「才蔵は居て?」
「は、此方に」
心労から居室に篭りがちになり奥の仕事も千代女に任せきりになった正室が珍しく天井裏の存在に声をかけた。ふらふらと一人で奥御殿から抜け出した日より縫や紬ら侍女たちとも必要以上に口を利かなくなったはその前後に佐助と接触しており、双方の間で何かがあり忍びを厭うているのだと認識していた才蔵であったから内心驚いての前に姿を現した。
「面倒事を頼みたいの。私をあの寺へ連れて行って。誰にも内緒で」
「お連れすることは可能ですが、内密にとは不可能です」
「そう、そうよね」
やはりか、と表情も変えぬだが眸には落胆の色が浮かんでいて才蔵は、ですが余り大事にせず出ることも出来ます、と答えた。は少しだけ花唇を湾曲させると小さな声で、お願い、と続けたのだった。
自分の護衛に付けられたという忍びに母が滞在する寺へ連れて行って欲しいと頼み込み、彼に抱えられてほんの数分、は目的の場所へ着いた。佐助もそうであったが忍びとは此処まで凄いものかと内心思い静かに礼を述べると、彼は言葉少なに頭を下げすぐに寺の者へ話を通しに行った。
母と接触することを幸村から止められている訳ではない。だが、通常の手順を踏めば城外に出るには幸村の許可が要る。縫や紬に頼めば才蔵と同じく連れてくることは可能であったろうが彼女たちに言う気が起こらなかった。彼女らに頼んでも才蔵に頼んでも報告は佐助に行くのは変わらぬ。ただ女の浅ましい部分を見られたくなかったのかもしれない。
通された部屋は暖かく、母の後ろにある丸窓からは明るい光が漏れる。少しだけ見える沈丁花は相変わらず咲き誇り、窓や障子を開ければ素晴らしい香りが匂い立つことだろう。
「やはり婿殿と一緒ではないか。其方仲違いしたようじゃの? 近頃は部屋に篭りきりと聞いたぞ」
挨拶もなく母保春院は無遠慮な言葉を投げてきた。そしてぴくりと反応を示したに彼女は鼻を鳴らすのだ。
「ほほ、忍びがいるのは何も伊達や真田だけではあるまいに」
「趣味の悪い」
「皮肉よのう」
母は蝙蝠扇をニ、三開き目許に当てて此方を見てくる。母は兄を嫌ったがそれこそ皮肉にも彼女と兄政宗の目許は酷似していた。自身は父方祖母栽松院に似ているといわれ母とは縁遠く過ごしたこともあって彼女の血を我が身に感じることなど近頃までなかったのだが。
「政宗も愚かよな。最上を大事にする妾を嫌い其方を真反対に育てたようじゃが、のう? 当の其方もいざ事があれば所詮政宗の肩を持つではないか」
「……」
「のうよ、これは慈悲じゃ。幸村殿の策に一度協力してみやれ。母とて其方の夫婦仲が悪うなるのは忍びがたい。それに伊達は滅ぶ。あそこまでの領地を得ておきながら戦をやめるなど、血気逸った他国の良い的ぞ。やがて天下に一番近い勢力が出来れば一番の目の仇となるは必定」
心持ち目つきが鋭くなったと感じると同時に母はぱちりと蝙蝠扇を閉じた。
「そうなる前に伊達はどこかに組み込まれたほうが良い。政宗は無駄に敵を作る。……あの時とて、その為の小次郎擁立であったに」
「――!」
「小次郎が当主となり最上の兄上が後見なされれば奥州はあのように不穏なことはなかったであろう。兄上は決して奥州を悪いようには為されぬのに」
「馬鹿なことを!!」
は強い口調を母にぶつけた。あのような事を経ても、母はまだ我が子らより羽州の伯父を信じ忌まわしい妄執を捨ててはいない。其れが何よりも憤懣を掻き立てた。
「その御心こそが、小次郎兄さまを死に追いやったと何故お気付きにならないのです!」
「何を申す。小次郎を斬ったは政宗じゃ! あれは家督に執着したからこそ躊躇なく切れたのじゃ」
「実子に毒を盛る母が何を!!」
「あれは鬼の子! 我が子ではないわ!!」
「なんてことを! なんて人っ」
