(二十七)

 気鬱な日々は相変わらず容赦なくを襲う。とうとう言ってしまった。自分から願ったこととはいえこの先を思えば恐れ慄くしかない。だが我が子を殺すような母になる恐怖より嫉妬に狂う女になる方がましに思えたのだ。狂いすぎて橋姫のようにならなければ良いのだが。進むも退くも今のには過酷だった。
 三条の方はどのような女人を幸村に見繕うのだろうか。自分はその女人と幸村が並ぶ姿を笑って見ることが出来るだろうか。何度も我が身に問う問答の答えは暫く出ないだろう。ただそれは武家の女としてこなさねばならぬ仕儀、それだけは分かっている。
 それからは人知れずした決意が鈍らぬよう幸村との共寝を拒否するようになった。面と向かって拒めばまた諭されはぐらかされて終わりだ。だからこのところ枕が上がらない、重い病であっては武田を継ぐ幸村の身に障りが出ると至極尤もな嘘を付いた。元々、近頃は気鬱から籠もりがちになっていたので周囲も余り強くは言わず、幸村も追求してこなかったのは救いだった。
 毎夜一人寝の冷たい褥に身を起きながら誰にも聞こえぬようは泣く。早く慣れなくては、早く胆を据えなくては。そう思えば思うほど、人間、相手のの動向は気になるもので、幸村は今何をしているのだろう、もう密かに閨にはべる女子がいるのかもしれない、と彼のことばかりが脳裏に浮かぶのだ。

 よく晴れたある日、躑躅ヶ崎館に宛がわれた部屋から外を見れば雪解けも進み先頃咲いた梅の様に春の様相がはっきりと見えてきた。円窓から見る景色だけでは物足りなくて、は近頃では珍しく襖を越え障子の傍まで足を運び少しだけ手前に引いた。開けた途端柔らかな風が室内を漂い、はっきりと訪れる季節を感じながら小さく息を吐いた。
「まあ殿」
「っ」
 聞きなれぬ女の声には思わず息を呑み幸村が近くにいるのかと注意深く周囲を見回した。よくよく見れば庭の端の方に梅の枝を手にした幸村が立ち、その傍には年若い侍女が控えていた。聞きなれぬ声だと思ったとおりには面識のない侍女で器量良く笑顔の似合う娘だった。
「久しいな、変わりないようで何よりだ」
「殿こそますますご健勝の様子喜ばしいことに存じます。本日はお方様にお会いに?」
「ああ、梅を一枝と思うたが具合悪しく病をうつしてはならぬと千代女に追い出されてしもうた」
「まあ、それはきっとお方様の気遣いにございますよ」
「そうであろうか」
 二人は顔見知りであるらしく香や祥と話すとき以上に親密に感じられは目を離すことも立ち去ることも出来ぬままただ眺めていた。
「ではまだお仕事がございますのでこれにて御前失礼させて頂きまする」
「ああ、――、待て」
「は? ――っ」
「!!」

 瞬間、見ていたもその侍女も時が止まった。待てと侍女の手をとった幸村と侍女の影が重なったのだ。
「其方、――……どうだ?」
「え、あ、は、はいっ、私でよろしければっ」
「ふふ、其方がいてくれれば此方も心強いというもの」
「そんな、誠に光栄に存じまする」
 二人はそんな会話を続けて顔を紅くした侍女は足早に下がって行き、はそれを呆然と見た。脳裏を今見た光景がぐるぐると回り手足が震えた。
 今、何が起こったの?
 幸村の背に振り返った彼女が覆われたように見えた。
 二人は、口付けをしたの? 嘘――っ。とうとう、とうとう私は見限れられてしまったのか。なんだろうこの心に来る衝撃は。千代女らも言うていたではないか幸村は女子に人気があると。なのに何処かで幸村は他の女子を見ないと胡坐を掻いていたのかもしれない。そんな、そんな――心が痛い、苦しい、寂しい、幸村さま、幸村さまっ……。
 覚悟していたことがほんの少しだけ早く起こっただけのことだ、これで諦められる。そう何度も言い聞かせて、目の前で行われた遣り取りに嗚咽を漏らさまいと両の掌を拝むように口に当て、は必死に声を殺した。


