(二十五)

 そしていつも通り日が暮れれば焚かれた篝火は煌々と夜に揺らめく。天守の裏で小さくなっているを迎えに来たのは才蔵と千代女だった。彼女は柔らかな口調で、お冷えになられましたでしょう? とだけ言いの手に温石を差し出してきた。口煩くはないが要所要所で主人の機微に対応する様はあの喜多と一緒だ。そう思えば急激に訪れる郷愁の念に苛まれて、捨てなくてはとを掻き毟る。
 思いの外時は経っていたようでが奥御殿の居室に戻るともうすでに幸村が座っていた。整った目許が書を眺め、すっとした背筋がまた彼の魅力を引き出している気がする。何度も見慣れた夫の姿だが未だに見惚れる時がある程だ。
「戻ったか、日が暮れるまでとははお転婆よな」
「……申し訳ありません」
、さあこちらへ」
 両手を差し出され擦り膝で近寄ると幸村はの両脇に手を入れて抱え自分の膝へ乗せてきた。
「なっ」
「其方は誠可愛らしい。目を離さば穴にでも落ちそうな危うさもまた愛でずにはおれぬ。愛くるしい幼子のようだ」
「――っ!」
 穏やかな目と言葉が針のようにに刺さる。やめてやめて、もう十分に分かっているの。まだ貴方は私をお責めになるの?
「なにがっ……」
?」
「なにが童……っ私はっ……」
 私は貴方の子供ではないの、もうそう思っては貰えないの?
「信じて、貰えないのはっ私の、せいっ……だけど、も、いらぬ、ならっ、奥州に、返してっ」
 夫婦の情を諦める決心は付いた。だけど、いやこんなことを言うのはなにも諦めてないのかもしれない。歪む視界の先で幸村が僅かに眉をしかめた気がした。はたまらなくなって幸村から逃れようと身を捩り彼の膝から滑り落ちた。嗚咽を堪え立ち上がり逃れようとすると強い力で腕を握られた。
「待て」
「っ」
「そのようなこと口にしてはならぬ。政宗殿の名をも貶めようぞ」
 後ろから聞こえる聲にの頬にはぽろぽろの泪がこぼれ落ちる。
 駄目だ、いつも諭されるばかり。泣こうが喚こうが優しいばかりの幸村さま。いっそ馬鹿者と妻の自覚がないと頬を叩かれたほうが良かった。怒らぬのは何の期待もしていない証拠なのだ。
「さあこちらに、気が昂ぶっておるな。誰ぞに茶を」
「お、お離し下さいっ、お部屋にもっもう来ないで!」

姫様っ……」
 心の読めぬ幸村とおろおろする侍女たちを置いて部屋から逃げ出すと少し離れた塗籠へと逃げ込み閂を掛けた。途端、力なくずるずると座り込んでは聲を上げて泣いた。
「ひ、っ……ぅ」
 なんたる様なのだろう。ついさっきこの人を諦めようと思っていたのに、彼の顔をみたらこんなにも声を荒げて。文字通り子供の駄々ではないか。いや、いいではないか、彼が自分に何の期待もしていないと再認識できたではないか。きっとこれで、きっとこれで諦められる。
 塗籠には沢山の婚礼衣装や調度品が詰まったままの長持が置いてある。長持に描かれた家紋の互いに見合う雄雌の雀たちを見ながらの胸中には様々な感情が巡って行くのだ。

