表情のまま様子を伺っているようだ。幸村は元々障子の傍で庭を眺めていたの横にどかりと座り、両の手の拳を握り締めていた。
「佐助」
「なーに旦那」
「此度の合戦の論功行賞、お館様からは真田の働き天晴れとお褒めの言葉を頂き所領の加増と金まで賜った」
「うん」
「だが一番槍を取ったとはいえ初陣の俺には過分な褒美。何故か? ……其方なら分かっていよう佐助!!」
 憤懣を眸に宿した幸村は苛烈な気色を隠そうともせず口調は徐々に語尾を強めてゆく。
「お館様から偵察の任を受けるのはまだ分かる。――だが上杉に下った何某の暗殺をからくりした功とはどういうことだ!!」
「!」
 は横で息を呑み思わず佐助を見つめてくる。当然だ、幸村もも知らない仕儀なのだから。
「長、早い話がばれた」
「言わなくても分かってるよ」
 どんな相手の怒気であれいつもの調子でやり過ごすのは佐助の得意とするところ。場に合わぬ才蔵の言に軽く返して幸村を見る佐助の表情は格段変わらない。
「今の真田に必要だから受けた」
「差し出がましい真似を!」
「に、兄様っ」
 幸村は一層不快を顕わにし声を張り上げる。幸村が佐助に対してこのように憤怒を向けることは稀だ。老臣、特に幸村の大叔父矢沢頼綱や主君たるお館様が居ればうまく収められたかもしれない。だが残念ながら両者は此処には居らず、も外に座する家臣らも固唾を呑んで見守るしかないのだ。
「旦那なら受けないから俺様が受けた」
「黙れ! 誰が頼んだ!!」
「そう、俺様の一存。暗殺なんて卑劣だっていう甘ちゃんの意見は聞いてられない」
「貴様っ!」
「兄様っ」
 表情も声音も一つも変えない佐助の言動に幸村はついに彼の胸倉を掴み上げた。は制止しようと幸村の腕を掴もうとするが、咄嗟に飛び出た家臣の一人に遮られる。幸村と佐助が本当に取っ組み合いなどしたら傍に居るなどひとたまりも無い。抗議しようと見返すを今度は才蔵が少しだけ強引に下がらせた。
 その様子を見て取ると佐助は一言も発することなく未だ激昂の中に居る幸村を見据えた。殴り付けてしまうのではないかと怯える周囲を余所に佐助は殊更冷静だった。
「分かっておる! ――分かっておるのだ」
 口火を切ったのは幸村だった。
「父上無き今の真田がどのような立場か。偵察の任も暗殺のからくりも真田が肩身の狭き思いをせぬようにとなされた配慮」
 胸倉を掴む掌は少しだけ震えている。
「暗殺は卑劣だ。だが敵の頭を殺いでしまえば場合によっては戦自体を起こらせずに済むこともある。此度のこともそのような仕儀であることも」
「――」
「佐助、其方が受けたなど嘘を申すな。忍びの其方一人の独断で出来ようはずもない。皆で示し合わせたのであろう。其方らがその様なものを受けねばならぬと思ったのは偏にこの幸村の不甲斐無さゆえ」
「幸村様……」
 其処まで言うと幸村は胸倉を掴む手を離しサッと立ち上がった。くるりと向けた背にある六文銭が痛烈に佐助の目を捉えて離さない。
「俺が強くなればよいのだ」
 その一言が皆の耳を貫いていく。
「理不尽な命が来るのが嫌ならば、そうしなくても済むように幸村が励みもっと武功を立てればよい」
「旦那……」
「皆も、もう此度のようなことはせんでもよい。俺が強くなれば、俺が武田家中に真田ありと評されれば皆このような想いをせずに済む。金輪際このような命は受けさせぬ。佐助、もし其方にさせるときは――俺の意思で俺の口からだ!」
「旦那ッ……」
 幸村は返事を待たず大股での居室を後にする。遠のく気配と足音を聞きながら、家臣の一人は泣き、また他の者はそれの肩を抱いて大きく頷いている。心配気に佐助を見るに、大丈夫だよと言いながら佐助は首許を整えた。
 なんて心意気に伸びしろのある男に育ったのだろう。命を課すにあたう主君。佐助は確かな手ごたえを感じずには居られなかった。


 車軸を流す雨が庭の紫陽花に降る頃、上方に放っていた配下の忍びが一人二人と戻ってきた。
 豊臣の意を受けて北条と今川の同盟に協力をしたものの、北条の武田への敗戦も相俟って堺の商人達は未だに豊臣と織田、どちらに従うか見定めている様子だと言う。商人と言えど、否商人だからこそ彼らは強かだ。豊臣も織田も堺商人の完全掌握は容易ではない。上方はまだまだ荒れそうである。いっそつぶし合ってくれれば佐助としては御の字だ。
 忍びの得た情報を幸村に伝えると、それをすぐ躑躅ヶ崎館のお館様にお知らせするようにとの命が降り、上方から戻ってきた者らは休むまもなく甲斐へひた走ることになる。甲斐へ行けば大将がきっと労って休ませてくれるだろう。
 佐助と幸村の関係が悪くなったということはない。何時も通りだ。しこりを残さない性格は幸村の大きな美点だと言えた。戦場に出るようになっても彼はまだまだ世間知らずで佐助のような非情さはない。だが、佐助はそれを問題視してはいない。いざとなれば自分が其れをすればいいのだから。
 だがきっと幸村はそうならぬように努力してくれるのであろう。

「まー俺様は適度でいいよね。二人ともちゃんと護るからさ」
 贈った日と同じように簪を眺めるを見、幸村を思い出しながら口元は緩んだ。どうかした? との声が聞こえ、何時も通り、んーんなんでも、と答える佐助の胸は温かかった。

- end-

2012-08-18

若木萌ゆ全7話これにて完結です。
夜子さま、殆ど佐助ばかりでございましたがご満足頂けるお話になっていたでしょうか。ご笑納頂ければ幸いです。