 猿飛佐助は相変わらず主君と配下の間の行き来に忙しい。主君と年若い正室との仲も気掛かりだ。身体的にも心情的にも休みがないなぁなどと考えながら、今日は主君の主君である武田信玄に呼び出され彼の前に膝を着いている。
「相も変わらず忙殺されておるようじゃのう佐助」
「わかりますー? 大将からも俺様にちょっと休みやってって言って下さいよー」
「幸村も何やら忙しい様子故もう少ししたら声をかけてやろう」
「やったね俺様大感激ー!」
「給金も弾まねばな」
「大将太っ腹ー! ……て、何かあるでしょ?」
「流石佐助よ」
 信玄公は大いに笑い佐助の明晰振りを褒めそやした。対して佐助はこれは厄介事が来るかもと身構えずには居られない。
「うむ、時にのう佐助。幸村とのことなのじゃがあの二人どうなっておる?」
「えっ!?」
「つい先頃までは仲睦まじいとよう話を聞いておったのじゃが、先日の三条の話だとどうも違う」
「まー隠してもお館様の耳には入るだろうから言いますけどちょっとした行き違いはありましたねぇ」
「ちょっとした、のう」
 佐助の言葉を復唱して信玄公は腕を組んだ。予想以上に難しい表情を湛えたものだから佐助としては聞かざるを得ない。
「何かあったんで?」
「佐助すら聞いておらんか。……実はの、が幸村に女子を用立ててくれと三条に申したらしい」
「へぇそうなんで、はっ!?」
「それも酷く思い詰めた様子であったそうな。形式上とはいえ我らが子となった娘よ。身体の線も細うなったと三条も殊の外心配しておる」
「あちゃー旦那やり過ぎだわー」
「何!? 幸村は泣かせておるのか!!」
「ああー! いやーそうじゃなくて大将ー。いや泣かせてるっちゃ泣かせ……」
「ぬぁにぃいい! 幸村を連れてまいれぇええ!!」
「いや、今の忘れて! ちょっと待って下さいって大将ー!」
「ゆぅきぃいむうぅうるぅうぅぁあああああ!!」
 血が滾れば槍を振り気を奮う幸村のその師たる信玄公も同じくいや弟子に輪をかけて猛り狂う性質だ。怒号が躑躅ヶ崎館に響き、佐助はあーあと頭を抱える。だが佐助は知る。もう暫くすればこの獰猛な虎を巧く操る女性が駆けつけてくれることを。
「お館さん、やかましおすえ!!」
 スパンと開け放たれた障子の向こうに立つ三条の方の姿は実に神々しく佐助は内心拝みたい気持ちを抱えて迎え、やがて糟糠の妻相手に小さくなる甲斐の虎を見ながらそっと下がるのだった。

「全く、さんのお気持ちを考えて下さい。そない騒いだらお可哀相や」
 一頻り暴れた後、その糟糠の妻に破れた障子や柱を如何するのかと叱られ、正座を申し付けられた信玄公は背を丸くして説教を聞いていた。
「すまぬ、あ」
「どうしはりましたの? お説教はまだですよ」
「もう勘弁してくれぬか。そうこうしているうちに賊の件、佐助に聞きそびれたわい」
「あら」
「まあよいか、時期が来れば幸村の口から聞けるであろう。色々心配はあるがやはり幸村の成長は喜ばしいもの。そちもそうであろう?」
「それはもう」
「三条の気掛かりも分かるが佐助に釘を刺した上は暫し待ってみようではないか。のう?」
「お館さんはほんと、見た目によらず策士であらしゃるから困ります」
「困るのか?」
「困るのです。惚れ直してしまいますもの」
 長年連れ添う継室の言葉に信玄公は本日最大の笑い声を上げ、そしてまた叱られるのだった。

- continue -

2013-12-14

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