(三十五)

 秉燭に及ぶ時刻、互いに濡れてしまったと幸村は衣裳を替えて寄り添っていた。それこそ奥州から最大の同盟者が来訪しているのだが、内外関わらず皆が皆遠慮して声を掛けにくる者などいない。思えば昼夜問わず忙しかった幸村とこのように時を過ごすことなどなかったことを思い出せばこの時がどれだけ貴重なものであるかを思い知る。

 名を呼ばれ顔を上げれば息継ぎもままならぬ程濃厚な口付けが降り注ぎ、何度も繰り返されるそれに身体の筋肉はみるみる弛緩してしまう。先程からずっとこうなのだ。
「……は、……っ」
「なんという目をしておる。我慢ならぬ」
「あ、」
「――恨めしい。その衣剥いてしまいたいが政宗殿に何か報告されてはたまらぬ」
「……や、誰か近くにいるのですか?」
「いや? 今は居らぬようだがな?」
「今は……?」
 そう言うと幸村はククと愉快そうに喉の奥を鳴らした。
「安心せよ、俺とて其方の痴態を誰ぞに見せる気は無い。逢瀬の時は何処の者も入れておらぬ」
 があからさまにほっとすると幸村は彼女を膝に抱き上げて首筋に顔を埋める。息が肌を撫でれば途端に身を硬くする佳人をどう料理してやろうかと欲は掻きたてられて、少し顔を上げ幸村は囁いた。
「政宗殿たちが発たれたら覚悟するがよい」
「え?」
「人肌恋しいのは其方だけではないということだ」
「私は、別に!」
「そうか、其方の奥の奥まで触れてやりたいと思うは俺だけであったか。なんと寂しいことよ」
「そういう表現、何かやです」
「さて、ならば其方が形振り構わず俺に縋るよう仕込まねばならぬか」
「え、や、そんなこと、なさらなく、てもは、幸村さまから離れたりしない、です、から」
 見開いた目が染まる頬と共に細くなって視線を逸らすに、今度は幸村が目を瞬いた。
「其方……誘うておるのか?」
「えっ? ちょ、あ、やっ、やです。怖いこと、しないでくださいっ」
「其方の可愛い首筋に吸い付いただけではないか。拒絶とは冷たい」
「だって、幸村さまっ」
「ただ俺に身を任せれば良いのに。ならばずっと蕩けさせてやろうものを。――さあ少し眠るがいい。でなければ食らってしまいそうだ」
 幸村の大きな手がの瞼に触れる。ぴくりと反応する様がまた愛しい。瞼から頬、そして親指は花唇を撫でてこの物言う花を翻弄してゆく。
「幸村、さまの、香り、くらくらするの……沈丁花と、おんなじ……」
「それは其方もぞ。なんと甘くまろいのか」
「私、ずっとこの、香りに……」
 支配されるんだわ、そう続ける彼女の唇を息を奪わんばかりに吸って幸村の欲は大いに満たされたのであった。

