(三十三)

 梅が散りその後咲き誇った桜も青々と色を変え季節の主役は躑躅へと変わった。
 まだ沈丁花が残っていたあの夜、幸村に触れられれば決めた覚悟など千々に乱れて砕かれていた。結局怯える感情のまましがみついたの髪を弄んで、寝入るのを待つような彼の態度に逆らえず、側室の話も宙に浮いたまま日は流れていった。
 その間幸村らは忙しく動き、対最上の対処に奔走し共寝をすることも無かった。最近になって知ったが、以前から伊達の密使が何度となく訪れているようだ。ほかにも細々と知ることは多々あり、自分がどれほど幸村を見ていなかったかを思い知らされるのだ。呆れられても仕方がない、知らせて貰えなくとも仕方がない、手出しをされないのも仕方がない。こんな女子に心の定まらぬまま子でも出来たら、家中をかき乱し長じて修羅の母のようになるやもしれないのだ。
 今はただ、心を落ち着けて正室としての執務を全うしよう、自分に出来るのはもうそれだけのように思えていた。千代女が言うには今日もまた多方面から使者などが出入りしているらしい。ひょっとしたら気を利かせた家臣がその中に側室でも連れて来ているかもしれない。せめて邪魔にならないよう、この憔悴した顔を見せないよう、奥御殿に引っ込んで必要以上に外部と接触せぬようにするのがの精一杯であった。

