(十六)

 上田城に戻った幸村は不安げなを直ぐに休ませると書院に佐助と千代女を呼び出した。佐助は読めない表情で、対して千代女は困惑顔で幸村を見ている。幸村は文箱から何通かの文を取り出し並べた後、脇息に片肘を突きながら深く息を吐いた。
「素性は吐いたか」
「一応ね。あの人の名前が出たけど、でも嘘だと思う」
「この書状の内容と一致しておるが」
「旦那、これが本当だと思う?」
「まさか」
「だよね」
 随分と洒落た御料紙をこの内容には無駄なものだと一瞥して幸村は面白くなさそうに言を紡いだ。
「だが、下らぬ目論見にが巻き込まれては適わぬ。佐助」
「なーに?」
に才蔵をつけよ」
「お? 男をつけてもいいの?」
「縫と紬に不満がある訳ではないが手練れがくれば厄介だ。才蔵ならば対処出来よう。それに見たであろう? 紬の傷を見ては真っ青になっておった」
「二人のこと姫ちゃん大事にしてくれてるみたいだね。でも近くしすぎちゃったかも。忍びは使い捨てぐらいに思ってくれていいよ。じゃないと」
「佐助」
「うん?」
「俺とてお前を使い捨てなどと思うておらぬ」
「……あんがと」
 佐助は少しだけ驚いて頬を掻く。幸村は平然としたまま妻の侍女頭でもある千代女に目をやった。
「千代女、あの黒装束の者らの里、其方なら分かるか」
「随分手の込んだことをしておりますが、二、三日中には」
「確信があると見たが」
「ご慧眼、お見逸れいたしましてございます」
 それから続けて、裏を取りに草を放ちます故、と千代女は一礼するときびきびとした動作で下がっていった。それを見送り幸村は手にした茶をゆっくりと回しながら呟いた。
「下らぬことをするものだ。黒脛巾組の姿を借りるなど」

