(三十)

 灯明皿の上で裸火が燻っている。皿の中に揺蕩う菜種油が十分に足りているかを確認しながら幸村は佐助からの報告に思案を巡らせていた。
 最上からの使者として訪れていたの母保春院、幸村の命により彼女を佐助らが捕縛し今は忍隊の管轄に当たる棟の一角に置いている。捕える前にと保春院の間であった遣り取り、それが酷く胸を突いたのか保春院は何の抵抗もせず従い今も大人しく過ごしているという。さてこれから如何扱うか、床に散らばる書状の数々を見ながら幸村は息を吐く。隠したとて保春院捕縛の報はすぐに忍びから最上に伝わるだろう。むしろ伝わって欲しいのだが時期が重要だ。
「ふむ、やはり此処は佐助の采配にまかせよう」
「あらー俺様また出張ー?」
 突然天井裏から件の腹心が顔を出すのは何時ものことだ。幸村は刺して驚かず口元を緩めた。
「すまぬな。無論其方でなくとも構わんがあちらで臨機応変に動ける者が良い」
「独眼竜も巧く動かせる人じゃないとだめでしょ?」
「左様」
「うーん、俺様だね」
「言ってくれる」
「まーね。で、保春院さんに会う?」
「ああ、このようなことになってしまったが御義母上であるからな。には漏れぬように」
 そう言って幸村は立ち上がる。佐助はかしこまりー、と答えながら近年頓に考えが読めぬようになった主君の背について行くのだった。

 そして幸村は件の櫓へ足を踏み入れる。其処は以前が何の建物だろうかと近づいて佐助に止められた場所だ。沢山の仕掛けや忍具が整えられたこの櫓は知らぬ者が入れば忽ち迷い大怪我をするのがオチだ。保春院が動き回れば危ういところではあるが、彼女らの中には忍びの心得がある者がいるようだとの佐助からの報告もあり、ならばこの櫓が危険だといい含めるだろうし真田がいかに本気か良い牽制にもなるだろうと此処に置いたのだ。何より此処への来訪を止められていると接触することもないはずだ。
 広縁を渡り何度か角を曲がって、櫓の外観に合わぬ華美な一室の前に幸村は立つ。この櫓を父昌幸が建てたときに貴人を捕らえることがあるやもしれぬと造られた局だ。子供心にそれはどんな人なのだろうと思ったものだが皮肉にも妻の母とは。世の中わからぬものだな、と独り言ちてすでに控えていた自分の近自習を見ると、中においでです、と手短に答えてきた。頷いて、
「幸村にござる」
 と言えば中の気配はかすかに震えてるのが分かる。それこそ義母のものか侍女のものかは判りかねた。
「遠慮なさることはあるまいに。入られよ」
 だが次の声は確かに保春院のものだった。
 幸村がその言葉のまま足を踏み入ると脇息に手を置いた保春院が座していた。左右を固める数名の侍女の顔には恐れ、不安、怒りがそれぞれに入り交じっている。一人、その中で怒りの色が強い侍女が懐近くに手を置いていたが何処からともなく威圧する佐助の気配に観念したのか両の手を握りしめるに至った。
「ご不便をおかけする」
 座した幸村がそういえば義母は少しだけ鼻を鳴らした。成る程、不遜な目も態度も好敵手を思い起こさせるには十分だが妻にはあまり似ていない。
「皮肉も口上も最早無用であろう。婿殿、何故裏切ったかとは言うまい」
「……」
「踊らされたは妾であったか。政宗と結託し何を企んでおる」
「それは語弊がありましょう。先に仕掛けてこられたは最上殿。小狡い手を使ってくれたもの」
「何を申す」
「御母堂、貴女の知らぬところで最上殿は色々やってくれたのでござる」
 幸村は居住まいを正し、保春院からは怪訝な視線が注がれる。
「息子どころか娘の嫁ぎ先すら滅ぼすつもりだったと御母堂におかれてはご存知であられたか?」
「何じゃと?」
「簡潔に申そう。最上殿は諏訪衆と組んでおられる。諏訪は我らがお館様の四男勝頼様の御養子先。これがどういうことかお分かりになられぬか?」
「諏訪……勝頼」
「最上殿、諏訪衆が真田より家督を取り上げんが為に暗躍のことご承知」
「まさか」
「佐助、千代女、例のものをこれへ」
「はいよ」
 佐助は音も無く幸村の背後に現れ何通かの書状を差し出し、受け取った幸村はそのまま保春院の前に広げて、ご覧になられよ、と促した。怪訝な表情を崩さぬまま書状を手にした保春院であったが、紙の上に踊る墨を追うと見る見るうちに目を見開いた。
「この御手蹟は……」
「其方の書状は捕えた山形の間士が携えておったもの、そして下に置いておる書状は以前最上殿から某に送られたもの。――この手蹟、誰のものか御母堂ならお間違いにはならぬはず」
「馬鹿な、あり得ぬ」
「千代女」
「はい」
「其方……の」
 開け放たれた障子の先から迷い込む風に揺れる灯明のように保春院の眸も揺れる。佐助と違い部屋の外に控えていた千代女を見た保春院は見覚えのあるこの女が何故此処にいるのか分からなかった。
 千代女は深く礼をして、庭に控える配下に目配せをすると、数名の忍びらしき者らが保春院の前に引き出された。縄を回された彼らの姿が尋常ならざることだと思い至れば我知らず息を呑んだ。
姫様を攫おうとした者らに御座います」
「なに……?」
「この者らは甲賀者の末端、最上殿の依頼を受け黒脛巾組に化け姫様を攫おうとした由。行き先は山形」
「侍女が偽りを申すな!」
「この者らは千代女に嘘は申せませぬ」
「婿殿……」
「千代女はお館様直々にに付けられた侍女頭にて姓は望月、甲賀筆頭家の望月家の者にござる。言わばこの者らの上に立つ者。千代女自身もお館様の信任の厚い忍びに御座れば。――最上殿が甲賀の忍びを遣こうたはすぐに手切れ出来るものと踏んだからに御座いましょうな。ご自身の間士など遣えば其処から足が付く故」
を攫うなどと。……あの兄上がっ……私の娘を攫うなどとっ」
を狙うたは伊達領を欲するが故、手元に置いておきたかったのでござろう。もしそれが露見しても御母堂、貴女を言いくるめることが出来ると踏んだのでありましょうな。母娘揃い山形で暮らせばよいと」
「――っ!」
 その言葉に保春院は思わず手を付く。それは幸村の痛烈な皮肉だった。政宗暗殺を持ちかけ暫くしたあの日、返事を後日に持ち越していた幸村が来訪し言ったのだ。事が成就した暁には山形よりいくらかでも暖かい上田でお過ごしになられればよい、の傍で、――と。彼はあの時既に政宗と連絡を取っていたのかもしれない。総て見越してそう言ったのかもしれない。
「さて御母堂、最上殿は伊達を滅ぼすのが得、諏訪は真田を排除するが得、そうして伊達がなくなり甲斐武田が内乱になって得をするのは何処かご存知か?」
 何も知らなかった保春院に言葉が出るはずも無かった。

- continue -

2014-01-04

**