 だがそんなを周囲は逃してはくれない。
姫ちゃん、ここは冷えるよ?」
 暫くして聞きなれた声が耳を撫でる。塗籠は格子から漏れる僅かな光が頼りだ。揺らめく影にそっと顔を上げると佐助が優しい顔をして其処に居た。閂を開けられた形跡はなく、そんなものは忍びの彼には訳ないものなのだろう。
「――見張っていたのね」
「うん、ごめんね? 旦那が心配してたよ」
「……」
「一人になって気持ち落ち着いた? これ以上は危ないから俺様がお連れするよ」
「拒否なんて、出来ないんでしょう?」
「……天井裏に上田以外の者がいることもあるんだよ。今は特にね。さあ」
 促されるまま手を引かれて千代女に渡される。千代女はやはり何も言わず部屋へと誘って、夕餉をお食べになりますか? と聞いてくる。反射的に幸村さまはお食べになられたの? と返すと彼女は一瞬目を見開いてすぐににこりと笑んできた。
「本日はご家中の方と何やら詮議をしながらお取りになられたそうにございます」
「そう、なら今日はもう……」
「よろしければ、汁物や漬物だけでもお食べになられては?」
「そうします」
 部屋に戻れば何もかもが用意されていた。外に長い間居たから侍女や下女らの時間もずれ込んでしまった筈だ。気をつけていたはずであったのに最近は自分のことに感けて彼女たちのことをすっかり忘れていたのだ。
「悪かったわ。飲んだらもう寝るから其れが終わったら皆休んで。後片付けは明日で構わないから」
「畏まりました」
 汁物を口にし終えて、千代女が白小袖を着せてくる。身を任せながらこういう自分が子供なのだろうと痛感する。考えてみれば義姉は何があろうと笑顔を絶やさなかったように思える。が知る限り奥のことも格段滞らせたことなどなかったはずだ。幸村に呆れられても仕方がないと思えてきて殊更情けなくなる。
 泪をこらえて寝所へ行くと幸村も同じく白小袖を身に着けて座っていた。もう自室に戻ったものだと思っていたから、驚いて千代女を見返したが彼女は頭を下げて他の者らと一緒に下がってしまった。味方なんていないのだと心中影が過ぎり、目を合わせてくる幸村から逃れようと後退りしたが、の細い手などすぐにからめとられてしまう。となれば残った手で胸元を押さえ精一杯虚勢を張るしかない。
「もう、来ないでと申しましたっ」
「俺は戻らず此処に居るだけぞ。だが、逃げ出そうとは宜しくない。新妻が閨から逃げ出すなどと家中の口先にのぼるは醜聞ぞ。加えて夫に渡るななどと、その様な話流れて困るは其方ぞ。そのようなことしてはならぬし言うてはならぬ」
 彼の文言は何一つ間違ってはいない。それが妻としてのを案じてのことではないと思えば一層悲しくて悔しかった。唇をかみ締めていれば彼は強引に横抱きにして褥へと置かれる。逃れられないのは分かっているからせめてこれ以上泣き顔を見られたくなくて、初めて彼に背を向け、口に手を当てて耐えようとするを不意に温かい腕が背後から覆ってくる。腕だけではない。の背全体を襲う温かさだ。抱きすくめられていると気づかぬ訳がない。
「さあ、何が辛い? 言うてみよ。しかと聞く故」
「――っぅ」
「如何した? 何を泣いておる」
 彼は一層腕に力を籠めて抱きすくめてくる。この温かさ、匂い、逞しい腕に何度も抱かれた。信じてさえいればこの温かさも何もかもずっと自分のものであったのに。大きな海の渦のように心は乱れは口に当てた手の拘束を解き、縋るように我が身を覆う腕にしがみ付いた。
「ゆ、き……」
「ああ、其方は本当に可愛らしい」
 耳元に感じた声が脳を酷く刺激する。彼は顔をの首許に埋めて囁いて、さらにの心中をかき乱すのだ。
 ひどい、ひどい、全部諦めようとすればこんな風に思慕を引きずり出される。鎖のように繋ぎ止められる。縋りついたってきっとそれ以上は打ち捨てられるのは分かっているのに。
 だから、だから今だけ、今だけでいいから。夜が明ければこの腕を忘れるから。お願いもう私を揺さぶらないで、幸村さま――
 が搾り出すように、幸村さま、といえば、幸村は妻の名を囁いて一層強く掻き抱く。惑乱するまま彼の匂いと声を求め、意識は徐々に混濁していった。

- continue -

2013-11-23

幸村さまの心理攻撃。
突き放して抱きしめるこのお話の幸村は残酷だと思います。