 自室に戻っては真っ青になっていた。恐怖が冷めやり冷静になってからは忙しく頭が回り、記憶の断片が貝合わせに使う美しい蛤のように一つずつ合わさってゆく。
 見覚えがあるのだ、襲撃者の姿形に。
 ――兄直属の忍び黒脛巾組。黒い皮脚絆を着け各国の内情を探る彼ら。の護衛でもあったからあの皮脚絆には覚えがある。だが顔までは見ていない、服装だけでは確証がない。
 もし、彼らが本当に黒脛巾組なら自分を浚ってどうするつもりだったのか。兄の命令か。何の為に? 自分を取り戻そうとして? まさか、まさか夫たる人の言っていた戦いにならぬ為の策、その相手というのは……。
 季節はずれの嫌な汗を掻いた気がした。覚束無ぬ手を互いにギュッと握り締めていれば幸村に呼び出されていた千代女がいつの間にか戻ってきていた。
姫様、大丈夫でございますか?」
「ええ、私は。それより紬たちは?」
「はい、香も祥も昏倒させられただけにございます。まだ少し動きが心許無い故控えさせておりますが。紬の傷は縫が見ておりますので大事にはならぬと思います」
「そう、よかった……。香も祥も明日までゆっくり休ませてあげて。紬も痛みがひくまでは無理はさせないで」
「心得ました」
 心の暗雲は依然晴れる気配はないが侍女達の無事は嬉しいことだ。心中の不安を気取られまいと薄く笑みを貼り付けては問うた。
「千代女、幸村さまに会いにいっても大丈夫かしら」
「佐助殿もいらっしゃいましたが評定でも軍議でもありませぬ故、御方様である姫様が気兼ねなさることは無いと思いますよ」
 千代女は穏やかに、だがさも不思議と言いたげにそう答えた。そうだ、自分は幸村の正室。夫を謀る事など出来はしない。兄とて言うていたではないか。そう心を奮い立たせるとはゆっくり立ち上がった。
「お団子をお持ちしたいの。厨にあるかしら」
「ご安心を、我らが殿の大好物でございますから常備してありまする」
 千代女は笑むとすぐに用意して手渡してくれた。今日は京から職人を呼んで作らせたという御手洗団子だ。先日は十団子だった気がする。成る程、団子といっても種類は豊富なのだ。幸村の分と佐助の分を携えては広縁を進む。奥御殿から幸村の書院は離れていて結構な距離がある。普段はこの行程を幸村が通り、は奥御殿で待つだけであるから少しばかり新鮮だ。よく見れば奥御殿とは庭の雰囲気も違う。新たな発見はの憂心を和らげてくれる。
 曲がり角を過ぎると、先の軒先に幸村と佐助の姿を見止めた。書院の近くまで来ていたらしい。声をかけようか、そう思った瞬間の動きは止まった。
「――っ」
 遠目に見た幸村と佐助が見たことのない厳しい顔をしていたからだ。特に幸村の眸は冷たく、佐助と話す幸村の顔は別人だった。毎夜見る顔や昼間侍女らと見る顔、そして信玄公や家臣らに見せる顔とは明らかに別の顔。あの眼に射竦められたら気弱な者は倒れてしまうかもしれない。は薄氷を踏む思いにも似た畏怖に手が震えた。
 佐助がちらりとこちらを見た気がした。彼が直ぐに視線を戻すと幸村が頷きゆっくりと振り向く。彼の表情はの知る柔らかい顔に戻っていた。
? 如何したか」
「あ……あの、お団子を……」
「そうかわざわざすまぬ」
「あの、難しいお話ですか? がお近くに寄ってもかまいませんか?」
「そのように遠慮するな、かまわぬぞ」
 幸村は何故そんなに気を遣うのかと言わんばかりに口元を緩ませて手招きをして、誘われるまま近づけば、ほう今日は御手洗団子か、と頷く。冷めた茶を替え団子を手渡せば彼は静かに口に運んだ。
「佐助もどうぞ」
「わお、ありがと〜。御方様お手ずからなんて俺様大感激ー! 旦那の取りすぎちゃ悪いから一本だけ頂くね」
「まだまだ沢山ありますよ?」
「ううんきっと足らなくなるよ」
 佐助は笑顔のまま、お邪魔しちゃ悪いから、と言いながら団子を片手に黒い靄に包まれて退出していった。
 二人きりになると途端に冷たい空気が流れていく気がする。、と呼ばれるとびくんと身体が跳ね上がった。
「そのように脅えずともよい。此処は上田、不埒者は近づけさせぬ故」
「あ……はい」
 言わなくては。気づいたことはちゃんと。そう思うのに唇は意に反し震えてゆく。
「幸、村さま、あの……忍びの、ことなのですが」
「うん?」
「あの者、らの……」
 それからが続かない。
 もし言ってしまったら? 奥州と戦になるかもしれない。夫と兄が刃を交えるかもしれない。そもそも顔見知りの黒脛巾組を確認した訳でもない。でも、言わなかったが為に甲斐側が一歩出遅れてしまったら?
 見えぬ不安が底なし沼の如くずるずるとの心を引き摺り下ろし沈んでしまうかのようだ。
、よい。そのような顔は似合ぬ。気に病まずとも其方には近づけぬ故」
 優しい声音の幸村の引き締まった腕がを包む。
 そうではないのです、幸村さま。私、貴方様にお伝えしないといけないことが。
 喉元にでかかる言葉を出そうとするに幸村は低く笑うのだ。
「俺はもっと其方の違う顔が見たいのだ」
 彼の人の節榑立った手がの顎を捉えて唇を撫でた。かと思えば痛いくらいに抱きすくめられて何もかもが絡め取られそうな感覚に落とされる。
「ゆ、き……」
、其方」
「え……」
「白檀をつこうておるか?」
「いいえ?」
「ふむ……、知っておるか? 白檀の香りは男を誘う香りなのだ」
「ぞ、存じません……」
「ならば俺を誘う香りは其方自身か。侮れぬな、俺を捕らえ離さぬとは」
「あっ……」
 耳朶に彼の吐息と熱を感じれば簡単に思考は奪われてゆく。言わなければ、言わなければ。ちゃんとお伝えしなくては。
「俺には其方のすべてが馨しゅうてかなわぬ」
「や、あ」
「何が嫌か? いつも可愛う囀り俺に縋るのは誰ぞ?」
「知らないっ……」
 こうなってしまってはもうの勝利は望めない。幸村の思うまま翻弄され、日が翳り、夜を迎えて、朝になるまで開放されはしないのだ。
 熱烈に口付けをした後、書院の奥へと妻を浚いながら幸村は囁いた。
「其方は余計なことを考えずともよい……」
 もうにはその言葉の意味が分からなかった。

- continue -

2013-08-17

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