(三十七)

 義兄の発言に幸村は訳が分からない、といった心そのままを表情に出した。幸村からすればは若年で掌で咲く愛らしいばかりの花なのだ。
「左様でござろうか。あのがそのようなことをしようか」
「まだまだ可愛いしか知んねーだろ」
「はい梵ちゃんそこ煽らない」
「旦那も対抗しようとしない」
「ま、今回のこともだ。アイツに噛み付かれなくて良かったな」
 何か言いかける幸村は制され、政宗といえば鼻を鳴らしあっさり引いて粗菜を口に運ぶ。この場に居ない妻、妹を挟むと紅蓮の鬼も独眼竜も聊か穏やかではない。幸村は気を取り直すように盃を手に取り息を吐く。珍しく呑むんだ、と佐助は思ったが横槍を出すのはやめておいた。
「さりながらは溜め込むような人柄でござる。奥ゆかしさに苛まれてが苦しまぬよう気遣ってやりたいと思うばかりでござる」
「奥ゆかしい、……ねぇ……」
「うーん……」
「は? ご両人とも如何なされたか」
 微妙な顔をする奥州側の二人を上田側は訝しむ。佐助に至ってはもうお腹いっぱいですとでも言いたげだ。
「幸村」
「何でござる」
「俺が噛み付かれなくて良かったなってのはただの例えじゃねえぞ?」
「え、ちょ、竜の旦那まさか」
「俺は本気で噛み付かれたことがある」
「ま、誠にござるか!」
「う、嘘だろぉおおお!」
「あれは梵が悪いって」
「わーってるよ」
「何でまた……」
「Ah―― 話振っちまったから言うがな。家督を継ぐ前のことだ、愛とあることで不仲になってな」
「女作ったの?」
「残念ながら違え。――愛の乳母と侍女が実家の田村家に、正確には愛の母親に内通してたんだよ。愛の母親ってのが当時伊達と敵対してた相馬の出でな、田村家中の相馬派の頭だった訳だ。今思えば、その母親も担ぎ上げられただけかもしれねーが。その相馬派の連中は伊達が憎い、で、愛の乳母たちを使って俺を殺そうとした。当然見過ごす訳にはいかねえから厳しい処断をせざるを得なかったんだが、何も知らない愛はいきなり乳母と侍女を殺されて酷く混乱して俺を問い詰めた。理由を言ったところで愛からすれば赤子の頃から心を砕いて可愛がってくれた相手がそんなことをする訳がないと信じない。俺も命を狙われたことにイラついてたし、何より愛が信じてくれねえことに腹が立った。まー若かったな」
 政宗は当時を思い出したのかふと口を曲げて皆の盃に酒を注いだ。小さく聞こえるとくとくという音がやたら耳を突く。
「顔を合わせれば愛は理由を聞くか泣くか、前みたいに笑ってくれなくなって俺も意地になった。それで暫く愛のとこにも行かなくなったらおせっかいの一門が側室を進めてきた訳だ」
「やっぱ女作ってんじゃない」
「未遂だ馬鹿」
 相変わらず口の悪ぃ忍びだ、などと思いつつ政宗は続ける。
「そしたら口さがない侍女たちの話でも聞いたんだろうな。が俺んとこ来て御手玉やら盤双六やら投げ付けてきてな、流石に危ねえから叱ろうと近づいたら泣きながら腕に噛み付いてきやがった」
「あれはびっくりしたよ……」
「もうあんときは顔は涙でぐしゃぐしゃだし、も癇癪起して怒るっつーより悲しくてどうしようもなくて泣いてるって顔でな、それ見てたら冷静になって思えば不仲になってから餓鬼ながらに二人の間を取り持とうとしたのか文遣いやらしてたなとか考え出すと、何も知らなくて俺を問い詰めるしかない愛や十以上下の妹を泣かせてるのも馬鹿らしくなって怒りが霧散したな」
「そのようなことが……」
「かなりいてーぞ、あいつの歯」
「政宗殿、薄々は思うておりましたがが此方に嫁すときそちらの侍女をお付けになられなんだは……」
「まあな、揉め事を起こす気は毛頭ねえが絡め取ろうとする輩もいる。必要以上にに侍女をつけてりゃが矛先になるのは想像に難くねえ。愛みたいな思いをさせたかねえし痛くもねえ腹を探られるのも面白くはねぇ。何より、今後生まれる子をあんときのみたいな立場に置くのも伯父としちゃ目覚めが悪い」
 その言葉にどれほどの思い入れがあるか、幸村には到底推し量ることなど出来ない。伝え聞くに哀れとの言葉では語り尽くせない過去だ。押し黙る幸村をよそに、政宗は盃を置いてじっと幸村を見る。漆塗りの食器がカツンと当たる音が妙に響いた。
「この婚姻も、ましてや実子がいるのにアンタが家督を継ぐのも普通に考えりゃ無理がある。武田四名臣がいくら支持しようと血ってもんにしがみ付く奴らは厄介だ。今回の件でよおく分かったろうがな」
「誠に」
「勝頼とは懇意にしとけよ。それだけじゃねえ、大切にしても油断はするな。俺と、小次郎のようになるぜ?」
「梵……」
「気づいたときにゃ消すしかねえなんてこと後味悪いったらねえぜ。――フン、俺を失望させてくれるなよ真田幸村。お前が見込みなしなら例え甲斐信濃が手に入ると言われたってハナからをやったりしねえんだよ」
「貴殿のお言葉、肝に銘じて」
「まあ俺のお説教はここまでだ。呑めよ」
 返事を待たず注がれる盃にはなみなみと銘酒が揺蕩い、やがて其処に夜空に映える月が映し出される。三日月の印象深いこの眼前の義兄がそれさえ差配しているように感じられて、何処まで完璧なのだこの男は、と笑ってしまいたくなる。
 だがせめて、この盃を飲み干して映る月だけは取り込んでしまえと幸村は勢いよく煽るのだった。

- continue -

2014-03-08

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