一睡も出来ぬまま夜が明けた。
あれから侍女達に白小袖に着替えさせられて褥に押し込まれた。褥に入れば何時もそこある腕も温かさも無く、一層を締め付けた。心を支配したのは激しい後悔と少しだけ寂しげに眉を顰めた幸村の顔。今なお手を緩めない悔悟は雪崩を打って押し寄せてくるのだ。
自分はずっと何を見てきたのだろう。あの方はずっと誠実だった。御手つきも居らず、どんなに激務でも夜遅くなろうとも自分の許へ通い、奥のことにも口を出さず、自分が整えた衣裳も袖を通してくれていた。妻として尊重してくれていたではないか。
なのに自分はどうだ。知らないあの方の顔を見たからと怯えて、夫の気遣いも知らずただ疑い、あまつさえあんな言葉をぶつけてしまった。とても疲れていたはずだ。あんな顔もあのような眸も、もう二度として欲しくはない。
謝ろう、余りにも自分が至らなかった。今はきっと執務中だから夜を待ってきっと。幸村さまは私に会ってくださるだろうか。来て下さるだろうか。もう来てくれないかもしれない。ずっとずっと此処に一人ぼっちかもしれない。謝れば、許して下さる? 前みたいに笑って下さる?
心細くて堪らない。あの人に打ち捨てられることを私はこんなにも怖がっているのだ。
「姫様」
「……あ、」
褥から身を起こして心細さに身を縮ませていると襖の先には侍女らが控えていた。皆朝の支度に必要な調度品を携えての様子を伺っている。場数を踏んでいるであろう千代女などは普段と変わらぬ表情だが、香ら歳若い侍女は悲痛な顔をこちらに向けていた。
何をする気も起こらないがだからといって其れを拒否して彼女達の仕事を滞らせるなど安易にしてよいことではない。
「お願い」
「畏まりまして」
顔を洗い口を漱いで小袖を合わされる。そうして髪を梳くと香が広蓋を抱えて遠慮がちに問うてくる。
「あの、このようなときではございますが新しい御衣裳が仕上がりまして……」
「そう」
「本日からこちらもお着替えの候補とさせて頂きたいのですが」
一層後ろめたいような口調にそっと差し出された中身を見れば、いつかの折幸村がにと選んだ反物が打掛となって鎮座していた。幸村の衣裳は自身の手で縫ったが、自分のものは後回しにして侍女らに頼んでいたのを思い出す。同時に、これを選んだ日の彼の言葉が静かに脳に響いてくる。
月白や白練から徐々に自分の色に染めてみるも一興、彼は確かそう言ったか。今の私はこの色だろうか、純白? 薄い蒼?
心配そうに千代女が近寄ってきて、は小さく首を振り消え入りそうな声で答えた。
「姫様……」
「ありがとう、誂えてくれて。でも、今は……今これを着たらきっと白々しいと思うの」
「そんな」
あの方は言ったのだ。其方もまた、伊達の女のままか、と。そんな私の色は真っ蒼なのではないか。あの方は、私の上辺なんてもう見抜いていたのかもしれない。
「……今は着れないわ」
「承知致しました。では僭越ながら千代女が選ばせて頂いてもよろしゅうございますか?」
「任せます」
そうして千代女が用意したのは三条の方からにと贈られた緋でも白でも蒼でもない、若草色の打掛だった。それからは衣裳を合わせる千代女の声も、裏方の話をする香らの声もほとんど耳に入らぬままはずっと虚空を見つめていた。
日は落ち、夜の帳が辺りを包み寒さを増してくる。灯明に揺れる炎を眺めながらはすべてが遠く感じていた。ただ漠然と、灯明の傍に座り続けるのは昨夜と変わらないわ、などと考え、気を抜けば心を抉る重しにやがて身の置き場が無くなるようで居たたまれなかった。今か今かと待ちながら、そのときが来るのが恐ろしい。やがて只管待ち続けた足音を聞いたときには周囲にも分かるくらい身を震わせることになる。
何時もの時刻に何時もの足音、決まった近自習を連れて夫幸村はの元へ来た。
「ゆ、幸村、さま」
「戻ったぞ」
「お、お戻りなされませ」
茵を急いで退き首を垂れるのは何時もの所作だ。幸村は頷き、空いた茵に腰を下ろしてこちらを見た。その距離も目に入らずは思う。謝らなくては、きちんとお詫びしなくては。
「幸村さま、あの」
「どうした?」
「――っ」
だが、向けられた声と言葉には愕然とした。とても優しい聲だった。とても穏やかな笑顔だった。でも違う、この顔は昨夜までの夫の顔ではないのだ。自分はこの顔を知っている。夫婦になるずっと以前に見た顔ではなかったか? これは夫の顔ではなく真田さまと呼んでいたときの顔だ。
どうしてそんな顔をお向けになるの? 幸村さま私をお叱りにならないの? 夫の表情に呑まれるように、謝罪も疑問も喉を通り抜けることなく体内に沈殿してゆく。やっとの思いで発した言葉はつまらない受け答えだった。
「あ、……いえ、なにも」
「左様か、は疲れて居るようだ。早に休もう」
が言葉に出さなくてもの機微は敏感に侍女達に伝わるようで幸村の命で夜着に着替えさせられる間、皆案じるような視線を向けてきた。いけない、しっかりしなくてはと思うのに一度小さく頷くのが精一杯だった。
褥に横になればいよいよ幸村と目が合う。幸村は相変わらず優しく笑んだままの髪を梳いてきた。節榑立った長い指にゆっくりと髪を絡めてくる時の流れが長く感じる。
「よう休むがいい」
だがそう言い置くと手を離し、幸村は背を向けてしまった。え、と思う間も無く彼の寝息が聞こえ呆然とするしかなかった。夜毎とまではいかないが幸村はに触れてくる。濃厚な口付けで終わる日もあれば最後まで及ぶ夜もある。そして何時も抱きしめられて眠るのだ。こんな不自然な距離が空くことは今まで一度も無かった。手を伸ばせば届く距離、なのにには夫がとても遠くに感じられて心細さに慄いた。
寝息を立てる夫の背に震える手を付き、頬を付き、は必死に言葉を紡いだ。
ごめんなさい幸村さま、ごめんなさい、ごめんなさい――
そんな夜をは何度も迎えることになる。
- continue -
2013-09-21
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