この母は兄を嫌う分、次兄小次郎を溺愛した。嫁げば実家に帰ることなどほぼないこの時代、親戚同士に囲まれた奥羽は比較的その傾向から外れ、母はよくこの次兄を最上へと連れて行ったと聞く。当然最上の言葉に染まる次兄は少しずつ伊達の家風から反れ、其れに集るように反政宗勢力が出来ていった。長兄政宗も無視出来なくなり、母が毒殺未遂を起こした際に主犯として処断せざるを得なくなったのだ。それまで兄達の仲は決して悪くなく、母という障害がありながらも政宗は小次郎を可愛がり、小次郎もまた政宗を慕っていたのに。
「兄さまはそのような人ではないっ」
「ふんっ! 戯言じゃ。じゃが今のでよう分かったわ。何処へ嫁ごうと女子は所詮生まれた家の娘。其方とていつかは真田を裏切り伊達に戻るのじゃ。だって其方は私の娘! いかに政宗が妾と離そうといかに愛殿が淑やかに育てようと其方の中の血は変わらぬわ!」
「っ――!!」
「……もう戻るがよい」
母はそう言葉を言い捨てて足早に出て行った。去り際彼女の打掛の裾が当たるのも構わずは呆然とした。母の言葉を、譫妄と嘲笑するには余りにも無理な話だった。彼女の言は少なからずの行動を比喩したものであったのだから。
「さ、才蔵……」
「これに」
「佐助に連れて行ってもらった場所があるの、お願い何も言わず其処まで連れて行って。着いたら、暫く一人にして」
「……御意」
彼はそれ以上何も言わなかった。
上田城天守の裏にある高台に着けば、才蔵が冷えるからと被衣を一枚手渡してすぐに姿を消した。それを肩に掛けて力なく城下を見るればそこには母が滞在するあの寺も見える。脳裏に巡るのは遠い記憶だ。
まだ幼子の頃、母には一度酷く拒絶されたことがある。あれは普段滅多に見ぬ母が兄夫婦の居室を訪れた時のことだ。は母が来たことが嬉しくて纏わりついた。だが母は疎ましそうにの手を払い、このような子は知らぬ、と言い捨てると踵を返して去っていってしまったのだ。
母に拒絶されたことが悲しくて、名すら呼んでもらえなくてあまつさえ知らぬといわれて。幼い我が身はどうして分からずただ呆然としていると、何も言わずに兄政宗が抱き上げてくれた。
母などもう要らぬ、兄さまと義姉さまが居てくれればいい、とそこで初めて声を上げて泣いた。するの兄はこう言うのだ。
それは困る。お前には小十郎もいれば成実もいる。あいつらは要らないのか? そう笑いながら頭を撫でて泪を拭ってくれた。
本当にそう思っていた。自分の世界に母はもう不要だった。兄や義姉が大好きで、兄が誇らしくて将来は兄と相愛でよく支える義姉のようになりたいと思っていた。母のようにはなるまい、淑やかに二人の名を汚さぬようになりたいと――
だが今は知ってしまった。自分は母と同じなのだと。母と同じ人生を辿りつつあると。夫を信じず、兄を取る。やがて自分も子が出来たら実家の為に子を殺す女となってしまうのだろうか。
「子供……」
幸村には今世継が切望されている。国の安定の為にも武田を継ぐ幸村には絶対世継は必要でそれを産むのはの役目。国を継ぐことを約束された子供、将来自分も厭い手にかける日が来るのだろうか? 駄目だ、そんなこと絶対にしたくない。そう思う度に母の言葉は痛烈にを貫く。
『だって其方は私の娘! いかに政宗が妾と離そうといかに愛殿が淑やかに育てようと其方の中の血は変わらぬわ!』
なんて恐ろしい言葉なのだろう。ああ嫌、我が身に流れるこの血が疎ましい。この連鎖を断ち切ってしまわなければ、どうしたらいいのだろう。
そうしてふと気づくのだ。
私が産まなくともよいのではないか?
母と同じになるくらいなら子供を産まなければいい。幸村の子供を産むのはなにも自分じゃなくてもよいのではないか? どうせ、どうせ自分はもう手出しもされない正室なのだから。
「ああそう、そうよね」
頭がすっと冷えた。だが今はまだ心が凍て付いた寒さと滾るような熱の間を行き来している。早く落ち着かなくては、せめて物分りのいい正室にならなくては。其れは武家の女の全うな覚悟のはずだから。
- continue -
2013-11-16
**