(二十三)

 極度の緊張と心労、加えて数日まともに食事を口にせぬことが災いしたのかは数日寝込むことになった。その間幸村は執務や鍛錬の隙を見てを見舞ったが穏やか過ぎるあの眸は変わらず、仕方がない自分のせいだと思いながらも幸村が去った後は真綿で首を絞められる想いに褥を濡らす毎日だった。
 事情の知らぬ者らは勝手なもので、早々の御懐妊かと色めき立ち一層の心を抉ったが最後には、子供が子供を産んでなんになるのだ、幸村とてそのようなもの困るに違いない、と諦観と射に構えた心境になるばかりだった。とはいえ武田を継ぐ幸村には世継が必要なのは明らかで、改めて我が身に圧し掛かる重圧を認識せずにはいられないのだ。

 床上げをして三日、はどうしても一人になりたくてすぐ戻るから追いかけてこないで欲しいと一筆書き置いてふらふらと奥御殿を出た。門をくぐる際は番の者らが大いに驚いたが別に逃げる訳でもない。ご苦労様という言葉に菓子を添えて手渡すとゆっくりと外へと足を向けた。
 何時も主殿へ行くときは広縁を歩く為このように庭を行くのは珍しい。柱や庇に隠れて見えなかった景色がどれも目新しく止め処なく足は進む。半時近く歩いた頃ふと端に一つの大きな建物が目に入った。侍屋敷のような装飾がある訳ではないが構えは堅牢だ。そして城内の、しかも主殿からそう遠く離れていない場所にあることから家中でも重要視されているのはの目にも明らかだった。
「何かしら……」
 奥御殿にあって金子を管理するは城中に何があるか、何に金が使われているかを把握しているはずだがあの建物のことは知らない。時勢故、金子の多くは軍備にまわされているがそれにより出来た建物だろうか。興味をそそられるまま身体は其方に向いて近づいてゆく。
姫ちゃん」
「! ――佐助?」
「はいはーい俺様だよー。ごめんねー、そこはお方様といえど入っちゃ駄目だよー」
 頭上を掠める声は明るくの心に鬱積した重苦しさなどとは対照的だ。其処には木々の隙間から漏れる光を背に受けて、立て膝に頬杖をついた幸村の腹心の姿があった。彼は幸村の命があるときしか奥御殿を出入りしない。おそらく奥御殿を出た頃からずっと後をつけていたのだろう。そういえば縫や紬は彼の配下なのだ。あの二人がすぐに佐助に連絡したのかもしれない。ああそうか、何もかも筒抜けなのだ。
 目が合うと彼はにっこりと笑顔を向けて、よっと掛け声を出すと木々の上からの傍に降りてきた。
「入っては駄目?」
「うん。其処はね、俺様たち忍びや旦那が戦に使う薬やら道具やら不用意に触ったら怪我するものとか、まー色んな機密事項がいっぱいあるのさ。真田の強さの秘密みたいなもん? 供も付けずに今其処に興味持ったり入ったりしちゃうといろいろまずいと思うよ」
「……そう」
 佐助があえて其れを口にする意図などにも分かる。幸村との遣り取りを天井裏で見ていたのか、それとも家中で反伊達が居るが故の発言であるのだろう。ひょっとしたら佐助自身もその笑顔の裏では最早信用のならぬ正室と思っているのかもしれない。殊更秘密事項などと強調するところがそれだ。やれるものならやってみろ、そう発破をかけられている気さえする。
「佐助」
「うん? なーに?」
「なら、私が通っていい場所を教えて。今日はずっと歩いていたいの」
姫ちゃん病み上がりだよ? ……まー俺様が付いていればいいか。はーいかしこまり!」
 佐助は腕を組み一度唸ると、何か思いついたかのように笑いかけてきた。じゃあ、忍びとじゃないと行けない場所にしようね、と言い置いて、重さを感じさせないような動作でを横抱きにするとふわりと地を蹴った。忍びとはこんなに身軽なのかと見上げるの視線に気づくと、驚いた? 一層笑顔を向けてくる。
 どうなのだろう、この笑顔も紛い物なのだろうか?
姫ちゃん?」
「え、ああ、こういうの初めてで」
「そう。もう着くよ」
 その言葉と共に地に下ろされ途端に広がる視界には目を見張った。高台から下に広がる景色は雪にまみれてでも徐々に咲きかけた梅とたくさんの蕾みの群れだ。
「梅が……」
「そっ、綺麗でしょー! 俺様おすすめの場所なんだ。ここは天守の裏っかわですんごい段差があって忍びじゃないと登れないの。天守と違ってまた絶景でしょ? 旦那も知らないんじゃないかなぁ」
「幸村さまが知らないの?」
「まあ男同士で梅見るのもねえ。だから俺様たちだけが知ってる景色なの」
「そう」
 幸村も知らないという場所に佐助は何故連れて来たのだろう。本当にただ見せたかっただけなのだろうか。もしかしたら誰もいないこの場所で真田の為にならぬ我が身を屠ろうというのだろうか? 
 其処まで考えては首を振った。なんと見下げたことを考えるのか。なんと下卑た女子になってしまったのか。誰かに、この心の苦しさを吐けば浅ましい想いなど抱かずに済むだろうか? 誰に言えばいい? 何時も甲斐甲斐しい千代女? 香? 祥? 縫? 紬? 駄目だみんなこの佐助と繋がっているではないか。佐助は全て幸村に報告するのだろう。きっと幸村は政宗はなんと妻の自覚もない小娘を送ってきたのだと呆れるだけなのだ。
 今の私は心の置けぬ正室、愛されもせず、実家との和合にもならぬ正室などただの穀潰しだ。何の為に此処にいるのか分からぬ存在に成り果てるならいっそこのまま儚くなってしまおうか。
 違う違う、全ては自分が悪いのだ。
「本当に、綺麗ね」
「でしょー!」
「供もつけずに一人でこうしていると今まで見れなかったものに気づくわ……」
 人も一緒だ、独りになってみて初めてそのありがたみに気づく。幸村がどれほど心を砕いてくれていたか。それを……。
「一人じゃないでしょ?」
「!」
 思わず弾かれたように顔を上げて後ろにいる佐助を見た。
「供も俺様がいるじゃない」
 心を覗かれたと思った。其れが杞憂であると気づくとは笑んで見せた。
「そうね、ごめんなさい」
 私はきっとうまく笑えていない。同じく目の前で笑みを貼り付ける佐助の心も読めずにいる。大切になるはずだったこの上田を自らの手で疑念の場所にしてしまった。これからもずっと私はこうなのだろうか――

