(三十一)

 手が震える保春院を侍女の一人が支えようと近寄った。だが幸村が窮追の手を緩めることは無い。
「最上殿はこれより伊達が抑えに参る」
「っ!!」
「そんなっ」
「保春院殿、御方に総ての責があるとはこの幸村思うておりませぬ。だが手を貸したことの顛末は見て頂く。最上殿は御方を騙し、御方を使って我が身を滅ぼすこととなりましょう」
「なん……」
 戦慄とは、今のことを言うのだろうかと保春院は思う。かつては熱き紅蓮の鬼甲斐の若虎と謂われた婿、それが声を荒げることなく淡々と突きつけるその様に背筋が凍る。彼の申すことが事実なら最上の兄はとんでもないものを敵に回している。味方であれば此れほど心強いものは無い。だが時としてなんて冷徹な目をするのか、なんて周到に敵を追い詰めるのか。
「此度のこと政宗殿やが苦しまぬと思われてか」
「……!」
「既に御方は伊達の者とは言いがたい。だがこのまま羽州にお戻しし戦火に巻き込むのは忍びない、故に暫く上田で保護して欲しい、政宗殿はそう書状に書いておられた。卒爾乍ら某とて伊達の事情は心得ておる。総てを飲み込んだ政宗殿のお気持ち察して頂けましょうな」
 保春院からの返事は無い。ただ床に付いた手をぎゅっと握り締めていた。保春院様、と主人を支えようとする侍女らも痛々しい。しかし幸村の攻勢はまだ続く。
「それから一つ、もうを解放して下さらんか」
「はっ!」
 その言葉はひどく保春院の耳を突いたらしく即座に顔を上げ幸村を睨み付けた。
「それは其方よ、は妾のようにはならぬと言うたがあの目はなんぞ。妾は政宗の傍であのように死んだ目をしたの顔はみたことがないわ。其方こそ何を言うた? なんと追い詰めた!」
「……」
「あの目には覚えがある。妾が伊達でしておった目じゃ。……大方妾のような立場に置いたのであろう……」
「保春院様……」
 白髪交じりの侍女が悲痛な色を顔に浮かべて幸村を見る。もうやめて欲しい、暗にそう言うかのようだった。
「……妾とて、嫁いだ当初は伊達も最上も双方うまくいくように心を削っておったわ。だが政宗が生まれた頃伊達と最上の関係は拗れて、間に立とうとすれば最上派だといわれ政宗を取り上げられた。子の顔を忘れ掛けてしまうほど会わせて貰えなんだ。疱瘡を患ったあの子に会いに行けばそこにはもう知らぬ顔の子しかおらぬ! あれは妾の息子ではない。息子かもわからぬ! 妾の可愛い梵天丸はもうおらなんだ!」
「御母堂……」
「小次郎が生まれて、優しい子に育てて、政宗は苛烈でもこの子が間に立てば伊達と最上の関係も良くなると思うておった。だが家中も政宗もそれを嫌った。ことあるごとに最上を敵とした! の時とて! の時とてそうじゃ! が生まれて、この子を最上に嫁がせれば修復できると思うた。だがそう望めばを今度は政宗に取り上げられた。妾はただ和合させたかっただけであったに伊達は皆私を責める。大殿にとて最上に関しては心が届かぬ。一体、妾はどうすれば良かったのじゃ!」
 不遜な女性、それが幸村の持つ保春院の第一印象だった。戦場にさえ姿をを現しそれを止めたという奥羽の鬼姫、だがその裏に隠された悲哀は難しい世情に嫁いだ傷つきやすい一女性の嘆きだった。
「妾には息子はおらぬ。息子は死んだ小次郎だけじゃ。……そう思わねば誰に顔向けできよう」
 夫婦のこと、親子のこと、愛憎が絡めば推察は出来ても総てを推し量ることなど出来ない。だが当主であるなら情を絶っても世継となる息子を取り上げねばならぬこともあるだろうし、外交手段にもなり得る娘を内に隠さねばならぬのも現実だ。伊達の先代は側室ももうけずその点なら奥御殿は平和であったと聞く。難しい情勢に置かれた夫婦だったが子も四人恵まれた。一人は夭折し、もう一人は件の騒動で命を散らすことになったが先代が保春院を愛していたのは事実だろう。
 愛し愛された二人であったはずだ。さまざまな思惑が保春院を絡め取り、保春院自身の気性もまた事態を深刻にしていったように幸村には思えてならなかった。
「言われずとも分かっておるわ……」
 幸村の心を覗いたかのように義母はそう答え、暫しの間二人の間には沈黙が流れた。
 ひょっとしたら最上も最初は小さな政治的な駆け引きから始まり、徐々に婚家で難しい立場になってゆく妹が哀れで次第に伊達憎しになったのかもしれない。一歩間違えば幸村と、幸村と政宗もそうなってしまう可能性も孕んでいるのだ。
 誰がを手放すものか、誰に横槍を入れさせるものか、幸村は内心首を振り静かに保春院を見た。
「真田様、お願いにござりまする。もうこれ以上は……」
「分かった」
 侍女の制止に応じ幸村はそのまま席を立つ。緊張を解かない佐助と千代女はそれを注意深く見守っている。
「外部との接触は応じかねるが、それ以外不自由があれば申して下され。彼是心得のある者を寄越しましょう程に。御付の者らもそう心得て何かあれば申せ」
「痛み入りまする」
 隙の無い所作で去り行く幸村を見送り佐助もさっと姿を消す。千代女は控えていた配下に証人を下がらせると一礼して障子を閉めようとした。
「待ちや」
「は……」
は、如何しておる……?」
 一瞬、どう答えようか千代女は迷った。視線の端に幸村の背が見えて結局、恙無くお過ごしにござります、と言うと保春院は呆けたようにそうか、と呟いただけだった。ひどく居たたまれなくなってそのまま障子を閉めると、彼女は足早に幸村の後を追うように局を後にしたのだった。

 遠のく跫音を聞きながら保春院の唇は滑る。
「政宗が妾を気遣うておる? 此処まで拗れて、我等は此れから如何ともならぬのにあれは……」
 侍女らは下を向いて掌を握り締める。一人は啜り泣き、一人は唇をかみ締め、もう一人は只只首を振った。保春院の言葉に誰も答えることが出来なかった。

- continue -

2014-01-18

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