(十七)

 半月ばかり経った。あれから上田城は騒がしかった。佐助は忙しく飛び回り、千代女も少しばかり慌しく感じる。幸村も深夜になってからの来訪になることが多かった。そんな彼に後ろめたさから進展があったか聞くことも出来ず、ただ頭を垂れて、お疲れ様にございます、と言うのが日常になっていた。
 の悶々とした想いは針にも現れた。普段なら直ぐに仕上げてしまう縫い物も一向にはかどらず、半月経ってやっと出来上がる始末だった。

 今日は先日と同じように幸村に伴われて躑躅ヶ崎館に来ている。襲撃者の件もあり、移動に関しては心配があったが、武田を継ぐ幸村の妻としては何時までも上田に閉じこもり真田家のことだけをしている訳にはいかない。三条の方の許で学ばぬことは多々あるのだ。家中にどのような家臣がいるか、その奥方はどういう人となりか、また武田のしきたりや甲斐の風習、加えて当主の妻らしく振舞うべき所作、香をはじめとする教養。三条の方は京の公家の出身らしく、ことに所作教養に関してはの知らぬ知識を多々持っており学ぶのは楽しく、心の痞えを少しだけ緩和してくれるのだった。
 本日の習い事を終えが教本を静かに閉じると三条の方がふと透渡殿の方を見ている。釣られるように視線を這わすと習い事を終えた頃を見計らってか信玄が幸村、そして任務から戻ってきたばかりの佐助を伴いこちらに足を運ぶ姿が見えた。
 急いで教本を侍女に渡し、下座に下がり頭を垂れるとすぐに豪快な笑い声がする。信玄だ。を見ると目を細めて三条の方の横に座り、幸村はより少しだけ前に座った。
ももそっと前に出てかまわぬぞ」
「はい」
 一度幸村を見ると彼が静かに頷いたので言われるまま幸村の横に座した。
「甲斐には慣れたか?」
「はい、皆様のお陰を持ちまして」
「お館さん、さんすごいんえ。よく物を知ってあらしゃるのもやけど、土が水を吸うようにどんどん覚えていきはるの。教え甲斐があるというものです」
「はは、楽しそうじゃのう三条」
「ええもう。娘達が嫁いで寂しゅうてお館さんをお恨みもしましたけどさんがいてはるとそんなことも思いもしまへん」
「それは命拾いしたわ」
「ほんにようお出来にならしゃって。さんは伊達さんと御簾中さんに育てられたと聞いておりますけど、さん見てたら御二人の教養が忍ばれます」
「独眼竜は風流人としても名高いからのう。婚礼調度も見たが決して華美過ぎず地味すぎず、文句のつけようがなかったわ。賛嘆に値するものばかりぞ」
「お恥ずかしゅうございます」
 三条の方は感嘆の息を漏らし、そして少しばかり神妙にを見る。その所作の一つ一つがゆったりとし育ちの良さが漂う。
「私も人の親ですから特に思します。ここまでの姫御であらしゃるのに、父母の縁が薄いなど、さんのご両親は勿体無いことをされたと思しますえ」
「……父母との思い出は仰る通り余りございません。ですが兄と義姉は本当の娘のように育ててくれましたので寂しい思いをしたことがございません」
 そう返すと三条の方は満足げに口を綻ばせた。
「それは重畳。甲斐で不便があらしゃったら遠慮のう言うて。此処では私が母代わり。歳相応の母親を堪能するのも面白うありますよ」
「御心遣い、痛み入ります」
「堅苦しいのは私も嫌い。佐助もよう言うてることでしょう? ゆるくが一番、のう?」
 その言葉に佐助はまいったね、と苦笑し三条の方は蝙蝠扇を口に当てて高笑いをする。その様にそれまで目頭を下げていた信玄が、何に火がついたのか突然立ち上がった。
「幸村ぁぁぁあぁあぁぁ!!」
「はっ!」
「うむっ! そこまで手塩にかけた妹を其方に嫁がせたのじゃ。独眼竜の期待に応え、日の本一の男となれえええぇえ! ゆきむるぁあぁあああああ!!」
「無論にござりまするっ! おやかたさまぁああ!!」
「ゆきむらああああ!!」
「ぅおやかたさまあああ!!」
 あまりの声量とその気迫には吃驚して固まる。を置いて信玄と幸村は立ち上がり庭に出て殴り愛を始めてしまった。言葉一つ出ないとは対称的に佐助は頬を掻き、三条の方は蝙蝠扇を口元に添え驚きもしない。
「まーた始まった」
「ほんに。お館さん、お館さん、此処は私の局ですわ。柱を壊さんといて下さい」
「聞こえてないっぽいですよー御方様」
「困りましたなぁ」
 佐助の声も三条の方の声もには遠い。信玄の声量とは別に、の驚きは違う方へを目を向けていたからだ。
 先日、思い出すも恥ずかしいあの騒動の時もそうだったではないか。忘れていた、幸村さまはこういう御方。実直で熱い武人、怖くなどない、怖くなどない。……あんな面知らなければ良かった。真田さま真田さまと呼んでいた頃のほうがましだった。嫁いでから印象ががらりと変わった。幸村さまは腹の底の見えぬ御方。
 それが途方もなく夫婦に埋めようのない溝があるようでは悲しかった。
 お館さまは幸村さまの喰らい尽くすような暗き眼差しをご存知なのでしょうか、幸村さまはその眼差しをお見せにならないのでしょうか。幸村さま、どちらの貴方様が本当の貴方様なのでしょうか?
 ゾクリと背が凍る。
 暑苦しいだの、熱血だのと散々言われる二人の殴り愛、なのには一人幸村がどうしようもなく恐ろしく感じられてしまう。

