(二十八)

 幸村の職務に合わせ慌しく上田に戻った頃には雪はほぼ溶け消えていた。地面に覗く土の色を見るのは久方ぶりだった。梅が知らせた春の訪れはもう其処まで来ているのだ。
 躑躅ヶ崎館で起こった光景は酷く衝撃的で瞼に何度も映ったが、母を想い義姉を想えばようよう心にある程度の折り合いを付けることが出来てきた。流石に幸村との共寝は相変わらず避けていたが、上田に戻って数日、閉めがちだった襖を開き障子から光を受けては奥の執務を再開した。
姫様、此度の冬は皆狭織作りに精を出したようにございますよ。前年の二割増し程納められております」
「そう、溜め込むほうがいいとは思うけど皆を思えばいくらか酬いてあげるべきね。家中には今何が必要かしら」
「そうでございますねぇ、戦をせぬ分物品は足りておるようですが」
「そう、手近でいけば銅銭なのだけど皆が喜ぶものがいいわ。皆の希望を聞いておいて」
「承知致しました」
 奥の諸事をこなすに香ら侍女は少しだけ胸をなで下ろしたようで少し前までに釣られるように緊張した顔も柔らかいものになっていた。それを見るに、本当に私子供だわ、と首を振り常に周囲を気遣う義姉の偉大さを思い知るのだ。
「他何かあるかしら」
「いえ今日はもう。お疲れ様にございました」
「皆もね、心配をかけました」
「そのような」
「皆も早めの昼餉にしましょう。それが終わったら少し外に出たいわ」
「心得ました。外、と申しますと?」
「心配ついでに憂いを少しずつなくしたいと思うの。才蔵も付いて来てね」
「御意」
 天井に声をかければやはり忍隊配下の忍びも居る。その状況にもすっかり慣れと諦めもついた。幸村に動向が筒抜けになるのを嫌がったとて所詮意味もない。そう、期待しなければ良い、正室としての勤めをこなし物事に一線を引けばとうということはないはずだ。
 言葉通り侍女らと共に昼餉を済ませ城下に出る。供は千代女に祥と縫だ。香は明日の奥の諸事の下見に、紬は何らかの連絡があればすぐに知らせる為に城に残った。佐助や才蔵の足をみれば、忍びである紬もまた常人では考えられぬ速度で動けるのだろう。
 当初は出たことを嗜められると思っていたが幸村からの小言はない。それはもう興味もない故のことかもしれないがもうはそれで構わないと思いだしていた。母のようにならなければそれでいいのだ。

 目的地に着けば其処は前回と様変わりしていた。城内と同じように雪は溶け白銀の景色は色とりどりへ代替わりし、あれ程咲き誇った沈丁花は散り始めてその香りも薄れている。
姫様こちらは先日のお寺でございますが」
「ええ、母が居るの。知っているでしょう?」
「ご滞在されていることは存じておりまする」
「もう、決別したいの」
「心得ました。お部屋に着きましたら私どもは外に控えておりまする。何かありましたらすぐにお呼びを」
「ありがとう」
 母保春院付きの者が知らせたのか、彼女はすでに茵に座りを待ち構えていた。年齢の割りに母は艶やかで美しいと思う。父は側室を持たず生まれた子も多かった。戦国の妻として母は恵まれた環境にあったはずだ。なのに母の周りには子は誰も居ない。人の生涯など心持ち一つで此処まで変わってしまうものなのだろうか。
「もう来ぬと思うておったが如何した。なんぞ進展でもあったか?」
 何処か棘のある言葉使いは母らしいと思う。
「あったほうがお宜しいのですか?」
「無論、妾はその為に此処に居る」
「何故其処まで婚家を取り潰そうとなさいますの」
「知れたこと、小次郎を殺したあの鬼の子を消さねばならぬ」
「我が子を鬼などと、貴女というお人はっ……」
「父を討ち、弟を手にかける鬼。あの鬼を産んだはこの妾。ならば妾の手で葬らねばならぬ。でなくば……小次郎にも大殿にも申し訳が立たぬ」
「母上は思い違いをされておられます。父上の死は父上自らが討つようにとお命じになられたはず」
「小十郎や綱元の言うことなど信じるに足りぬ!」
「ならば小次郎兄さまは」
「躊躇なく政宗が斬りおった! ……殺すなら、毒を盛った妾を殺せばいいものをっ……」
「母上」
「一房、遺髪のみ渡されて遺骸を見ることも叶わなんだわ」
 その言葉に初めては母の嘆きを見た気がした。兄政宗を鬼と言って憚らぬこの人だが一片でも悔いる気持ちがあるのだろうか。
「母上、何故そうなったかとはお思いにはなられないのですか? 貴女のなさったことは父を信じず、嫡男を遠ざけ、次男を溺愛し実家に近づけた。それが最上の伯父上の思う壺だと何故お分かりになりません」
「最上の兄上はそのようなことはなされぬ」
「……私もどんなに鬼だと罵られようと自分の兄さまがその様なことをなさる方だとは思いません。ですが私は母上のようにはなりません」
 母はまるで未来の縮図だ。子を持てば自分もこうなるのかもしれないと思えば今同情して手を差し伸べることなど出来ない。今はただ毅然と彼女を見た。
「嫁した日から私は真田の女。先の見えない乱世だから目の前の御方を信じねばならなかった。回り道をしましたがもう心は決まりました」
「愛殿のように婚家に尽くして伊達を捨てようとするか。それは捨てたことにはならぬ。愛殿と同じ道を歩もうとするは、其方の心には政宗と愛殿がいつまでもおるということ」
「大切にしてくれた父母は捨てぬ、それだけのこと」
「其方の母はこの私で、父は伊達輝宗ぞ!」
「誰を親と思うかは私の心持ち次第と気づきました。過ちを犯してしまったその後の身の振り方も」
「皮肉を申す。では何故そのような眼をしておる。其方の目は全てを諦めた目、死んだ目じゃ」
「……」
 きっと母は、諦めなかったということなのだろう。足掻いて足掻いた結果が今の彼女なのだ。
「母上はやはり何一つ分かっておられません。兄さまたちのお気持ちも、なにもかも」
「何を……」
「一つ、私が知ることをお教えします」
 一生、口にすることは無いと心の奥底に仕舞った言葉をは静かに引きずり出す。妄執に取り憑かれた母が見るに耐えれず、そして哀れに思えたからだ。

