(二十九)

 が保春院の居室から退出し沈丁花を切なげに眺める姿を居室と対する棟の屋根上から見ていた者達が居る。猿飛佐助は配下のくの一縫他忍隊を連れ立ってこの寺を訪れていた。無論、屋根の上から覗くなど大凡正規の訪問方法ではないがそこはそれ、彼らは忍びだ。
「紬に姫ちゃんが早く城に戻るようそれとなく促させて」
「心得ました」
「報せてくれて助かったよ。保春院さん捕まえるところ姫ちゃんに見せなくて済んだもの」
「何があってもお母上、御心苦しくあられるでしょうね」
「だろうね」
姫様にはいつお知らせに?」
「すべてが終わってからだろうね。旦那は流石に今知らせるのは忍びないってさ」
「左様で。僭越ながら私もそれがいいと心得ます。――では紬の許へ参ります」
「よろしく」
 縫はふわりと宙に身を踊らせたかと思えばすぐにその姿と気配を消し去る。佐助はそれから暫くの乗る輿が寺から離れるのを待ちつつ保春院らの居室の様子を探った。の母とはいえ何分尼君の一行、護衛もいたが格段厳重ではない。最初に幸村に接触を図ったときは忍びも居たようだが本国との連絡に一人二人と戻っていったのかもしれない。
「最上さんもひどいことするよ」
 開け放たれたままの障子の先に視線をやって彼はそう独り言ちた。
 それからいくらか時が経ち輿の姿も見えなくなると佐助は周囲にいる配下の忍び、そして門に配備された侍大将に伝令を送ってその時に備える。侍大将の指示で武士たちが音を鳴らさぬよう細心の注意を払い寺の内外を囲み終えたのを見計らうと佐助はいよいよ行動を起こした。
 縫と同じように宙を飛び軽やかに保春院らが滞在する棟の庭に降り、ゆっくりと歩みを進める。花は咲いても未だ居残る冬が頬を撫で、風が室内の匂いを運ぶ。忍びの優れた鼻を掠めるのはかすかな白粉の香りだった。
「保春院様、もう羽州にお戻りになられますか?」
「ここにいらっしゃるのももうお辛いことと我らは思います」
姫様の御心遠き今は徒にお話にならぬほうが宜しいかと」
「帰り支度ならすぐに出来まする。最上の大殿にも早馬も飛ばせますれば」
 白髪交じりの侍女等は長く保春院に仕える者たちだろうか。彼女らの主人は脇息に臥せ肩を震わせている。遣り取りを思い出せばいっそ哀れではあるが掛ける情けなど佐助にはない。彼の口は冷静にそして威圧感さえ込めた口調を投げかけるのだ。
「悪いけど今は出来ないよ」
「何者!」
「――! 其方、……猿飛殿か?」
 相手は三者三様だが皆弾くように振り返り訝しんで佐助を見る。
「覚えててくれました? 真田忍隊猿飛佐助、主君真田幸村の命によりお迎えに参上。保春院さん、悪いけどご同行頂きます」
「無礼な! そちらの御正室の御母堂ぞ! 奉行目付ならいざ知らず忍びごときが!」
「まあ、これでも一応腹心なんで」
「まちや」
 猛る侍女らを押さえて保春院は佐助を見やる。打ち拉がれる保春院の顔は政宗によく似ていると思えた。
「そうか、婿殿は最上と手切れ致す御所存か」
「まー正直に言うと、はなから最上と組む気なんて皆無でしたけど」
「何?」
「今それを言うってことはどういうことか分かります?」
 諦観したような保春院とは対照的に周囲の侍女等の眸に動揺が浮かんだ。一人は懐に手をやろうとしている。老女だが彼女も多少の忍術の心得があるのだろうと佐助は少しばかり視線も声音も強めた。
「……最上の首根っこ掴んだってことです。無論竜の旦那にも連絡済みですよ。あんな姑息な手で真田が騙されて虎と竜が手切れするなんて、最上さん舐めてんの? 最上と結託した甲斐の人たちもね。あんな質の悪い忍び遣うなんて、うち千代女さんがブチ切れでしたけど」
「最上と結託した甲斐の者?」
「まあ、寺は真田一門の侍大将が囲んでるんで。上田の城には彼の配下が輿を用意していますよ」
「周到じゃな」
「其処までするのはうちの可愛い御方様への敬意です。まあ空気読んで――大人しくご同行頂く」
への敬意……のう。ならば何故あれを苦しめる」
「……」
「妾の言えたことではないがな。一つ聞こう」
「なんでしょ」
はこのこと存じておるのか?」
「いいえ」
「そうか。――参る。好きに致せ」
 そう言って保春院は立ち上がる。背筋をすっと伸ばす彼女は美しいと思う。佐助は手を差し出して保春院の手を取った。
「ほう?」
「言ったでしょ。うちの可愛い御方様への敬意だって。俺様は旦那も姫ちゃんも大切なの。だからそのおかーさんにもなるべく優しくしてあげたい訳。言うこと聞くならね」
「油断ならぬ人たらしめ」
「そりゃどうも」
 保春院は忍び如きと罵倒することもなく佐助の導きのまま部屋を出る。侍女等は息を呑んでそれを見守りその後に続くのだった。

- continue -

2013-12-29

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