一日経とうが、二日経とうが幸村の態度は変わらなかった。余所余所しいのに毎夜の許を訪れて共寝をしても触れずただ優しく笑んで去ってゆく。一線を引かれたことはもう分かる。しかしもうどうすればいいのかには分からなかった。
思い悩めば悩む程食事も喉を通らなくなり月のものも遅れる始末。千代女はじめ侍女達が食に苦心してくれているのは分かるものの、どうにも身体が受け付けなくなっていた。その日もどうにか汁物と米を二、三口流し込むのが精一杯だった。
今日は暖かいからと千代女に書院の円窓を開けられて、差し込む光が僅かに冬の厳しさを溶かしてゆくように感じられた。だがにはそれが目にも心にも眩しすぎて必死に目を逸らした。心は冬空のまま、こんな想いはいつ終わるのだろうか。
夜が怖い。夜になればあの人が来る。能面のように微笑む彼にあの話を切り出したときその笑みすら消えてしまうのではないだろうか。でもだめ、今のままでは、今のままでは。
「如何した? 千代女らが心配しておるぞ。食も取らず閉じ篭ったままだと」
「ゆき、むらさ……っ」
まだ昼も過ぎたばかりの時間、執務中のはずの彼が居た。心の準備もないまま相対しても彼を見上げるしか術がない。幸村は構わずの後ろに座ると彼女を抱えるように膝にのせてきた。思わず悲鳴を上げるの背を支え、反射的に驚いて迎える顔に幸村は例の笑みのまま問うてきた。
「何が気に入らぬ?」
「ちが……」
「うん?」
顔を向ければ驚くほど近い距離だ。なのに心が分からない。こんなのは嫌だ。怒られてもいい、ちゃんと話がしたい。は必死に幸村の着衣を掴んだ。
「幸村さまっ、ごめ、なさいっわたしっ……わたしがっ」
信じなかった私が悪いの、貴方の妻である自覚が足らなかったのです。頬を叩かれたって構わないから前みたいにちゃんとお話して下さい。
心の中に巡る想いと相俟って多分縋るような眸をしていたように思う。懇願するように幸村を見つめると彼の口がゆっくりと開いた。
「は何を謝るのか」
「え……」
「そのように何を憂いておるのか」
「ゆ、き……」
「ふふ、さあ、今日は佐助が城下から団子を買ってきておる。天気も良いことだし端近に寄って日に当たりながら食すがよかろう」
「あのっ……」
「北国育ちの白い肌がますます白うなっておる。やはり日に当てねばならぬな」
「――っ」
愕然とした。彼は謝罪など心当たりがないと言う。それはに対する態度を変えぬという意思表示に他ならない。謝ってももう駄目なのだ、一度失った信頼はもう元には戻らぬと、覆水盆に返らずと彼は言いたいのだろうか。
視界が歪んで、つう、と泪が頬を伝ってゆく。
「何を泣く。せっかくの顔(かんばせ)が台無しぞ」
夫は目を細めの泪を拭ってくる。槍を握るその手は武人そのもの、なのに手つきはとても繊細でその不調和に目の前が眩みもうその先が見えない。亡羊の嘆とは今のことを言うのだろうか。心が一層苦しくて幸村の着衣をさらに握りしめながら拭った頬にまたぽろぽろと泪がこぼれ落ちた。
幸村さまごめんなさい、聞き届けられなくてもそう言いたいのに言葉が出ない。そしてそれ以上動くことも声を発することも出来ぬを抱えて幸村はあやすように言うのだ。
「其方は可愛い童のようだ」
――童?
は目を見開いてその言葉を反芻し、そしてやがてああそうなのだと諦観した。
幸村は怒っている訳ではない。手の掛かる泣き虫な子供をただしているに過ぎないのだ。だから怒らない、はただの幼子、童。年長者としてただ相手をするだけで、もう妻として見ていないのだ。
其れほどの事を私はしてしまったのだとは思い知る。
取り返しが付かないほど信頼を失ってしまった。夫を信じず兄の心配ばかりしていたから。ずっと最上との駆け引きに幸村は神経をすり減らしていたことだろう。彼からすれば私の言葉は彼の背中を撃ったに等しかったに違いない。私は、私は――
――『其方もまた、伊達の女のままか』
あの日の幸村の言葉がを貫いてゆく。伊達の女のまま、夫より実家の兄ことばかり……
数瞬おいてはっとする。目の前が暗くなり手の先にいる夫以上に我が身に恐れ慄いた。
誰あろう、私は母と一緒ではないか?
がくがくと身が震え手足の力は抜けてゆく。気持ちが悪い……、脳裏を巡るのは忌まわしい記憶の数々。こんな子は知らぬと払われた手、雨の夜小十郎と綱元に抱えられ真っ青な顔で戻ってきた長兄、全てを守る為に露と消えた次兄――
「? 如何した? っ」
そして薙髪となってなおも峻烈さを失わぬ母。
「っ! 誰ぞっ! 佐助っ!」
鼻腔を擽るのは沈丁花か、夫の香りか。嗚呼あの花の匂いを嗅ぐ前に戻れたらいいのに。
暗転か微睡みか分からぬまま遠のく意識の先、我が身を支えたのは確かに紅い鬼の腕だった。
- continue -
2013-09-28
自分のことはよくわからないもの。