(三十二)

 幸村は櫓を後にして主殿への道を進む。煌々と焚かれた篝火はパチパチと音を立て、火焔は衣裳の色と相俟って彼の心の内を表すかのように一層映えていた。無言のままの主君の心を推し量るべくその背に向けて佐助は明るく声を掛けてみることにした。
「はーやれやれ。なんか居たたまれないというか緊張したというか」
「其方でもか?」
「まあねー」
 少しだけ表情を緩ませた幸村に佐助だけでなく千代女も内心ほっとする。
「でもあの女(ひと)ほんと竜の旦那にそっくりだね」
「ああ。……自分に似た我が子、離されたならなお一層愛おしく思うのが親だと思うておったが」
「すれ違って拗れに拗れて、何だろう近親憎悪とでもいうの?」
「かもしれん。存外不器用な御母堂であられる」
 垣間見た悲嘆には少なからず同情の念がある。だが哀しい哉それに絡め取られる子らはもっと悲惨だ。そう思えばそれ以上の感想を述べる気にはならなかった。幸村はほんの一瞬目を伏せて、そして開いた。感傷に浸る暇は無い。行動を起してしまった以上事態は坂道を転がるように目まぐるしく進むのだから。
「佐助、諏訪だが」
「はいよ、勝頼様のことでしょ。安心して、勝頼様は関知してないみたいだ。勝頼様に家督を継がせたい家臣団が暴走した感じだね」
「そうか、それが誠ならお館様を悲しませずに済む」
「それが救いだね」
「諏訪衆の心情を考えれば無理からぬことかもしれん。武田に滅ぼされ姫をお館様の側室に取られ、そんな中で生まれてきた勝頼様は大きな望みの綱であったろうからな。身の丈以上の想いを抱いたのであろう。だからこそ」
「だからこそ?」
「この諏訪衆の想いを巧みに突いて躍らせた者、俺は許すことが出来ん」
「そうだね」
 幸村には大大名最上と、権威ある諏訪大社の神氏の一族とはいえ甲斐武田の一国人衆となった諏訪がこうも易々と手を組み密謀を巡らせたことが不自然でならなかった。双方を手足として甲斐と奥州を引っ掻き回したい何者かが居ると考えたほうが妥当だった。
「数を倍にして双方に間者を送ってる。まかせて、皆腕利きだから必ず成果を上げるよ」
「ああ」
 そう答えて幸村は息を吐いた。佐助は思わず、疲れてる? と聞いて、ああ当たり前かと内心自分を詰った。幸村は少し笑って、ああ流石にな、と頷いた。
「すまぬ、主殿に戻るのは止める。このまま奥御殿に」
「了解」
 疲れてるんじゃないの? と言い掛けて佐助はまた口を噤む。幸村と正室の間は今はとても複雑で傍から見れば顔を合わせれば気疲れするのではないかと思える。だが佐助にはを見る幸村の目が色濃い執着に染まっているのを知っている。何があってもを傍に置くことが幸村にとって、たとえて言うなら緑陰のようなものなのだ。
「千代女、先に行って皆に支度を」
「心得ました」
「では佐助、諸々頼むぞ」
「かしこまりー」
 言われるまま千代女はさっと姿を消し佐助もまた樹木にその身を隠して幸村の背を見送った。
「どうなるのかねぇ」
 その答えはやはり出ない。


