(十九)

の視界は脳と同じで今にもぐるぐると回ってしまいそうだった。香は驚いて他の者等を呼びすぐに休ませようとし、大事ないと言ってもあちらの方が数に勝る。せめて幸村が戻るまではと今にも褥の中に放り込まれそうな状態だ。
 だがは一刻も早く此処を去りたかった。やがて明確に訪れた眩暈の中攻防を繰り返していると幸村の近自習の一人が駆け込んで来た。何事かと問えば、夜盗一派の数が予想より多くいくらか取り逃がした、近辺に離散している可能性が高い故急ぎ上田の城へ戻るようにとの言葉を携え佐助揮下の忍びと共に輿に押し込まれた。事態は緊迫するものであったがの心情は渡りに船だった。
 輿に乗り一人になれば、脳裏を掠めるのは母の姿だった。あのような母とはいえ夜盗に襲われればひとたまりもない。大丈夫だろうか、否、そもそもあの寺に居るということは真田の誰かが手引きしたということ。護衛は何人か付いているはずだ。しかし誰が――。
 そこまで考えては大きく頭を振るった。嘘、嘘、きっと違う。母が自分に揺さぶりをかけているだけなのだ。きっと、きっとそう。
 誰にも見えぬ輿の中、は震えてこれでもかと我が身を掻き抱いた。

 幸村の帰城はが戻って二刻後のことだった。日もすっかり落ち夕餉の時間もとうに過ぎたが夜盗の件に加えて難しい案件が転がり込んできたとかで家臣らと共に主殿に篭りきりであった。時折、その件で使番が何度となく往復しいつもに増して篝火も多く焚かれている。
 煌々と燃える篝火、その揺らめきのようにの心は定まる場所を知らない。食も喉を通らず、一人佇む書院の中の時が永遠にさえ感じられて身の置き場が無くなってゆく。
 本当に夫は兄と反目するのだろうか、もしそうならどちらも燃えてしまう。何度も問い、そして居たたまれなくなる。そんなことになってはならない、はついに立ち上がって私室を抜け出し幸村の居る主殿へと足を向ける。付きの四人の歳若い侍女らは慌てて止めに入るが、今日ばかりはそれに抗い歩みを進めていく。
姫様、そちらはなりません」
 侍女の誰でもない男の声が頭上を掠めた。思わず立ち止まればその気配は頭上から眼下へと移りの前へその姿を現した。佐助とは対照的な紺色の忍び装束を纏った男だった。
「貴方は誰?」
「真田忍隊霧隠才蔵と申します。幸村様の命により襲撃の翌日から姫様の御身をお護りする任に付いております」
「襲撃……」
「御心乱れるは重々承知しておりますが今は大切な御政務のとき。姫様におかれては御政務のときは御主殿にお近づきにならぬよう幸村様からのお申し付けがあられる筈」
 あの日からの護衛に付いている、暗に昼間の遣り取りは当然見てるとでも言うように才蔵の口調は淡々との痛いところを付いてくる。
「――聞きませんっ」
「なりませぬ」
 横をすり抜けようとすれば、才蔵は片膝を座したまま素早くの前を阻む。は一度だけ強い口調で、下がれ! と強引に彼をやり過ごしそのまま主殿への道をひた走る。勝手に奥御殿を抜け出すなど傲慢で慎みのない正室だと思われたかもしれない。だがそれでも奥州と甲斐が戦になるくらいなら、歳若い頃ならいざ知らず同盟まで組んでやっと争う必要もなくなった兄と夫が刃を交えるくらいなら自分の評価などどうでもよい。
 幸村さまどうかの話を聞いて下さい、藁にも縋る想いで先を急ぐ。後ろからは才蔵が追っているであろう。無理矢理にでも止めようとしないのは彼の中に遠慮があるからだろうか。
 昼とは違う主殿への道、女子のには未知の空間だ。忙しく動く近自習、警備に余念のない足軽たち、奥御殿にはない物々しさだった。我知らず胸元を握り締め、幸村の居るであろう書院に近づいたその時だった。

「伊達が姫様を取り戻そうとしたのは明白。迷うことはあるまい」

 ――息を呑んだ。
 
「最上殿は何故このようなことを伝えに来るのか。何か裏があるのではないか」
「伊達最上は仲が良くないとは聞いておったが」
姫様の御生母様をつかってまで知らせに来ること無碍にも出来ぬ」
「前々から武田家中にも伊達には気をつけろとの声もある。決起は容易であろうが」
「やはり独眼竜、ここ数年の平穏の間に虎視眈々と爪を磨いていたということか。臥竜という言葉はあの男にこそ相応しい」
姫様御輿入れのとき一万余りの兵を率いておった。これはあわよくば武田を落とそうとしていたのではないか?」
「しかし決断は慎重にせねばならぬ。そもそもこれはお館様が取り成された同盟。動くには確たる証拠も要ろうし、何より姫様はお館様のご養女となられて嫁がれておる。お館様、そして内藤様らのお顔を潰さぬようことを運ばねばならぬ」
「左様」
「さりとて、いざ伊達と戦うことになれば姫様の処遇如何なさいます?」
「わざわざ取り戻そうとする辺り、独眼竜は妹が大切と見える。使えるであろう」
「これ、御許は幸村様の御正室様に何をする気か!」
「まてまて、それは某も賛同しかねる。姫様は三条の御方様のお気に入り。躑躅ヶ崎に悪い印象を与えるは真田にとってよい事はない。一旦熱を冷まそうではないか。そもそもすべてを真田で決めるは時期尚早ではないか?」
 声を荒げる者、慎重に答える者、双方の意見にまた新たな思案の種を投じる者、どの声にも聞き覚えがあった。全員幸村に近い者たちだ。当然その傍に幸村は居てそれを聞いているはずだ。
 やはりあの黒装束の者等は黒脛巾組であったのか、兄は、兄さまは本気で私を取り戻して武田と一戦交えると仰るのか。では、私は何の為に此処に嫁いで来たというの? 幸村さまの声が聞こえない。貴方はどう思っていらっしゃるの? 母上の言うことは本当なの? 早まらないで、私の話を聞いて、兄を諌めるなら私が何でもするから。
 しかし、次の言葉には完膚なきまでに叩き潰されることになる。

「どう転んでも構わぬ、所詮は人質。皆も気遣い無用。今は最上殿と連絡を密に取るがよかろう」

 聞き間違う筈もない、夫のよく通る声。
 うそ、と言いたいのに歯が巧く噛み合わない。酷い動悸がして唇から行き場のない息が漏れ出でて、大きく首を振りは必死に己を保とうとした。
 分かっていた。今更何を動揺することがある? 戦国の女子の利用価値など子を産むか人質しかないのだと。兄は可愛がってくれたが、その兄とて私を真田にやったではないか。夫たる人も毎夜のように訪れるからいい気になっていた。私はただ勘違いしてしまった、それだけなのだ。――なら私は、

 私は、どう生きればいいの?

「――才蔵」
「はっ」
「戻るわ、手間をかけてごめんなさい」
 打って変わって幽鬼のように奥御殿への道を辿る。香と祥が悲壮な顔付きで見ていたが返す余裕などには無かった。


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「旦那」
「分かっておる、不問だ」
 主君に耳打ちしながら、不味い時に来たもんだ、と佐助は頭を掻く。ジリ……と灯明が灯りを揺らし音を立て、それに照らされる幸村は表情を変えぬまま重臣たちの話を注意深く探っていた。

- continue -

2013-09-07

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