(三十四)

「――だそうだよ」
「え……?」
 自分の衣裳にしがみ付く従妹の腕を支え成実がそう言うと要領の得ない彼女は大粒の泪を抱えたまま目を丸くした。清楚然と座した姿も嘆く姿も、女らしくなったと思う。だが時折垣間見せる表情は確かに嫁ぐ以前成実たちが慈しんだ姫のものだ。
 成実が小さな声で、ちゃんごめんね、と言うや否や彼の後ろにある襖が音を立て勢いよく放たれる。
「きゃっ……、!!」
 其処には、の人生の大きな比重となる者らが立っていて彼女は呆然としていた。


「ゆき、……兄さ……」
 自分は夢を見ているのかもしれない。驚きの狭間に居るは只そう思った。成実が声をかけて襖が放たれて、その先に居たのは奥州に居るはずの兄政宗と、求めることもままならない夫幸村だった。
 どうして二人が連れ立っているのだろう? 兄さまが何故此処に? まさか、自分は奥州に返されるのだろうか? そう思い至れば途端に怖くなってますます従兄の装束を握り締めるしかなくなった。
「おい真田幸村」
 難しい顔をして腕を組んだままだった兄がふと夫を呼んだ。同じく表情の読めない幸村が声に応じて兄のほうを向いた、その刹那。
「ぐッ……」
 バキッともドカッとも似つかない音がして政宗の拳が幸村の左頬にめり込んだ。その力に怯む幸村に兄は追随の手を緩めず、今度は膝を彼の鳩尾に入れたのだ。
「にっ、兄さまっ!」
 の静止も聞かず今度は盛大に蹴り上げて庭の池に夫を落とし、庭の砂が擦れる音と池の水が大量に跳ねる音が皆の耳を突く。それでもまだ政宗は飽き足らず水底から起き上がろうとする幸村に向かうのだ。刀を引き抜きかねない竜の剣幕には恐れ戦き慌てて後ろから兄の腰にしがみ付いた。
放せ」
「いやっ! 止めて兄さまっ」
 しかし悲しいかな女の力などたかが知れていて、政宗は腰にしがみ付く妹の手を簡単に剥いでしまう。そのままぐいっと引っ張られて兄の横に引き寄せられたとき目が合った。怒っているときの兄の目だった。
「下がってろ」
 今度は前に立って政宗の胸を押さえようとするに頭上から投げ掛けられた声は冷たかった。
「嫌です。お止め下さい、どうかっ」
 兄の力は強くて二の腕を掴まれたらもう思うように動けない。悔しくてどうしようもなくて届く範囲で政宗の胸を叩いてやると、只管に無表情だった兄からハア、と溜息が聞こえた。
、それが今のお前だ」
「え……」
「奥州に居るときのお前は多少の悪態はついても俺に逆らったこたぁねえ。婚礼だってそうだ。奥州を離れる不安は口にしても不満は漏らさなかった。俺の言うまま真田に嫁いだ。……それが今じゃどうだ。俺が真田を殴れば身体を盾に全力で止めに来る。――お前はちゃんと真田の人間になってるじゃねえか」
 政宗の手がクシャリとの髪を撫でる。
「……っ」
「ぽろぽろ泣きやがって、餓鬼だな」
 先程まで覆っていた剣呑さは消え失せ政宗はそう言って微笑んだ。自分知る兄の顔に戻るのを見ると途端力が抜けそうになる。だが、ははっとしてすぐに踵を返した。その先には池から這い上がった幸村が掻い膝のまま座っていて、殴られた為かまだ思考がはっきりしないのか彼は何度か頭を振る素振りをみせる。
「幸村さま、幸村さまっ、ああこんなっ水もまだ冷たいのに……っ」
 懐の懐紙を取り出し頬を拭いて、それでは埒が明かないから打掛を脱ぎ夫に掛けた。拭くものを、切れた口を手当てしなくてはと焦るを尻目に後方から兄の声が響く。
「真田、これで勘弁しといてやる」
「……左様か」
「――!」
「は……」
「最後にもう一度だけ聞く。その男でいいんだな?」
「はいっ……」
「なら泣き言は金輪際聞かねえ。奥州の土も踏めないと思えよ」
「さあさ、後はお若い二人にまかせるよ。真田は暫くずぶ濡れのままでいいよ! お灸だからね!」
 そう言い置くと返事も待たず政宗は歩き出し、黙って成り行きを見守っていた成実も明るく笑い手を振って後に続く。遠巻きに双方の侍女近自習も居た様だがそれに習って皆去って行った。
 二人きりになれば途端何を言っていいか分からなくなる。少し頭を冷やせば彼にもきっとあの醜態を聞かれてしまっていると気づくのに時間は掛からないのだから。

