「はー、まいったなー」
ドクンドクンと鳴り響く心の臓の音が佐助の思考を蹂躙する。国境を越えた後、人里の近くまで来てようやく足を止め座り込んだ。血止めの軟膏を塗り化膿を抑える薬草を塗りたくった布を当てて固定すると、佐助は一息吐く。幸い、敵の小太刀に毒は塗布されていなかったようだ。だが、血を聊か流しすぎた。身体は多少重いが、いつまでも此処に居ては血や治療に使った薬草の匂いに気づかれる危険性がある。これ以上留まることは許されぬ。掴んだ情報を持って一刻も早く戻らねばならない。
治療を終えた手、爪の間、関節の間には赤黒い跡が残る。己が血か風魔の血か、何れにせよこの鉄錆に近しい匂いから自分は一生逃れられないだろう。その一生も一寸先は闇、いつでも死んでもいいと思っている。だが、確かな生が見えないならば心残りは残したくない。
「命あるうちに、約束は守らないと駄目だよね」
眼下に広がる甲斐の村々はいつもと変わらない。今日持ち帰る情報は己が手と同じように紅く染めるかそうでないか、忍びの佐助には判りかねた。
佐助が上田に戻ったのはそれから二ヶ月も後のことだった。途中躑躅ヶ崎館に寄り、相模の様子を伝え終えそのまま上田に戻ろうとしたのが、傷に気づいた信玄に少しばかり留まるように言いつけられたのだ。そうこうしている間に陣触れが出され家中は慌しくなり、幸村の華々しい初陣であるというのに図らずも上田を発つ場に同席出来ぬまま戦場で彼と合流する羽目になった。幸村はさして咎めることもなく頷いて佐助を傍に置き、真田隊は先陣の誉れを賜った。
信玄公のお気に入り、武勇に優れる幸村は北条勢相手に獅子奮迅の働きを見せ、真田の名を知らしめて大いに面目を施し、上田の衆は皆鼻高々で凱旋したのだった。
戦勝に湧いた城内も、三日もすれば落ち着きを取り戻す。論功行賞の為、幸村が躑躅ヶ崎館へ赴くと皆各々の職務をこなして数日が経過している。ことに武具兵糧の調達、金蔵を預かる者たちはこの度の出費やその補填などに忙しく何日か城に上がりっぱなしのようだ。
幸村の妹、の周りは慎ましやかなもので騒がしさとは無縁だった。たまに爪弾く箏の音がかろうじて彼女の所在を表している。
「姫」
「佐助」
小田原へ偵察に発ってほぼ三月、凱旋の宴のどさくさにまぎれての居室に訪れるのがすっかり遅くなってしまった。彼女は佐助の顔を見とめるとまだ幼さの残る顔で破顔した。
「おかえりなさい。お怪我をしたと聞いたけど大丈夫?」
「うん、もうすっかりね」
「よかった。兄様も大事無く北条との戦にも勝ったと。これで当分戦はないのかしら」
「そうだねぇ……」
此処で安心させてやるのが優しい男なのだろうと思う。だが隠してもこの聡い姫はすぐに気付いてしまうだろう。その場限りの嘘を重ねればいずれ彼女は何も信じなくなる。
「戦の火種はまだ燻ってるよ。北条の後ろには今川がいて、そのまた後ろに両者をうまい具合にくっつけようとする奴がいる。そのからくりをどうにかしようとしてるところ」
「そう。……一人で留守を守っていると心配で眠れなかったわ。佐助はまたお怪我をするような危ないところに行かなければならないのね?」
「うーん。そうなるねぇ……ってちょっ! そんな顔しないで」
眉を下げ佐助を見上げる眸に不安の色が滲む。もう少し脅かせば泣いてしまうんじゃないだろうか。年月を重ねてもふとした仕草や表情は変わらない。丸くてふにふにしていた頬は年相応の形を取り母譲りの美しさを垣間見せるのに、かと思えば今にも泣き出しそうな顔は手まりをついていた頃と同じだ。
「姫」
「はい?」
「俺様が居ない間十蔵の言うことちゃんと聞いてた?」
「佐助、私はもう童ではないわ」
「あら、おませさん。俺様からするとまだまだ小さな姫だよ。はーいちゃんと答えて?」
そう言えば眸に残った涙など遠くへ消える。次に訪れたのは若干頬を膨らませた面貌だった。
「聞いてました! ……多分」
「よしよし。エッ?」
佐助はずいと顔をに寄せると彼女は下に目を逸らした。
「正直に言おうね」
「……一度、城下に下りようとしたの」
「こらー」
「でも未遂だもの」
「未遂?」
「行こうとしたのだけど、その、十蔵が」
「十蔵が?」
「護衛に付いて来るのはいいんだけど、その、木の上から落ちてきたり変装しきれてなかったり。それでも必死に隠れようとするから可哀想になって。……知らないふりをするのも辛くなってきて戻りました」
あの阿呆。言い難そうなの前で佐助は頭を抱えた。忍びが素人にバレバレの隠密行動をし、挙句主家の姫に気遣われるとはどういうことだ。あいつ戦場じゃ強いんだけどな、なんて思考が虚しい限りだ。どうしてやろうかと考えを巡らせる佐助の気配を読んだのか、この眼前の姫御前が怒らないであげてね、と首を傾げるものだから白旗を上げるしかない。
「うーん、いろいろと言いたいこともあるけど、一先ずはちゃんとお留守番していた姫にご褒美あげちゃおっかな」
「甘味なら兄様にあげてね」
子供じゃないもの、と続く言動に頬がだらしなく緩む。
「違う違う。姫だけ特別! はいどーぞ!」
「えっ、わぁこれっ! 覚えてくれていたの?」
「勿論! 遅くなってごめんね?」
「いいえ、嬉しいわ。ありがとう佐助」
「どうしたしまして」
の掌に置いたそれは、見事な銀の玉簪だった。玉飾りの部分には花の文様を一度彫り、その窪みに色味の良い鉱石と色付けがされている。それこそ、城育ちのが目を見張るくらいの装飾だった。
「こんな見事な」
「でしょー」
「佐助、無理してない?」
「姫、素直に喜んでいいから」
しっかり者もこういう時には問題だな、と頭を掻く。
「まあ種明かしをするとね、甲斐に戻る途中に大きな城下を通ってさ、そこで見つけたの。特殊な加工もして貰ったんだけど売主さんはまだ試作段階だからって割安にしてくれたし、姫が持たせてくれた資金で買ったから気にしないで」
「まあ」
「必要経費ってことで目を瞑ってね」
「わかりました。私はおませだけど佐助はちゃっかりさんね」
「旨いこと言うようになったねぇ」
「もう! でも、――本当に綺麗……」
そう言って簪に見惚れるの様子に自分の目は間違いなかったと佐助は頷き、そしてもうひとつ大きな痞えが取れるのを感じた。約束が果たせたのだ。これから自分はいくつ約束をし、それを守れるのだろう。
「姫、あの頃より大人になったからこれがどういうものか分かると思う」
「はい」
「本当は持たせるのを大分躊躇ったんだけど、姫の身を何時か護るものになるかもしれない。だから約束通り渡したんだ」
不確かな生だから、だからこそ出来うる限りの出立てを考え賽を投じねばならない。
「身を護る?」
「うん、それはね――」
――彼女の顔が曇るのを承知で佐助は口火を切るのだ。
- continue -
2012-08-11
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