(二十六)

 蕾みだった梅もそろそろ花開く頃、は躑躅ヶ崎館の三条の方の傍に伺候していた。何処からかが元気がない、部屋に篭りがちだとの噂を聞いた三条の方が大層案じて呼び寄せた為だ。相変わらず全てを包み込むように微笑む三条の方の佇まいに内心安堵して手をつき首を垂れる。実母とそれほど変わらぬ年齢だが常に温かい佳人に、同じように母となる人でもこれほど内面が違うものなのであろうかとただ漠然と思う。
「まあさんよういらっしゃいました」
「暫くご無沙汰しておりました。三条の方さまにはご心配をおかけし申し訳ありません」
「なんのなんの、奥州から来られたばかりなんやから気苦労もあらしゃるはず。気に病むことはありまへん。この私も京から参ったときはそれなりの苦労もありました。作法も何もかも、そうや、結局なおらんかったけどこの言葉のことも気取ってるとよう言わしゃる人も多かったんえ」
「まあ、左様で」
「何分女子は家の為にならんとなかなか受け入れて貰えぬ、嫌やのう?」
 品良く笑い声を上げる三条の方に、まことに、と答えるのも幸村に悪い気がして少し困ったように頷くと、三条の方は一層眸を湾曲させて笑った。
「まあほんと可愛らしい、のう?」
 三条の方も御方付きの侍女たちもそれが歳の離れた新妻故の仕草と思ったのか愛でるような表情を向けてくる。どう反応すれば良いのか困りはしたが相手はすぐに次の話を並べてくれた。
「そうそう、可愛いといえばその打掛もようお似合いのこと。ほんに選んだ甲斐があったというもの。あとでまた選びましょ」
「これ以上は勿体のうございます」
「そう言わんと私の趣味に付きおうて」
「ありがとうございまする」
 一頻り会話をした後、三条の方はふと顔つきを変えパチリと蝙蝠扇を鳴らした。
さん、お元気がないのは色々胸に痞えてあらしゃるようやな?」
「いえ、そのような……」
「これでも私は虎の伴侶で、さんのこちらでのおたあさんや。さんのそないな雰囲気に気づかん私ではありまへん。どうか話してくれへんやろか」
「三条の方さま……」
 佳人の視線は真摯であるが故に逸らすことは出来ないと思える。しかも相手は夫の敬愛する主君の御方さまで、三条の方程の人に其処まで心を砕かれればそれに応えるのが筋というものだ。は迷いに迷い、しかし最後には腹を括って伏せていた眸を三条の方に向けた。
「……三条の方さまに折り入ってお願いがございます」
「どうぞ、私に出来ることならなんなりと」
「我が夫に、側室を薦めたいのです。甲斐源氏の後を任される夫には並みの女子ではなりません。三条の方さまのおめがねに適う者をご紹介して頂きたく」
さん……っ」
「どうか」
 息を呑むような三条の方とは対照的には震えそうになる声を潜めて深く頭を下げた。頭上から呼吸を整える主君の正室の気配がする。
「――まあ、まあまあ、さんお若いのやからそのように焦らんでも」
「いえ、私は」
「おたあさんになるのが怖おう感じてあらしゃるの? 気負うことはありまへんえ」
 我知らずの本音を指す言葉に心の臓がどきりと鳴る。長年虎の伴侶を務めたこの女性は大きくなくとも其処此処で気を利かすことの出来る女性なのだろう。次に息を呑むのはだった。
「いえ、ただ自信がないのです……」
 それは嘘ではない。
「ほほ、まあおいおい、おいおいね。ほほほ、伊達のおひいさんはまあなんと可愛らしいこと。幸村さんにはよう釘を刺しときましょ。泣かせたらこの私が承知しませんえって、のう?」
 三条の方はそれ以上を追及しようとはしなかった。が――
「いいえ、違うのです。お願いにございます。どうか幸村さまに側室をっ」
さん……。さん、落ち着いて」
「――っ」
 何かに怯えるように追い縋るに三条の方は驚き二の腕にそっと手を添える。相変わらず優しい声音は緩やかな漣のようにを包む。
さん、私は悲しい。此方に嫁いでもろうたはその様なお顔をさせる為ではありまへん。泣いてあらしゃるさんを見るのは私も辛い。どうかそないに思いつめんとって」
「お方様……」
「そんなにお言いやるなら気に留めておきますから此度はそれで、のう?」
「はいっ……」