「ゆき……」
「すまぬ、其方を傷付けすぎた」
「わ、たしも、口では妻だなんて言っておきながら、疑って……沢山酷いことを言いました。子供だって分かっています。こんな、私だから、側女を取られても仕方ないことも」
、俺に側女はおらぬ」
「でも、あの、躑躅ヶ崎の御館に居る侍女に……」
「躑躅ヶ崎? ――ああ、其方勘違いをしておる」
「かん、ちがい……?」
「あれは上田衆の縁者よ、気が利くし腕も立つ娘故其方付きにならぬかと誘いをかけはしたが」
「縁者……? やだもう、私、忘れて下さいっ」
 もうこの場に居るのが恥ずかしい。なんて無様なのだろう。泣いて悩んで嫉妬して、先日は幸村に酷い言葉をぶつけもした。それが只の勘違いであったなどと、しかも自分の為に声を掛けただけであったなどと。
「まあ先日のあの口ぶりで大方そうではないかと思うてはおったが。よい、俺にとっては御の字よ。其方が嫉妬を覚えたのだからな」
「やきもちを妬いたら、私あんなふうになるんだわ」
「その様な顔をするな、俺にとっては御の字だと言うたであろう? 俺は其方に、俺を欲して欲しかったのだ」
「ゆき……」
、今後俺は其方の母御のような立場に其方を置くことは決してない。よう話して、共に考えよう」
「幸村さま、幸村さま、を許して下さるの?」
「寂しゅうはあったが、最初から怒ってなどおらぬ。――だからずっと傍に居れ」
は、出来た女じゃないです。努力はしますけどきっと失敗もします。幸村さまを怒らせることも沢山するかもしれません。それでも、お傍に居ていいのですか?」
「無論だ。俺とて其方を泣かすこともあるやもしれん。互いにゆっくり双宿双飛となろうではないか」
「ほ、んとう?」
「ああ」
 幸村の真摯な視線がを貫いてゆく。明るいと思っていた眸の色は深い瑪瑙や黒曜石のようにも見える。濡れたままの幸村の手が頬に触れて、はその手を握り返した。
「だからそろそろ、あの衣も着てくれぬか。きっと其方に映える」
「憶えて……」
「無論、其方を思うて選んだのだから。それを着始めたら次を選ぼう。牡丹、桃花、薔薇、紅赤……何が良いであろう」
「牡丹色なんて子供の頃によう着ておりました」
「そうなのか?」
「幸村さまが私を肩車して下さったときもですよ」
「ならあの頃から其方は俺のものであったか」
 その詞(ことば)がひどく心を突いて妻は夫の胸に飛び込んだ。濡らしてしまうと夫は躊躇したが泪を湛える妻の眸に無粋は申すまいと抱きとめる。冷えた身に触れる彼女の身体は温かく、長く伸びた髪に華奢な肩、なだらかな腰が、無邪気であった童女とは違うことを思い起こさせた。耳元に唇を寄せて夫は囁く。
「永久に離すまいぞ」
 ぴくりと妻が身を震わせたのはその科白故か頬に滴り落ちる雫の為か。幸村にはどうでも良かった。今彼女がこの手にあるのだから。

- continue -

2014-02-15

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