(三十九)

 が総てを知ったのは半夏生を過ぎ虫時雨の時期に入ってからだった。その頃には櫓に留め置かれていた母保春院も旧最上領へと去った後で、二度と会うこともない、と言ったその言葉通りとなっていた。物悲しい思いを抱えつつも母と自分の道はきっと違うのだと心に留めて、はそれ以上母に干渉することはなかった。幸村や周囲もまたそれを格段聞きたてることもなく今の上田には緩やかな時が流れている。
 ただとしても全く母が気にならないという訳ではない。最上はすでに伊達の勢力圏内にある。今後どうやって身を立てるのか、あの母のことだ旧最上領の一部を化粧料として配されても兄の援助など受けるはずもない。とはいえ既に他家へ嫁いだ身のが殊更実家に感けることをすればそれこそ母の二の舞、ただ心中義姉や小十郎らの采配を期待するしかなかった。
「如何した? 手が止まっておる。心此処にあらずだな」
「あ……」
 膝にある心地良い重さと温かさから届く声にはたとして、すみません、と答えるとの膝に頭を置いて陣取る幸村は格段動くこともなく、母御のことか? と問うてきた。の角度から見える彼の表情にもまた特別変わりはない。
「あの」
「然もあろう、気に病むは致し方あるまい」
「痛み入ります」
、手を」
「はい」
「互いによう語って話し合うのではなかったか?」
「あっ」
「仕置きをせねばならぬか」
「み、皆見ていますから変なこと言わないで下さい」
 の右手を撫でながら幸村はそう言い喉の奥で笑う。あれ以降互いの情愛と理解で夫婦仲は改善したがそれに比例してあの抗いがたい色香漂う夫も復活したようだった。翻弄されるのは相も変わらずでその度に、いい加減慣れよまあ慣れぬのもまた愛いが、とからかわれる毎日なのだ。小さなの頭を撫でて可愛がり、菓子を手渡してくれた頃の彼の姿は何処にもない。猫を被っていたと言われればそれまでなのだが一緒に隠れ鬼をし笑ってくれていた彼が偽りだとも思いたくない。
「また考え込んでおる」
「いえ、小さな頃にお会いした時のことを少し」
「また懐かしいことを」
「私の頭を撫でて下さっていた御手が今は頬や手をお撫でになられます」
「其処だけではあるまいに」
「またそんな」
 顔を逸らせばその視線の先には開かれた障子がある。その影に隠れる侍女らも頬を染めているに違いないと思えばやられてばかりもなお一層恥ずかしい。
「あの頃はこんな御方だとは思いもしませんでした」
「それは俺とて同じ、あの可愛らしい姫がこのようになって俺に嫁いでくるなど」
 の手を撫であげると彼の視線は妻の着衣に注がれる。裾の濃い朱鷺色から上にいくにつれ月白になる階調の布地に椿や紅葉の柄に加え金糸も織り交ぜてある豪奢な出来だ。何時だったか幸村が選んだ色合いを身に纏い始めた彼女はゆっくりと夫の色に染まるかのようでこの紅蓮の鬼をひどく満足させた。
「緋が増えたな」
「幸村さまがそう望まれるから……」
「よう似合う」
 そう言って細い指に唇を添える夫にの心の臓はどくりと音を立てる。この御方はどうしてこんなに艶めかしいのだろう、奥州に居たとき侍女等が兄政宗のことを大人の色香が凄いだの妖しい魅力に抗えないなどと口々に言っていたがとしては幸村のほうが凄まじい。夫婦の贔屓目、その言葉を差し引いても余りある。
「さし当たって今の俺の望みはこの膝枕と耳掻きの継続だな」
「こ、心得ました」
 頬を染め乞われるまま洒落た装飾の笄を手に取り幸村の耳に添えるとふと違和感が過ぎる。夫の耳に影が掛かるのだ。が声を上げる前に自若として反応したのは幸村だった。
「佐助か」
「はいはーい、天井裏からごめんねー。仲睦まじいからなんとなく正面から入って来れなかったよー」
「もう慣れた。如何した?」
「そうそう、姫ちゃん宛てに奥州から大量に荷が届いてるんだ。姫ちゃんには悪いけど量が量だから中検分させて貰ってるよ」
「奥州から?」
「あら、やっぱ竜の旦那から聞いてないぽい?」
「はい」
「荷とは……何が届いておる?」
「えーと、あー見たほうが早いと思う。三之間に入れてるよ」