「あら? さん固まってあらしゃる」
「あらー……まあそうなりますよねー」
「そろそろ止めましょ」
 三条の方は蝙幅扇を閉じて立ち上がり瓦礫飛び散る二人の前に進み出る。佐助はわざとらしく声を上げた。
「大将ー旦那ー! 危ないよー御方様がそっちにー!」
「ぬっ!!」
「なんと!!」
 信玄と幸村がその声に反応し少し手が止まったと同時だった。
「やかましおすえ!!」
 三条の方の手から放たれた蝙幅扇は信玄の脳天を突き、よろめいた信玄は盛大に後ろの塀を壊し倒れてしまった。砂埃と轟音の中で幸村は叫ぶ。
「お、お、お、お館様ぁあぁっぁああ!!」
「いややわ、これでは私がとんでもない怪力のようやわ」
 三条の方は悠然としたまま夫を眺めていると何事もなかったかのように信玄は立ち上がる。
「ゆきむるぁあああ!! これしきで動じるでないぃぃ!」
「おおぉおっ」
「お館さん」
「……あいすまぬ」
「まったく」
 たじたじにも見える信玄は素直に謝り口元に弧を描く三条の方を見る。甲斐の虎には本当に困った印象など露ほども無い。長年連れ添った夫婦の息がそこに見え隠れする。
「ほんっと鴛鴦夫婦だよねぇ」
 の傍に居た佐助が独り言つ。
姫ちゃん? 固まってるだけじゃないね。最近元気ないけどどうしたの?」
「いえ、なにも……」
「本当?」
「ただ……どうしたらいいか、分からないの」
 あんな姿を見た後だと言うのにの疑念は拭えない。夫は気づいているのかもしれない。何度も奥州に来ているのだからその姿を覚えていても不思議はないのだから。何故何も言わないのだろう。幸村は今上田や甲斐の情勢がどうなっているのかに教えたことがない。それはなにか含む処があるのだろうか。
 佐助が怪訝な顔で見るのも気づかずは手を握り締めていた。

- continue -

2013-08-24

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