(二十)

 覚束無い足取りで自室に戻り茵に崩れるように座り込むとはそのまま動けなくなった。
 本当だった。あの襲撃は我が身を取り戻そうとした黒脛巾組の仕業で、真田家中は伊達の所業に憤り最上と近しくなって反目しているという。あの勢いは皆一戦も辞さない覚悟だろう。
 まさかこのような想いをするとは思わなかった。仲睦まじい兄夫婦を見て育ち、望まれて嫁いだ自分もそのようになると思っていたから。
 一筋、髪が流れ落ちる。あれからどのくらい経っただろうか。一刻も二刻も時を重ねたようにも感じられたが視界に入る灯明皿の油は減っていないところを見ると幾許も経っていないのかも知れない。ただこうしているだけですべてが穏便に終わってくれれば……、それは無駄な願いで現実は只々残酷だった。

「火が少ないのではないか? これでは其方も皆も風邪をひいてしまうぞ」
 突然背後に沸いた気配と聲には息を呑んだ。恐る恐る後ろを振り向けば予想通り夫幸村の姿があった。
「――ゆき……」
「うん?」
「も、申し訳ありません。紬、火桶をもう一つ増やして」
「はい、畏まりました」
 紬は一度深く頭を下げると心持ち足早に去っていった気がした。先程の顛末を知る彼女とて居辛かったに違いない。
「お戻りなされませ」
「ああ」
 は急ぎ茵から下りて幸村の下座に着いたが、幸村は茵に座することなく何時もどおりの横に腰落ち着かせた。首を垂れるの頬に触れ、そっと仰ぎ見てくる新妻の視線に満足そうに目を細める。兄政宗にして、熱血が過ぎて暑苦しいと言われていた幸村だがその片鱗を見せぬほど今の彼は穏やかで優しい笑顔を浮かべている。嫁ぐまで知らなかった彼の表情の一つだった。この表情の裏に、と思えば畏怖が湧き水の如く溢れてくる。
「如何した」
「え、いえ」
「近頃の其方は頓に心此処にあらずだ。然もあろう、忙しい裏方のこと気苦労もあれば疲れも溜まるが道理だ。其方はようやっておる」
「そのような」
「やはり元気もないな」
「か、変わりございません」
「では其方、何を憂いておる?」
「っ……慣れるのに、精、一杯なだけで……」
「そうか、――無理は致すな。ああ手がこんなに冷えておるではないか」
 幸村はそう言いながら触れていたの手を握り自分の頬へと当てた。近づけば幸村の香りがして脳の奥がくらくらする。このまま何も考えずただ身を委ねられたらどんなに良いだろう。
「何か、気に病むことでもあるのか?」
「――っあ、あのっ」
「よい、嫁いだばかり故心伴わぬことも多々あろう。奥州が恋しくなるのも分かる」
 今度は手に息を吹き掛けて優しく擦ってくる。その操る火炎の如く彼の手は温かく冷えていたの手も徐々に熱を帯びて来た。この熱のまま心も溶かされていくようで心知らず彼を見上げていた。その様子に笑んでいた幸村は、何か思いついたようにああ、と言いさらに優しい口調で新たな提案を持ちかけてくる。
「良いことを思いついた。春になったら政宗殿をこちらへ呼ぼうではないか」
「えっ……!!」
 心の臓がドクリと鳴った。
「元々春になればどちらかが一度顔を出す話があった故な。こちらに来て貰えば其方も会えよう? 其方の寂しさを紛らわすには良いやもしれん」
 幸村の言葉に顔がどんどん強張っていくのが分かる。思わず外を向き顔を逸らして必死に表情を隠した。
「早速だ、文をしたためよう。縫、墨を」
「は、はい只今」
 紬に続き縫もまた忙しく動き硯箱を整える始める。襖に隠れてゆっくりとだが念入りに墨を摩る音が耳に届く度、心が早鐘を打ち母の言葉がを攻め立てる。