 それから一刻ずっと景色を眺めるを促し奥御殿へ送り届けた後、佐助は執務の終わった幸村の許へ顔を出した。
「だーんな」
「佐助か。は?」
「ちゃんと送り届けたよ」
「そうか、手間をかけた」
「どういたしまして」
 執務は終えたとはいえ後処理があるらしい幸村は目も合わせず筆を走らせている。今日は何処へ文を書いているのだろうか。
「佐助、最上の間士共は如何だ?」
「すっかり安心して戻っていったよ。真田家中は近いうちに伊達と一戦交えるってね。念のため六郎たちに追わせてる」
「左様か。必要以上の情報は流れておらぬであろうな?」
「勿論だよ。ちょっとだけ姫ちゃんのお話も流させてもらったけどね。――全く忍びの質が悪いったらありゃしない。気づかない振りをするのも鬱憤が溜まる溜まる」
「其方にかかれば忍びの質など皆そうであろう」
「あら高評価! 俺様大感激だよ」
「これまでの忠勤の賜物だ」
「ありがたいねえ。――っと、その忠勤に免じて一言いい?」
「なんだ?」
「そろそろさ、許してあげたら?」
「……了見違いだ。俺は別に怒ってなどおらぬ」
 書き上げた書簡を文箱に放り幸村は小さく息を吐いた。
「じゃ訂正、怒ってないなら意地悪やめたげて。此処最近ずっと部屋の隅で泣いてるよ。幸村さまごめんなさいってさ。流石の俺様も可哀相になってくるよ。さっきだって一言一言敏感に反応してさ」
「左様か」
「おかげで縫や紬からの風当たりも強いの何の」
「其方もたじたじか?」
「女の子の団結って怖いわーって逸らさないで」
 何処までが本気か、茶化す幸村を佐助は少しだけ睨め付けた。歳を重ねるごとにこういうときの幸村は底が見えなくなってきた気がする。その成長は喜びこそすべきだが、現状小さな銀細工のように繊細になっている主君の正室のことを思えばここは窘めねばならないだろう。
「まあさ、状況が状況だったしなんと言っても年若だし、今回は仕方ないでしょ。嫁の自覚なんてこれから十分に付くって」
「言うたであろう、怒ってなどおらぬし苛めておるつもりもない」
「はぁ、旦那一つ忠告ね。やり過ぎると思慕は畏怖に変わっちゃうよ」
 佐助は其処で矛を収めた。これ以上言うのは逆効果だと長年の付き合いから心得ている。佐助は知る。誰よりもに執着しているのはこの幸村だということに。せめてあの繊細な正室が壊れないように、二人の隙間が広がらないようにと案じながら幸村を見れば僅かに口元が歪んでいるのに気付き、人知れず溜息を吐くのだった。

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2013-10-05

間士……富山新潟の忍びの呼び名。