(三十八)

 質実剛健な主殿とは違い、匂い立つばかりの美しい御殿には気持ちの良い風が流れている。一般的には奥御殿と呼ばれるが、此処躑躅ヶ崎館では専ら御裏方と言われる場所だ。此処の主は信玄公正室三条の方であり今ではの養母となる人である。今しがた三条の方と信玄公は甲斐と奥州を巻き込んだ謀の顛末を内藤昌豊より聞かされた。内藤は去り際、諏訪勝頼からの奏上文を差し出して深く一礼して下がり、それを読んだ信玄公はひどく満足げに頷いていた。
「幸村ようやった」
 そう言って甲斐の虎は奏上文を手にしたまま広縁に進み出て庭を眺めた。その背を見つめていた三条の方は何とも言えずやがてそっと目を伏せ内藤からの報告を思い出していた。
 甲斐と奥州の同盟を破談どころかあわや一戦に持ち込むかという策謀、奥州では最上が、甲斐信濃では諏訪衆が彼是と暗躍していたという。幸村は信玄配下の四名臣、そして奥州の伊達政宗と密に連絡を取り勝頼に累が及ばぬよう細心の注意を払い穏便に済むよう総てに手を打った。諏訪衆を束ねる諏訪勝頼はこれを知らず、武田四名臣の一人山県昌景から内々に耳打ちされ事の次第に只々仰天し、これは一大事と事態の把握に努めたようだ。詰問しても最初は首謀者一同皆素知らぬふりだったが、勝頼としては山県ほどの重鎮の言葉が嘘偽りであるとも思えなかった。甲斐より我等を信じてくださらぬかと追い縋る諏訪衆に一抹の不安と疑念が生じ、其方らが大切だから言うのだ、今ならまだ間に合うのだと懇々と説いたのだという。そのうち首謀者が、信玄公の血を引きながら家督を継がせて貰えぬ勝頼様を見ていられず、と泪して口を割るに至り、彼らの心情にまた勝頼も泪し肩を抱いた。大封よりももっと大切なことがあるのだと説き伏せてまずは彼らに謹慎を申し渡して自身は即日奏上文を提出し今に至る。
 奏上文には諏訪衆にこの話を持ちかけてきた者の名前と、そうならぬ様律して慎ましやかにしていたはずであったにこのような事になるとは不甲斐ない、監督不行き届きは自分のせい、自身と家臣らの処断の一切は躑躅ヶ崎館の意向に任せると一分の弁解もない文面が並んでいた。
 主家を重んじる幸村の采配と勝頼自身の態度によって勝頼は短い謹慎で済むだろう。首謀者にはもう少し重いものが課せられることになるが、今は謀の種を落とした人物への対処に忙しくなるだろうと信玄らは踏んでいる。
 これによって諏訪勝頼は一層甲斐武田の当主の座から遠のくことになったと三条の方はほくそ笑む気にはなれなかった。夫信玄の意向にも家臣の行動にも翻弄される彼が哀れに思えたからだ。
 彼に対して全くわだかまりがないといえば嘘になる。周辺諸国の厚い信仰を受ける諏訪を完全に手にする為その血を武田に取り込まなければならなかったあの若き頃、迎えた側室にやがて生まれた男子を抱く夫、これが武家のあり方かと心が掻き毟られたのを憶えている。いつも笑顔で送り出す苦悩は女子にしか分かるまい。必死に心を隠してきたあの遠き日を三条の方は我知らず噛みしめる。
「私も業深きことや」
「どうした三条?」
「あらいややわ、なにもあらしまへん」
 そう答える我が身が何時もどおりうまく笑えているか三条の方には分からなかった。