暮夜を過ぎて如何許り時を経ただろうか。寺から帰城してよりずっとの傍を辞していた千代女が戻ったかと思えば途端に忙しなく動き回る侍女たちに、ああ今宵もなのだそんな刻限かとは数瞬眸を閉じて気持ちの落ち着き処を探す。彼はいつまで自分の許に訪れてくれるだろうか、三条の方様にもお願いした、侍女との現場も見た、ひょっとしたら今宵が最後である可能性もあるのだ。そう思えば心の臓がどくりと鳴り、何を今更とは首を振る。
「全部、自分で決めたことだわ。私は母上のようにはならない」
 なのに何故だろう。心の臓はぎゅーっと我が身を締め付けるのだ。
 茵から降りて手を付き頭を下げれば聞きなれた跫音が響き、それはぴたりとの前で止まる。少し見える視界の先でその主は茵に腰を下ろしたようだ。
「お戻り、なされませ」
 戻るという言葉は語弊がある気がした。自分は何時も彼の来訪を待つ身であるのだからいらっしゃいませ、が妥当なのかもしれない。
 ああ、と幸村が頷いては顔を上げた。共寝を避けていた分彼の顔を見るのは久方ぶりだった。
「あ、あの、お疲れにございますか?」
「少しな」
 だから分かる、その大きな違いに。随分濃い疲労が彼を覆っているように感じられたのだ。最上のことはどうなったのだろう、うまくいかない事態でもあったのだろうか。そこまで考えて、止めよう、とは思考を停止させた。あれこれ気を揉んで口を出して大きな失敗をしたばかりではないか。これ以上疎まれるのは耐えれそうにもない。
「湯にでもお浸かりになってお早めにお休みになられたほうが……、すぐに仕度させますが」
「ああ、そうする。だが時によ」
「はい」
「俺に側室を取れとは誠か?」
「……っ、左様に、ございます」
 自分で決めて自分で願い出たはずのことなのにいざ幸村の耳に届いたと思うとどうしようもない恐れが我が身を覆う。見上げる先にある夫の視線、怖くて目を逸らしたいのに逸らした後がまた恐ろしかった。幸村はの傍に近寄り立て膝のまま問うてくる。
「何故か」
「わ、私は……っ、私は、童にござりましょう……? 子供の私では幸村さまのお気持ちに沿うことなんて出来ません……」

「だからっ」
 其処まで言うと恐ろしかっただけのはずの感情が別の色を帯びての中で爆ぜてくる。
「幸村さまはっ、躑躅ヶ崎の侍女とよろしくおやりになればいいのだわっ」
「何?」
 そう言うと夫はの右手首を引き寄せ、それに伴って近づいた顎にくいと手をやった。互いの吐息が感じられる距離がもどかしくて、くらくらして、流されまいとは抗う。
「その様な憎まれ口を叩くのはこの口か」
「病が移りますから、お近づきにならないでっ」
「それはどんな病であろうな? 城の外へ出る元気はあるようだが」
「っ……やっ」
 幸村の唇が近づくとは必死に顔を逸らして逃げようとした。
「他の方になさったことを私になさらないでっ」
「何を申しておる」
「いやっ大嫌いですっ」
 勢いに任せてそんな言葉まで口にしてしまう。手が止まる夫にはっとするや否やすぐに浮遊感に襲われた。それが横抱きにされていると気づくのに時間は掛からない。息を呑んでいると、今宵は着替えもいらぬ、皆下がれと幸村が言い、侍女らが止めるまもなくそのまま襖の先にある褥へと身を沈められる。
「濡れ衣に加えて大嫌いとは頂けぬ」
「幸村さまは嘘つきだわっ……、私見ましたものっ、躑躅ヶ崎で、侍女の手をお取りになってそれから……それからっ」
 思い出せば苦しくて視界が歪んでしまう。幸村は一瞬目を丸くしてすぐにククと笑い始めた。何を、と言う前に彼の唇がのそれへを重なり、息も出来ぬほど貪られる。触れられなくなって初めての口づけだった。
 ――やめてやめて、子供だと思うなら私に触れないで。諦められなくなってしまうから。
 理性がそう叫ぶのにの手は思わず幸村の着衣を握り締める。
「俺に側室をと言いながらそのように可愛らしく嫉妬されては手放せようはずもない」
「っ幸村さまは私をっお許し下さらないのでしょう? お嫌いなのでしょう? だからっ」
「手放さぬぞ、
 どうしてそんな言葉を言うのか、にはもう分からない。
 愛して下さるなら元に戻って、嫌いなら放っておいて。共寝をしながらその背に許しを請うことにも疲れたはずなのに。そんなことをされたら期待してしまう、縋ってしまう。もう決めたのに、ちゃんと真田に尽くす正室になるって決めたのに。
 うそ、本当は言いたかったの、離れたくないって、私を愛して下さいって、他のところへ行かないでって。素直に言えばよかったの? 貴方様は許して下さる? 拒絶されたらもうどうしていいか分からないの。
 ――貴方はどう想っていらっしゃるの?

 本音と建前がの思考も心も揺さぶり続ける。耐え切れなくなって我知らず幸村の首に腕を回す。その答えを知るのが怖い。苦しくなる息に気が遠のくのを感じながらの手は必死に彼を求めていた。

- continue -

2014-02-01

**