 それから少しばかり、幸村の聲と手に誘われるように瞼を落としたを褥で眺めながら幸村の口は歪む。
「分からぬもの、最初は小さな女童であったに」
 主君武田信玄からとの婚礼を聞かされたとき幸村にはピンと来なかった。瞼の裏に残っていたのは好敵手やその右目の衣を掴んであどけない顔で様子を伺う幼子であったからだ。真田さまはおおきいのね、をかたにのせて? と無邪気にせがんだことを彼女は覚えているだろうか。
 彼女が少しずつ成長する過程、奥州を訪れても徐々に会わなくなっていった。疑問に思い始めた頃彼女が晒されている身の上を聞き知った。何時だったか政宗が、本当は遠駆けにでも出してやりてえんだと言ったのを覚えている。御殿の奥に引き込む彼女が哀れで訪れる際は皆何かしら土産を用意していた。快然たる性分の西海の鬼などは気が利いて、城外に出れねぇなら庭に浮かべて楽しめよ、と自国の海上兵器富嶽の模型などを渡し、中国の謀将に至っては、学のある女子は嫌いではない。分からねば兄に聞くがよいとの言葉と共に唐渡り書物や厳島神社の図面に加えそれがどういう構造になっているかを書き記したものなど好奇心を擽る品々を贈り皆驚いたものだ。そういえば自分は何を贈ったか、と思い出せば甲斐の山桃と葡萄という在り来たりなものだった気がする。
「したがよ、痛みやすい山桃や葡萄を奥州に運ぶのにどれだけ注意を払ったか其方は知るまい?」
 それから全く会わなくなって五年程後、婚礼の話が来た訳だが、迎え役に紛れて奥州に着きを見るまで幸村は戸惑っていた。何においても彼女は小さな姫、十も離れた自分を夫とし遠い甲斐信濃に侍女も連れず嫁ぐなどあまりに哀れではないか。ましてそんな彼女を妻とし手を出すなどと。
 だが、たかが五年されど五年だった。たったそれだけの期間見ない間に彼女は様変わりしていた。好敵手とよく似た色合いの振り分け髪を耳元で桜の小さな髪飾りで結っていた幼子は其処になく、鬢批を終えた髪を婚礼衣装に流し北国育ちの白磁の肌に紅を覚えた花唇はその字のままに花の様相、そして嫁ぐことに心細さに不安を覚えた眸は潤み美しく睫に少しだけ雫を湛えていた。
 その全てに内心目を見張ったのは言うまでもない。
 だが、政宗に嫁ぎたくないと零した彼女の心は少女のままでそれが幸村の保護欲と征服欲を掻き立てたのは確かだった。どんな風に変えてやろうか、どんな女に育ててやろうか、幸菱を浮織した白綾の小袖を纏った彼女の手を取りながらそんなことを考えていた。愛されて育ったが情愛は知らない花嫁。初夜の時もまったく警戒心を持っていなかった。それがありありと見えたから深く深く刻んでやったのだ。もうお前は俺のものだと。婚前と違う幸村の様子に彼女は不安を覚えたようだった。仕方が無い、それまで男としての自分を剥き出しにしたことなどなかったのだから。
 奥州から古参の侍女を連れてきていないのも保護欲を掻き立てた。自分にしか頼れないその為様に内心どれほどほくそ笑んだろう。賢妻と名高い愛姫に育てられたに違わず、彼女は賢く従順で幸村の想いを読んで政のことも必要以上に聞かず只幸村に従っていた。それは申し分なかった。
 表面上ならそれで良かった。だが幸村は総てが欲しかった。
 どんなに抱いても翻弄しても心はまだ少女と女の間を行き来するは定まらぬ水面のようで、幸村を夫として見ていても、愛する男として見ているかと問えば微妙だった。肌を合わせるのは夫婦の義務で、時として夫であり保護者のように頼る相手のように見ている節があった。男女の情愛を知らず嫁して来たのだから仕方がない。だから芽吹かせてみたかった。彼女の口から自分を欲して欲しい、そう思うようになっていた。
 長年において彼女を取り巻く最上の執念、思惑。其れによって起こったとの諍い、考えようによってはそれは幸村にとって良い切欠だった。
 彼女が言いつけを破ったことも自分を疑ったことも全く腹が立たなかったといえば嘘になる。だが彼女を遠ざける程の怒りは持ち合わせなかった。妻の不安は当然であったし自分と家臣の一芝居を見て悩みに悩んで極限で出た言葉だと理解も出来た。だがこの乱世、ましてや甲斐源氏を担う身としては実家寄りの妻では困る。幸村なりの思惑があって彼女を遠ざけたのだ。彼女は直向に謝罪をして来て、ごめんなさいと泣く様は愛おしく可愛らしかった。
 すぐに許してしまいたかったが、その様が幼子が親兄弟に許しを請うようにも見えてこのままではならぬと思った。正直に言えば、何度泣くを組み敷いてしまおうと思ったか分からない。組み敷いて、穿って、何故自分を信じなかったのかと詰って。許しを請うを昂らせてそして最後には優しく囁いて蕩けさせて。だがそれでは駄目なのだ。足りぬのだ。から自分を求めなくては。今のままでは只の子供、せっかく開きかけてきた情愛の種が潰れてしまう。狂おしい想いも男女の思慕も自覚させたかったのだ。
 だが自分がやったことが正しい訳でもない。伊達の女のままか、と言った言葉が必要以上に妻の心を抉っていた。が垣間見ているのを承知で躑躅ヶ崎の侍女の腕を取って口付けをしたかのような角度で誘いを掛けたのも幸村からすれば只の揺さぶり。だが彼女は酷く傷付き、流石に彼女が側室をと三条の方に奏上したと聞いたときはもう止めようと思った。
 気に掛かり様子を見に行けば、打ちのめされたは母の影に怯え、まだ居もしない側室に嫉妬を覚えて、睫を濡らしながら幸村から逃げようとする。泣く彼女が哀れで一層愛おしくて距離を置こうとした心など消え失せ深く彼女の唇を捕えた。そのうち逃げようとしていた彼女の腕が自分に回されたとき、もっと穏便に運べなかっただろうかという罪悪感は霧散して幸村はほくそ笑んだ。
 ようやく総てを手に入れたと。
 の嘆きを聞いた独眼竜やその従兄はどう思っただろうか。少なくともあの拳や蹴りは本気ではあるまい。本気ならば最初から六爪を抜いていたであろうから。
「政宗殿は色々と気づいておられようが、何も言わぬということはそれでも俺にくれるとの御心であろうか……のう?」
 腕の中の彼女は髪に触れれば少しだけ身じろぎする。自分以外に触れられたくないと言ったその唇も心も我が手の内。
「なんと健気で愛おしい、もう二度と離してやるまいぞ。

- continue -

2014-02-22

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