「越前敦賀の大谷吉継どの……?」
 奥州にて夫の帰りを待つ愛姫は、その待ち人より届いた書状を読み上げながら首をかしげた。其処に記された名は、夫の交友関係、各国の情勢から見ても少し縁遠い名前だったからだ。裁断を終えた絹を畳んでいた喜多はその様子を気に留めて下座へと座りなおし佳人に伺いかけてくる。
「愛姫様、政宗様はなんと?」
「ええ、どうやら最上と諏訪によからぬお話を囁いたのは豊臣恩顧の武将らしいのです」
「それが大谷という御方と?」
「そのようです」
 見慣れぬ透かしの入った和紙は信濃で手に入れたものだろうか、政宗が選んだらしい趣の書状を一言一句見落とさぬよう注意深く読み進めながら愛姫は頷いた。
「豊臣は武田と伊達を狙っておるのでしょうか」
「政宗さまがおっしゃるには”あわよくば”程度のものらしいわ」
「迷惑な話ですわ」
「本当」
 歯に衣着せぬ物言いは喜多の十八番だ。愛姫はさして気にする様子もなく笑い続ける。
「豊臣も軍師どのがお倒れになって何やら不穏な様子だそうよ。軍師どのが動けない代わりに北方に領地を得た大谷どのが彼是とからくりしているようです。ですけど武田も伊達も今は誘いに乗らぬとのこと」
「最上も押さえましたし政宗様としてはそれだけで好機だったやも知れませんね」
「最上……」
「どうなされましたか?」
 その名に愛姫は少しだけ眉を顰めた。
「ここにも書いてあります。保春院さまはやはり政宗さまにお会いにならなかったそうです。今後は最上ゆかりのお寺に行かれると」
「まあ……」
「保春院さまのことは色々書かれておられるけど胸が痛みます」
「愛姫様……」
 白い手がゆっくりと御料紙を折りたたみ丁寧に文箱へ運び、それを終えると円窓を少しだけ開けた。隙間から覗く木々と枝に羽を休める鳥達に目をやりながら佳人の声は哀調を帯びたものになる。
「喜多は知っているでしょう? 政宗さまやどのには甚だ申し訳ないことだけど姑としての保春院さまはとても優しい御方であられたわ。伊達の家風に馴染めるようお声がけもして下さったし、伊達と田村が揉めたときも誰よりも私の身を案じて下さったのは保春院さまだったわ。けれど……」
「……」
「けれど保春院さまが私にかまえばかまう程、田村との婚姻は最上が裏で糸を引いたと、田村と最上が組んで伊達を陥れようとしているなどと、随分口さがない物言いをする者が後を絶ちませんでした」
「ええ……」
「保春院さまのなされ方にも問題があると言われればそうなのでしょうね。でも政宗さまとも反目しておられたことも気の毒でならなかったわ。……今思えば、政宗さまやどのに辛く当たられたことも、毒を盛られたこともやむにやまれぬ何かがおありになられたのかもしれないわ」
 チチチ……と何の鳥かは喜多には分かりかねたが空を舞う小鳥の啼き声がする。木々に居た鳥たちも飛び立ったのか愛姫もまたその啼き声の方へ眸をやった。
「難しい家の事情……愛しても触れることの出来ぬ我が子、それならばいっそ遠ざけてしまえと思われたのやも」
 目の前の佳人の唇は囀る小鳥のように心地良い声音を齎しながらなお一層の悲哀を漂わせる。
「悲しいことね。女子は婚姻という雲居に発てば二度と巣には戻れない。大きな木に抱かれ羽を休めて、其処が居心地の良い場所ならいいけれど。――家と家に挟まれる苦しみは嫁いだ女子にしか分からないわ。あの御方はきっと、それを政宗さまに仰ることはないでしょうね」
「愛姫様……」
「喜多、ごめんなさい。これは貴方の心の内に留めておいてね。ただの私の戯言……」
「愛姫様……、だからこそ貴方様は姫様がそうお苦しみにならぬようお育てになられたのでしょう?」
「喜多……ええ」
 其処には主人と傳役の長年の信頼関係が垣間見える。政宗と小十郎に負けぬくらいの苦楽が二人にはあるのだ。
「――保春院さまに人知れずご援助申し上げることが今の私のすべきことでしょうね。喜多、くれぐれも内々に」
「心得ましてございます」
「さあ、忙しくなりますよ。政宗さまはきっと微妙なお顔をなさって戻られるわ。なるべく明るく趣を凝らしてお待ちしましょう」
「左様にございますね」
 遠い地に嫁いだ義妹と夫の顔を思い浮かべた愛姫は、未だ目に映る鳥たちに微笑みかけてそっと立ち上がるのだった。

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2014-03-15

ドラマや小説で出てくるたびに、武田勝頼という人は気の毒な人だと思ってみてます。環境が無理ゲーすぐる。