(十八)

 心に芽吹く不安は日を追う事にを蝕む。躑躅ヶ崎館の庭に咲く南天にかかる雪の美しさも、輿から見る甲斐の山々の絶景も慰めには程遠く霞のようだった。もしかしたら夫と兄が反目するかもしれない。それだけがの心を統べていた。
 そんな紅蓮の鬼の妻は躑躅ヶ崎館から上田城に戻る道筋、急遽陣屋代わりに宛がわれて寺で茶を貰い暫しの休息に入っていた。
 幸村と佐助は居ない。幸村は城外で傍を離れることを渋ってくれたが上田城の手前の村で夜盗が出たとの話は無碍には出来ず急ぎ其方に向かったのだ。
「皆も休んで。この寒空の徒歩(かち)は足に堪えているでしょう?」
「まあそのような、お気遣い無く。姫様を差し置いてそのようなことは出来ません」
「そう……、なら私は庭の花を見ているから少しでも足を伸ばしてね。私は此方を見ませんから」
 そう言い置いてはさっと庭先に出た。春に近いと言ってもこの寒空上田と躑躅ヶ崎館の行き来で足も浮腫むこともあるだろう。また、三条の方周辺はことに自分を可愛がってくれるが、侍女たちは伊達や幸村家督相続を良く思わない躑躅ヶ崎館の人間からを守ることに気苦労も多いはずだ。香や祥は嫌味や問答の駆け引きから、縫や紬はの身そのものを。幸村や佐助が居れば彼女たちも息は抜けまい。数少ないこんな時こそには気遣いが必要なのだ。
 に宛がわれた一室から丁度角になるところに足運ぶ。自分の姿が見えれば彼女らも休めないであろうと思ったからだ。
「もう、沈丁花の季節なのね」
 庭の一角に咲く花にそっと手をやる。辺りに広がる匂いのなんと香り高いことか。沈香に似た香りを持つことから沈丁花と名付けられたこの花は見目もまた好ましい。
「いい香り……」
 そういえば最近は花を飾るもそれ以上愛でることが無くなっていた気がする。心に余裕が無ければ気の利かぬこともある。ちゃんとどっしりと構えていなくては、と気持ちを奮い立たせてもう一度香りを吸い込む。
 すると小さな衣擦れと足音がして無意識に其方に目をやった。映るのはすっきりとした尼層の後姿、帽子(もうす)に隠れてそれ以上のことは分からないが所作は上品なものだった。そういえばこの寺は真田にゆかりの深い寺だ。縁戚の尼層が顔を出すことも多いのかもしれない。
 無理に声をかけることもない。真田の遠縁であればあちらは頭を下げねばならぬかも知れぬ、そう思い別の方角へ踵を返そうとした。
 そのときだった。