 頬をポリポリと掻きながらそう言った佐助は気まずいというより苦笑の色の濃い表情だったというのが相応しい。少しばかり歯切れの悪い佐助のそぶりにと幸村は顔を見合わせ誘われるまま三之間へと足を踏み入れれば其処には言葉通り調度品一式と大きな長持らが所狭しと並んでいた。その長持にさえ丁寧な細工がしてあり、香と祥が遠慮がちに蓋を開けると中には大量の装束とこまごまとした道具が入っていた。
「まあ……」
 反物、櫛どころか厨子棚、手箱……それは婚礼調度品そのものだった。品々で思いがけない贈り物に女子衆は感嘆の声を上げ、それは信玄公らが褒め称えたというの婚礼調度品よりさらに細工の凝ったもので趣味の良いものを見慣れたでさえ思わず声を漏らすほどだ。一番手前にある長持から小さな手箱を取って眺めるを見、幸村はその二つ横の長持の中身に視線をやる。
「……ぬ」
 其処には反物の蒼い海が広がっており佐助以外が気付かぬほどの些細な皺を寄せ幸村は唸る。
「まあ雪薄だわ」
姫様、お文が」
「ありがとう。――まあ、……兄さま、ふふっこんなもの贈られたら私きっと負けなしだわ」
「ご機嫌でらっしゃいますね、率爾乍らなんと?」
「色々けちが付いたから仕切り直しだと。婚礼調度は女の武具、初陣の品としてこれを贈る、だそうです」
「まあでは」
「ええ、正真正銘婚礼調度ね。二揃えも手にするなんて思わなかったわ」
「御紋が以前と違いますね」
 と千代女がそのような会話をし幸村は再度一周するように調度品を見る。それはが言うとおり竹に雀の紋はなく雪薄紋が散らばっている。
「伊達にはこのような紋があるのか」
「はい幸村さま。これは兄が初陣でお使いになられた御紋でございます。勝ち戦の折りのものでしたので伊達ではとても縁起の良い御紋ですの。もう兄さまったら『愛に聞いたが婚礼は女の初陣だそうだ。今までは前哨戦、仕切り直しにはこの紋が相応しいだろう。次からは初陣本番、虎に勝てよ。ついでに尻に敷いてやれ』ですって。夫婦に勝ちも負けもございませんのにね?」
「あ、ああ」
「それにしても兄さまの文は長いです。入れた藤の打掛は春に着ろだのと、子供ではないから分かりますのに。あら、こっちは牡丹」
 覗き見れば文は宛ら荷の目録のように長い。荷と文を交互に見るはさながら駒鳥のようだ。
「好敵手というの実は似た者同士なのかしら。幸村さまもよく牡丹柄をお選びになりますよね」
 その言葉に幸村はみるみる微妙な表情になったが数々の品に心躍らせる妻や女子衆の気を削ぐのも躊躇われて押し黙った。ただ佐助の口だけが、旦那頑張れ、とかたどっている。
「幸村様ご存じですか? 牡丹も伊達の御紋ですの。それから藤は先祖の藤原氏の御紋、で、あ、……もう、兄さま、せっかくは仲良くしておりますのに」
「政宗殿はを取られて悔しく思っておられるのだ」
「あの兄がですか?」
 悉く伊達に縁のある文様に漸くこれが政宗からの横槍であると気付いたは頬を少し膨らませた後はしゃいだ我が身を恥ずようにはにかみ幸村を見る。
「……あのね幸村さま」
「うん?」
「兄弟を切り捨てることってとても難しいと思うのです。気を付けているつもりですけど今だって兄からの文や贈り物は嬉しくてはしゃいでしまいました」
 文を横に置き両手をきゅっと握るその所作に幸村は目を細めた。彼女の仕草と表情がどれほど幸村を喜ばせるか彼女は知らない。
「けれど私の一番は幸村さま。それだけは憶えていて下さると嬉しいです」
「捨てれぬものは誰しもある。俺も家と其方どちらをとるかと言われれば心で其方を求めても即答は出来ぬ。だが俺の一番大切なものは其方だ」
「一緒ですね」
「ああ。だから前にも言うたが良く語り、よく考えよう。尤も政宗殿ならば其方を苦しめたりはせぬ。横槍は入れるがな?」
「はい」
 頷いたは肩を竦め、それからふふと楽しそうに笑む。
「初陣、……ずっと初陣、いいかもしれません。いつもどきどきするお相手が幸村さまだもの」
「――っ!」
「あの、幸村さま此方の御衣裳は奥州に戻したほうがいいですか? 兄さまの意地悪ですし」
「……い、いや政宗殿のお心遣いでもあるのだから大切に致せ。あれば何かと役に立とう。無論俺と選んだものを着てくれれば嬉しいが」
「それはもう、幸村さまがお選び下さったものも沢山ありますもの。着きれません」
「ああ」
 幸村の表情も漸く柔らかくなった頃、とりあえず大きな調度品だけは定位置を決めてしまおうと侍女たちが動き出す。厨子棚は奥に、その中に帯箱類を置けば調度品本来の美しさが際立っていく。
「私が好きな細工、兄さま覚えて下さってたんだわ」
「伊達の殿の贈り物は誠に粋を凝らしたものばかりでございますね」
「ご愛情が偲ばれまする」
 と女子等は各々頷いて、そして端にあった最後の長持の中身が侍女等宛の反物であることに気付くと一層華やいだ。香、祥に加え、忍び故に控えめにしている縫も紬も年相応に顔を綻ばせた。いつもは窘める千代女も今日ばかりは皆を慈しむように眺めるばかりだった。
 後方に居る幸村の浮上した心はじわじわと足を引っ張られていくのだ。

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2014-03-22

耳かきの歴史はネットでざっと見る限り錯綜していますが、ここでは笄=耳かきの役割有りの解釈で書いています。