『其方は一筆、政宗に会いたいと書けばよい、それを妾に渡せ』
『あれを信州に呼ぶ、ただそれだけのこと』
『十年前の続きと申せば其方は満足か』

――『其方、それが夫の意であっても拒絶するか?』

「っ――」
「どうした? 何を震えておる」
 言葉を返すことも出来ぬまま、やがて縫が摩り終えた墨と文台を揃え傍に整えられる。幸村がさあ、と筆を握らせてはいよいよ進退窮まる。彼の穏やかに目を細める表情が辛い。この微笑の裏で彼は自分をただの駒だと思っているのだ。
 そう思えば視界に映る夫の顔は歪んで握らされた筆はカラリと畳の上へ滑り落ちてしまう。
「か……書けません……」
?」
 心做し奥歯ががちがちと鳴る程、今は幸村が怖かった。この人は完璧にまで自分を欺いて兄を殺そうとしている。どうして? どうして?
「泣いておるのか、それほどまで加減が悪いか」
「――もし、」
「うん?」
「もし、……これを私が書いたら、兄を、誘き寄せてっ……お討ちに、なる、おつもり、でしょう? 私もただの人質っ、ただの、駒っ……!」
 声は絞り出すようにか細いのに堰を切って溢れ出る感情は驚くほど止まらない。悲しくて悔しくて何より心が痛い。大切だと思っていたのに、妻として尽くそうと何時も苦心していたのに。

 幸村は目を見開きを凝視し、だがすぐに目を伏せ再度を見た。先程までの優しさも無ければかといって打って変わった様な冷たさも無い。ただ強い悲愁を帯びた目元で彼は一度息を吐きの泪を拭い頬に手を当てた。
「其方こそ、何故俺を信じなんだか」
「――っ、ぁ」
「母御のことであろう? 最上殿は余程伊達と真田の仲を裂きたいようでな、黒脛巾組の真似事をしたり其方の母御を遣したり家中の屋根裏に潜んだりと忙しい」
「黒脛巾組の、真似……」
「保春院殿を受け入れ、家中に反伊達がいるように見せかけたは相手の様子を見んが為。千代女がしばしおらなんだであろう? あれがすべて調べておった。無論このことすべて政宗殿に伝えてある。其方に言わなんだは嫁いだばかりの其方の心を乱すは忍びなかったゆえ。だが、当の妻にその様に思われていたとは悲しい限り」
「ぁ、わた、し……」
よ、其方にとって俺はそれほどまでに油断ならぬ夫であったか? 其方もまた、伊達の女のままか」
「――っ伊達、の、おんな……っ」
 貫かれた気分だった。伊達の女、自分は真田の女で妻ではなかったか。
、其方は二つ俺の言うたことを破っておる。俺が許した者以外と口を利き、そして執務中の俺の元へ来て家臣との話を聞いた。だが、母御のことはこちらの手違いでもある。あの寺に母御をおく予定はなかった。――それ故其方が何も言わねば追求はせぬつもりであったが」
「ゆき、っ……」
「戻る。其方も俺も聊か心の整理が必要であろう」
 頬に触れていた手を離し幸村は立ち上がりすぐに背を向けた。彼の後姿はたくさん見てきた。だが今見る彼の背中は一度も感じたことの無い色を湛えている。すぐに彼を追おうとは身を乗り出して手を伸ばした。
「幸、村さま、まっ……」
「縫」
「は、はいっ」
「今宵は一層冷える。が風邪など引かぬよう衾も多くかけてやってくれ」
「こ、心得ました」
、以降保春院どのと接触するはかまわぬ。だが此方の内情は言うてくれるな」
 氷を張られたような気がした。以降、の声も制止しようとするそれも拒絶するように幸村はの居室を去っていった。呆然とすると何も言えずその様を見つめる縫、しばし後れて火桶を手に戻った紬は何事かと二人と見る。
 なんという事を仕出かしてしまったのか。夫を信じきれず兄のことばかり心配しその裏にある真実に気づかぬままあのようなことを言ってしまった。大切だと思っていたのは相手も一緒だった。何を責めることがあったのか、裏切ったのは誰あろうこの自分だ。尽くそうとしたなどとはおこがましい。何より大切な信じるということを怠っていたのだから。
 嗚呼、なんて愚かだったのか、あの人にあんな顔をさせるなんて、あんなことを言わせるなんて。

 なんてこと、不実だったのはこの私。

- continue -

2013-09-14

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