「嘆かわしい、なんとつれぬことじゃ」
「え」
「あな悲しや、真田の奥方は母御の声も姿も分からぬと見える」

 途端、冬寄りの季節だというのに全身から嫌な汗が噴出した。冷えぬようにと大目に着た衣も全く意味を成さぬかのように徐々に寒気すら襲い来る。その物言い、声音、覚えておらぬはずもない。の最も会いたくない人物のものだ。
「久しいのう、。さあ顔を母に見せてたもれ」
 繰り出される文言はの確信を深めるだけだった。深く息を吸い自分らしからぬ喉を絞るような音吐を持って相対した。
「何方にございましょう。私の母は奥州でお暮らしの兄嫁さまと三条の御方さまだけにございます」
「可愛げの無いことを申す。顔(かんばせ)は可愛らしゅう生んでやったというに」
「ここは信州、最上領ではございませんよ」
「伊達を出て十年、幼子であった其方の顔を忘れずに居た母であるのにここまで邪険にされようとはなんと冷たい娘であることか」
 どの口が言う! その言葉をは喉の奥に押し留めた。その十年前、伊達を去らねばならぬ原因を作ったのはこの母、義姫である。
 が六つの時のことだ。父が近隣諸国との諍いから無念の死を遂げた。母は兄を殺してにとってはもう一人の兄小次郎を当主に据えようと家中を混乱させ、あまつさえ兄政宗の暗殺未遂を起こして伊達家を出奔した。その余波を受け、次兄小次郎は家中の争乱の種として死にざるを得なかったのだ。
 当時のことはよく覚えている。母の東館から真っ青な顔をして運び込まれた長兄、この世の終わりのような顔をして長兄から離れなかった義姉、強張った顔の従兄や家臣達、は幼子故どうすることも出来ず従兄にしがみ付いて震えるしかなかった。後に母の所業を知り恐れ戦き、その母の血が自分にも流れていることに嫌悪を覚えたものだ。
 その母がどうして今自分の目の前に居るのか、の心は一層警鐘を響かせる。
「何故真田領においであそばします。今ならば不問に致します。どうぞ最上領へお帰りを」
「つれぬつれぬ。妾とて用向きがある故参ったに」
「ならばさっさと済ませてお戻りを」
「まあよい。其方政宗に文を書きゃれ」
「何を……、よもや親子の再会を望むとでも申されますか? 何を今更」
「あの鬼の子に会う用など無いわ。其方は一筆、政宗に会いたいと書けばよい、それを妾に渡せ」
「用途も分からぬのにそのような不用意をする気はありません」
「あれを信州に呼ぶ、ただそれだけのこと」
「毒を盛る鬼母のそのような言葉信じる訳がありましょうや。誘き寄せて兄さまに何をなさるご所存か」
「十年前の続きと申せば其方は満足か」
「兄さまに育てられたこの私にようも言えたもの!」
 ついには声を張り上げた。だが母はただ目を細めるだけだった。
「其方、それが夫の意であっても拒絶するか?」
「――なにを」
「やはり婿殿は言っておらなんだとみえる。、政宗は黒脛巾組を遣い其方を取り戻し真田と一戦構える所存。このこと、真田殿はすでにご了承のこと」
「世迷言を!」
「歳若い其方を気遣って耳に入れなんだか。優しいことよのう?」
 母の口から漏れるのは聞きたくなかった文言、目を背けていたい事実がを貫いていく。
「のう、これが成せば伊達は瓦解し戦もすぐに収まる。最上も真田も安泰、真田殿は山形よりいくらかでも暖かい上田でお過ごしになられればよいと仰せられた」
「ばかな」
「妾も謀は疲れる。これが終わらば其方と暮らしたいと思うておる。幼子の頃より別たれて其方の成長には立ち会えなんだしのう。……まあよい、其方が動かずとも事は動く。ただし覚悟はしておれ。わざわざ知らせたは其方に心栄えを促す為、慈悲ぞ」
 誰ぞこのこの慮外者をつまみ出せ! そう言いたいのにそう言うべきであるのにには声を発することが出来なかった。この母は今何を言ったのだ。自分を使い兄政宗を誘き寄せて殺す企みがあると、それを夫幸村が了承してると、あまつさえ事が相成った暁には母娘で上田で暮らせと幸村が言ったというのだ。
 なんという嘘を並び立てるのか。この母はここまで気が狂ってしまったのか。
 ――本当に? 本当に母の狂言か?
「ではの。妾はしばらく信州に留まる手はずになっておる。気が向いたら顔くらい見せるがよい」
「二度とお会いするつもりはありません」
「悲しいことを言う。それからの、剃髪してより今は保春院と名乗っておる。寺の者には義やお東では伝わらぬ故気をつけよ」
 母義姫――保春院はそう言っての部屋とは反対側の方角へと去って行った。心の臓を抉られたような心地のまま立ち尽くしていると後方から声がかかりは思わずびくりと身を震わせた。
姫様、お声がいたしましたがだれぞ不審な者でも居りましたでしょうか。御身お変わりありませんか」
「大事、ない……」
 そう言いながらも四肢からは力が抜け落ちて我が身は白雪に崩れ落ちてしまう。驚いた香が駆け寄ってきてを支えたがの気は遠くなるばかりだ。
 沈丁花はなおも香る。ああ、沈香は幸村さまの香り、と思い出せばこの仕儀も何もかも幸村の手の中で踊らされているような錯覚を覚えて、ただ流されまいと必死に香の腕を握り返すのだった。

- continue -

2013-08-31

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