「小次郎兄さまは政宗兄さまの御手に掛かったのではありません。――御自害にございます」

 瞬間、室内の空気も外に控える双方の侍女たちの空気も凍った気がした。伊達の醜聞を始めて聞く千代女らは勿論、兄たちを知る母古参の侍女らからは一層息を呑む気配がする。
「……なんと、申す。何を言いやる」
「小次郎兄さまは御自害なさりました」
「世迷言じゃ! あの日政宗は刃を抜いたまま小次郎の髪を寄越してきた。忘れもせぬ、あれの手も着衣も小次郎の真っ赤な血がついておったわ!」
 俄かに後ろが騒がしくなる。母付きの侍女らが母の動揺に呼応するように立ち上がろうとするのを千代女たちが止めていた。脳裏に浮かぶ幼い日の悲劇、はぎゅっと拳を握り心苦しさに喉が絞まるような心地を覚えながら声を震わすまいと母を見据えた。
「……私は見たのです。兄さまが毒を盛られて小十郎や綱元に抱えられて戻ったあの日、義姉さまは真っ青な顔で兄さまに付き添っていました。兄さまの意識を取り戻されるまで御殿が皆殺気立って私はとても怖くて成兄さまにしがみついて震えていました。どれくらい経ったかは覚えていないけれど、兄さまが枕を起せるようになってから小次郎兄さまが来ました」
「……」
「小次郎兄さまは、咎は総て自分にあるから母上の命は取らないで欲しいと懇願なさって、皆が止める間もなくそのままっ……」
「まさか、」
「政宗兄さまが重い御身を引きずるようにお傍に行かれて小次郎兄さまを何度も揺すって、でも目を開けてはくださいませんでした。……政宗兄さまは小次郎兄さまが母上の命乞いをして自ら御命を絶たれたと知れば母上は生きてはいまい、それならば自分が手に掛けたことにすると」
「止めよ、嘘を申すな!」
「今この場で嘘をついて如何するというのですか」
「聞きとうないっ……聞きとうない……!」
「ほ、保春院様っ」
 顔を覆って伏せる母にとうとう母付きの侍女らが部屋に押し入る。名は知らぬがが幼少の頃より母に付いている古参の侍女が、姫様、と抗議の声を上げたがもう蓋をしてはならぬ時期なのだとそれを無視した。母は力なく侍女の腕に縋り肩を震わせていた。
「……最上の、兄上が言うたのじゃ。このままでは政宗と戦になると。政宗が当主のままでは最上との戦は避けられぬ。ならば、最上と親しい小次郎が当主に代わらば戦をせずに済むと。……政宗は家督を譲れと言うて譲る男ではない。出家をさせてもまた家臣が担ぎ上げて内乱になる。――殺さねばならぬ、だが他の誰に息子を殺せと言えよう。ならばいっそ、母の手で死なせてやろうと思うた。しくじっても政宗は妾を厭うておる。そのときは妾だけが死ねばよい、そう思うておったに。何の罪もない小次郎を死なせて、命を狙うた政宗に気を遣わせて、妾だけが生き長らえておるというか」
 母の悔恨をはなんとも言えない気持ちで聞いていた。聞いたところでどうなる訳でもなく消えてしまった命は元には戻らない。その事実だけが皆を打ちのめすのだ。
「母上、縁者としての最後の情けと心得ます。どうぞお早くここを引き払われて最上にお帰り下さい。最上の伯父上が母上にお優しいのは存じておりますから」
 それからすっと立ち上がり背を向けた。母が僅かに動いた気がしては静かに別れを告げる。
「もう二度とお会いすることもありません。ご健勝で」
っ……」
 部屋を去りながら心に去来するのは悲しさと寂しさだった。過ごした時などほんの僅か、育てられた覚えもない。それでもそう感じるのは自分は確かにあの人の腹から生まれたのだという事なのかもしれない。

 広縁を渡りながら視界に過ぎる散った沈丁花の花びらの数々、香りも薄れていく様は幸村の匂いも消えゆく自分と重なるようでまた一層胸に寄せる寂しさに軽い眩暈を覚えるのだった。

- continue -

2013-12-21

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