 三条の方があやす様に手を摩り、一連の会話に動揺する双方の侍女らも本来の職分を思い出し茶菓なり差し出して場も落ち着いた頃のこと、渡殿を大きな足音が皆の耳に響いた。此処躑躅ヶ崎館の者ならばそれが誰のものであるかなど容易に分かることだ。
「はははっ、が来てるというでのう顔を見に来たわ」
「まあお館さんそれはかましまへんけど先触れくらいして下さい」
「すまぬすまぬ」
「まったく、――あら、今日はお館さんだけですか?」
「うむ、幸村は何やら内藤と話があるようでな」
「お館さんを袖にするなんて幸村さんも成長しはったこと」
「ふふ、あの幸村が儂に隠れて密議とは嬉しいことよな」
「そうどすなぁ、昔は槍ばかりであらしゃったもの」
 長年添う夫婦の遣り取りを聞きながらそっと下座へ下がり手を付きながら、綾はそれを羨ましく感じていた。今のは小さな軽口も幸村に利けはしないのだから。
 信玄公は三条の方らに用意された茵に腰掛けの姿を見とめると豪快な笑い声とともに話しかけてくる。
、久しいのう」
「お館様におかれましてもご健勝のご様子心よりお喜び申し上げます」
「うむ、其方も息災で何よりじゃ。は幸村の本気の槍を見たことはあるか?」
「槍、にございますか? それならば昔奥州に御使者としてお見えの際に兄と手合わせをなさる姿なら何度か。あ、後はこちらから上田に戻る際賊に襲われた時も」
「なに、賊?」
「え」
「いや何、そういえば言うておったわ。大事のうて良かったのう」
「はい、ありがとう存じます」
「しかしの、独眼竜との手合わせを戦場で真剣を手にして相対した姿を見たことはあるまい?」
「はい」
「あのときばかりは幸村も独眼竜もわしを凌駕するばかりの鬼神よ。対岸で見ていた謙信もさぞ血が滾ったことであろうな」
「そんなに……」
「そうよ。だから儂は嬉しい。鬼神の如き強さを持つ独眼竜が儂の育てた幸村を認め其方をくれたのだから。これほどの慶事はあるまい。今や武田は其方の家、存分に甘えるがいいぞ」
「勿体無いお言葉にございます。私如きがお気持ちに沿うことが出来るでしょうか」
「はは、其方が幸せにしておればよいのよ」
 信玄公の言葉は兄に対する敬意とに対する慈愛に溢れたものだった。だがにはその優しい言葉が申し訳なく辛い。
「ありがたく。それではこれにて御前をお暇致したく思います」
「何じゃもそっと居ればよいのに」
「鴛鴦夫婦のお邪魔をしてはならぬと心得ます」
 その言葉に信玄公はさらに笑い、息災に致せよと言葉をくれて一礼するを見送るのだ。

 信玄公は自分が手塩に掛けて育てた若武者の妻の後姿を見、その身に纏った打掛は我が妻が見繕ったものではなかったかと思い起こしていた。三条の方との関係もうまくやっているに満足そうに頷き横に控える妻に声を掛けた。
「上田へ戻る時に賊に襲われたと、そなた聞いておったか?」
「いいえ私も初耳ですわ」
「幸村め、儂に隠し事とはのう」
「まあ楽しそうに。しかしお館さん間が悪すぎますわ」
「ん? 何じゃ?」
「実は……」
 聊か困惑気味に三条の方が告げる文言に信玄公自身も大いに驚いた。何故あの新妻が其処まで思い詰めるのか彼にも見当がつかなかったからだ。
「何分お若いのやし、お世継のことならまだ焦らんでもと思します。ですがあんな言葉、其れ相応の覚悟がなければ口にも出せんことやとも思します」
「其れは儂も思う。理由はどれであろうか、幸村に女子の影なの何一つありはせぬし、否、先程も儂に隠し事をしておったしよもやっ! どこぞに何か囲うてを泣かせておるのではあるまいな! ……おのれえええ幸村ぁああぁああ!! その根性叩き直してくれるわああぁああ!!」
「あなた、あなた落ち着いて。煩そうてかないません。あなたが出たら収まるものも収まりまへんわ」
「……其方やはりきっついのう……」
 さしもの甲斐の虎も内儀には頭の上がらぬ午後のことだった。

- continue -

2013-11-30

**