 昼餉をとり少し時を経た時のことだ。円窓から小さく覗く朴柏を眺めていると広縁の遠くが騒がしくなった。奥御殿にござります、これ以上はなりません、お控え下さりませ、と香と祥の制止する声が聞こえて何事かとは文机に手を付いて襖をみた。その先の障子が開かれる音がし、些か乱暴な足音は女のそれではない。だが幸村とは違う足音だ。
「え……」
 そうして心の準備を整える前に勢いよく開け放たれた襖には、の見知った人が難しい顔をして立っていた。
「成、兄さま……?」
「伊達様、御従兄様とはいえお控え下さいまし。ここは我らが殿の御正室様のお部屋にござりまする。ご無体にも程がありまする」
姫は拒絶してないようだけど? 俺たち伊達者に知られたらやばいことでもあるの?」
 久々に見る従兄は不機嫌さを隠そうともせず半ば侍女たちを詰るようにも聞こえる口調でそう言い放つ。は再会の喜びよりも、いつにないこの成実の態度に目を剥くばかりだった。
「久々の再会だ。こういうときは気を利かせて下がるもんだよ」
「しかしながらっ……」
「下がりなよ」
「……っ失礼、致します」
 成実に睨み付けられ低い声で牽制されれば、さしもの香も祥も胆を冷やしたように慄いて引き下がるしか術が無い。躊躇いながらも下がる二人の目には案じるような色が浮かんでいるが彼女らを止める前に何故成実がいるのか何故彼がこのような態度なのか疑問が先んじては香と祥の後姿を見送った。
 衣擦れの音が遠のいて成実と二人きりになると何とも言えない空気が流れる。襖を閉める彼にたまりかねて、あの、と声をかけると成実が頭を掻いてどかりとその場に座った。
「ああー、やっぱりお嫁行っちゃうと会うのも面倒くさいね」
「成、兄さま」
「ごめん驚いたよね。ちょっと強引に来ちゃった」
 だって頑なにちゃん隠そうとするんだもん、と笑う彼は何時もの従兄だ。あからさまにほっとしては成実の傍に近寄った。いつ此方に? と問うと彼は二刻程前だと返してくる。此度の伊達の取次はこの従兄が務めているのだと漠然と知る。
「元気そうだね、と言いたいところだけどとてもそうは言えないな」
「え……」
「とても痩せたよ?」
「……」
 案じるように少し首を傾げた成実には何とも居心地が悪くなった。どう答えていいものか分からない。月並みに、そんなことは……、と返すと成実は大きく首を振った。
「心配かけまいとしてる? それは大きな間違いだよ」
「あの、」
「真田に、側室を持つように言ったそうだね?」
「……どうして――」
 それをご存知なの? そう見上げれば彼は少しだけ目を細めて言った。
「伊達にも優秀な忍びが居るんだよ? 少しはこっちの耳にも入る」
 その言葉は以前母も同じようなことを言っていたことを思い起こさせ、の心の臓はどきりと鳴った。思わず生唾を飲み込んで成実を見ると彼は容赦なく畳み掛けてくる。
「真田とうまくいってないの? 蔑ろにされているなら梵が黙ってないよ」
「そんなこと……」
「女でも囲われた? 裏切られたの?」
「――っ」
 身を震わせて思い起こせばかすかに過ぎるのは侍女と幸村の光景だ。否、しかしそれ以上に自分は手痛いことをしたのだとはもう知っている。牡丹柄の打掛の衿先をぎゅっと握り、小さくだが聞こえるように呟いた。
「……違うの、私が、裏切ったの」
「裏切った? ちゃんが?」
「……最上の、っ最上の策と母上の讒言だけ信じて、幸村さまが伊達を、兄さまの命を狙ってると疑ったの。幸村さまを信じずに、私は咄嗟に兄さまを取ってしまった。――兄さまをお討ちになるのって聞いてしまって、そしたら幸村さまが言ったの。何故自分のことを信じてくれなかったのか、其方はまだ伊達の女のままかって」
「うん、うん」
「兄さまの御顔にも泥を塗ったわ。独眼竜は嫁の自覚も持たぬ娘を嫁がせたってきっと皆思ってる。っ何より兄さまは、実家大事の謀を一番にお嫌いになるって知っていたのに。実の妹がこんなんじゃ」
 戦国の倣い通りに行くなら、嫁は婚家の為のものではない。実家からの人質、同盟の証、そして内通者だ。夫に不審の気配があるのならすぐにそれを実家に伝える。同盟が破棄になれば実家に戻る、それが生き方で母はその通りに生きたのかもしれない。
 でも政宗はそれをしなかった。政宗とて家督相続した直後、葦名などと揉め絶体絶命に陥ったことがある。そのとき助けたのは葦名佐竹に嫁いだ叔母たちだった。その大切さをわかりながら政宗はにそれを求めなかった。幸せになれ、その一言しかに言い含めることはなかったのだ。それ以上の言葉があるとすれば、疑われないようその身を守れとの処世術ぐらいで、実家のために働けなどという言葉はただの一つもない。なのに自分はその心も分かっていなかった。
「成兄さま、私、母上と一緒だった……。母上にも言われたわ。お前は私の娘だからいつか婚家を裏切って実家に戻るって。存外、早かったみたい」
 泣くまいと最後は少しだけ成実を見て口を湾曲させて見せた。しかしすぐ視線は横の調度品に移動してしまう。心配げな従兄の視線に耐え切れなかったからだ。
「母上に似てると思ったら急に怖くなったの。母上みたいに我が子に毒を盛る女になるかもしれない、嫁いだ娘に息子を殺させるような謀略を巡らせるかもしれないって。だから、私は子供を持っちゃいけないって思ったの」
 一層手が衿先を握り締めるに、それが彼女の後悔と自戒を表している気がして成実は只見つめた。の母たる保春院がどれほど彼女にも政宗にも影を落としているか知らない成実ではない。
「私、ずっと母上のようには絶対ならないって、なりたくないって思ってた。けれど、今回私が幸村さまにしたことは……実家ばかり大事にしてた母上と同じ。幸村さまが兄さまを殺すと思って兄さまの心配ばかりして、どうすることも出来なくて、幸村さまを信じなかった」
「うん、うん」
「報いだわ。幸村さまにももう信じてもらえないもの。これからなんてうまくいくはずも無いっ。けど、だからって、真田の家を絶やすようなこと出来ないから、っ、三条の方さまに頼んでっ……」
 一つ口火を切ればもう感情の吐露は止められなかった。堰き止めていた堤が雨で決壊してしまったように噤んでいた言葉が溢れて我が身を覆う。感情が暴れれば堪えていた涙など無駄な努力で、引っ張られるようにぽろぽろを頬を濡らしてくる。
 成実はそんなに少しだけ笑んで言葉を掛けてきた。優しい声音、柔和な笑み、茶化す兄とは違う聞き上手な彼は、こういう仕草が反則なのだと思う。
ちゃん、――真田のことを愛しているかい?」
 思いがけない言葉だった。何も考えずが頷いて返すと、成実はそう、と相槌を返してさらに問う。
「それを、真田に言ったかい?」
 今度はふるふると首を振るった。
「言えない、言ったって誤魔化されたり冷たくあしらわれたらどうしたらいいか分からない。今だって、あの日からどこか余所余所しくて御心が分からなくて、思い出すだけで涙が出てくるのに」
「ばかだなぁちゃん。言わなければ伝わらないし、それこそお東様の二の舞だよ? お東様は気位高くて自分の想いを言えないばっかりに梵とも伯父上ともどんどん溝が出来ていっちゃったんだよ?」
「分かってても言えないっ! 拒絶されたら、もっ、生きていられないっ!」
 そう言ってははっとした。自分の本心はこうなのだ。何が側室か、何が真田の家に尽くす正室だ、自分は心の大部分を占める幸村を愛していてそれが消えればなんの指針もないのだ。
「じゃあ奥州帰るかい? どちらにせよ今のちゃんを一人には出来ないよ。梵だって愛ちゃんだって、ちゃんが不幸になるのを黙って見てないよ。二人はね、ちゃんを幸せにする為にここにやったの。真田を買っていたし、ここなら最上からの思惑からも離れられる、そう思ったからだよ。ま、最上は来ちゃったけどね。ただちゃんを猫可愛がりしたいだけなら手放したりしないよ。もしそうなら今頃奥州のだれかと縁付けていたと思うよ」
「いや……離れたく、ない……」
ちゃんに余所余所しくて迎えた側室を夜な夜な抱く真田に耐えられるの?」
「嫌に決まってるっ、だけど、家を絶やしてはいけないもの、だって、それが正、室だもの」
 ここぞとばかりに成実が畳み掛けてくる。蓋をしたい想いも、突きつけられる現実も。耳を覆いたいのに彼の言葉と視線がそれを許さない。
「そんな真っ青な顔して何言ってるんだか。そんな君を梵が見たらどう思う? ちゃん、悪いけど俺はこれを梵に報告するよ。大丈夫、奥州に戻ってちゃんを大切にしてくれる男を見つけてくれるよ。謀略なんかに関わらず過ごしていける、優しい男をさ。見知った男がいいなら俺や左馬之助でもいいし」
 言を紡ぐ成実の表情は優しいそうに見えてその眼光は鋭くは薄氷を踏む想いを抱いた。それが何時もの慰めなどではなく、独眼竜の側近としての顔だということを知っているからだ。この従兄は本気なのだ。
「嫌っ! やめて成兄さま! 戻っても嫁がされるんでしょう? 私っ幸村さま以外に触れられたくないっ」
 形振りなど構っていられなかった。は声を荒げて成実に衣裳にしがみ付いて必死に懇願した。

- continue -

2014-02-08

**