(十三)

 幸村の本性が黒くてもはそれでも構わなかった。多少アレだが情を持って接してくれているのだろうし、古参の側室も手を付けられた妾も居ない。ありがたい事に煩わしい人間関係や嫉妬という感情に無縁でいられるのは彼のお陰である。掴めぬところは多々あるし翻弄されてばかりだが、大切な夫であるししっかり支えて差し上げねばとも思っている。だから頑張るのだ。奥御殿の日々の仕事も。
 正室というのは忙しい。昼間はゆるりと過ごして宵まで夫を待つなどという生活とは程遠い。そんな正室など只の笑いものだ。
 正室はまず家の金子を管理する。家臣はじめ侍女や小姓、下男、下女に至るまでの構成を把握し纏め上げ、給金の分配もするし、食料をはじめ衣料の調達や作成等も正室が金子から揃えるのだ。それだけではない、先祖の供養の差配や、家で独自に行っている家業等があればそれも統括する。真田家は狭織の織る。今は出来ないがいずれも覚えることだろう。
 あまりに忙しい仕事だが、正室が家臣らの人となりと家の現状を把握するにはこれ以上に無い手段だった。言うなれば金子を握るということは家の全てを握るということ。
 は思う。成る程、それならば確かに実家寄りの妻など信じる訳にはいかない。赤子の自分を兄夫婦に託すところをみるとひょっとしたら父は母に金子を預ける程の信頼をしていなかったのかもしれない。それは悲しいことだ。幼い頃から見る義姉愛姫はさぞ苦労をしたことだろう。歳若いながら正室の仕事に加え義妹を育て上げたのだから。こちらに来て義姉の偉大さとありがたさを痛感しない日々はない。
 今日の手には針と糸、そして見事な刺繍の入った深緋色の絹が握られている。夫の衣裳を調えるのも大切な仕事だ。
 幸村を主に彩るのは猩々緋だが鎧の色であり戦の色であるから少し変えようとか、いつもと同じ色身ではつまらないなど、朝からああでもないこうでもないと、侍女達と色や柄を合わせ裁断しようやく縫いの作業に入れたところだ。考えればあれ程緋色の似合う殿方というのも珍しい。兄や従兄、家臣は涼やかな蒼が多かったし、小十郎は焦香の色の陣羽織だった。緋を纏うのは自分や義姉で言うなれば女子の色だと思っていた。だがどうだろう、幸村が着れば目が覚めるくらい凛々しく映える色になるのだ。
姫様、姫様の御衣裳の布が届きました」
 侍女頭の千代女の声に促され見れば、そこに並ぶのは先日幸村に合わせて揃えたほうが良いと言われた緋色や薄桃等の布の山だった。
「ありがとう、私は今幸村さまのものを誂えているから貴女達が選んで?」
「でも、姫様のお好みがあるのでは」
「皆の目を信じています。幸村さまに合わせるのだから私の好みはいいわ。それに幸村さまがどんな柄をお好みかなんて分からないの。貴女達なら知っているのかと思って」
「そういうことにございますか。左様でございますね、それでは性根をいれて選ばせて頂きます」
「お願いね」
 譜代家臣の娘も、忍びの娘も女子だ。綺麗な布を見るのはやはり心を擽るらしい。どの柄が良いか、どの色味が良いか楽しそうに華が咲く。暫くしたら彼女達にも何か一枚こさえてあげよう等と考えながら針を進めてゆく。
「この蝶紋など如何でしょう」
「素敵だけど幸村さまがお派手なお色味ですから可愛らしい柄が良いのでは? 今の時期なら桜の柄などありますわ」
「お年の差があられます故可愛らしすぎると野暮ったくお見えになるかもしれませぬ」
「ああそうねぇ、なら牡丹、藤……」
 本当に楽しそうだ。特に忍隊の侍女らは珍しそうに眺めている。密偵で纏うことはあっても普段は縁遠いものだから仕方が無い。忍びのことにおいそれと口出しするつもりはないが、自分の傍にいる間は可愛い格好の一つもさせてやりたい。やはり早く誂えてあげよう、そう想いながら含み笑いを漏らした。

 意外な声が聞こえてきては顔を上げた。視線の先には夫の姿。日に照らされた幸村の姿は夜に見るのとはまた違った端正な顔立ちの実直そうな若武者。心なしか控える侍女らもほうっと見惚れている。
 直ぐに心得た縫と紬が茶菓の用意をしにそっと下がってゆく。
「幸村さま」
「今日こそははやに終わった故、顔を見に来た」
「お戻りなされませ、お疲れ様にございます」
「ああ、縫い物か」
「はい、幸村さまの御衣裳を」
「……」
「どうなさいました?」
「出来るのか、意外だ」
「なっ!」
「冗談だ。其方の反応は面白いな」
「ゆ、幸村さまっ! 怒りますよ!」
「悪かった、どんな柄を合わせてくれておる?」
 頬を膨らせるをどこ吹く風で幸村は横に座り身を寄せてくる。その所作の颯爽とした様に怒っていたはずのの顔は心なし赤くなる。悔しくなってそっぽを向こうとすれば控える侍女らと目が合う。皆、頬を緩ませてを見るものだから逃げ場は下を向くことだけだった。
は百面相だな」
「幸村さまは本当に意地悪にございます」
 幸村はハハと静かに笑い今度は侍女らが見ていた布の山に目をやる。
「それは?」
「畏れながら幸村様の御衣裳に合うように姫様の打掛用の布地を選んでおりました」
「ふむ、ならば俺も選ぼう。これへ」
「はい」
 どんなものを選ぶのだろう、侍女が布の山を抱えるのを眺めながらは心密かにドキリとした。彼の好みを知りたいと思ったのだ。
「そうさな、どれが似合おうか……」
 胡坐を組んでいるにも関わらず彼の背はすっとしていて、伏せ目がちに布を選定する様が凛々しい。
「一斤染や鴇色でも申し分ないが、いっそ月白や白練でも良いな」
「? それですと白や薄い青の色味になってしまいませんか? 幸村さまのお色味と合わぬ気が」
 は目を瞬き千代女はじめ侍女らも顔を見合わせた。すると幸村は冷笑にも似た微笑を向けてくる。
「なに、歳若い其方は純白のようなもの。だが少しばかり政宗殿の横槍がある。薄い蒼から徐々に俺の色に染めていくのも一興であろう? そのうち其方が自ら赤を着込むようになるのは見物ではないか」
「なっ」
「まあっ」
「良いではないか、政宗殿のあてつけにこちらも対抗してやろうというのも」
 気づいてらした。ああ、兄が用意した打掛が憎たらしい。は自分がまずいことをしたかの如く目が泳ぎ、夫の口から放たれた言葉が艶言に感じられて頬が上気する。先程のように下を向くばかりでは芸がない。とはいえどうしたものか。
 千代女は歳を重ねた大らかさで微笑むばかり、香と祥は以上に耳まで赤くなっている。助け舟は期待出来そうになかった。
「其方は可愛らしいままよな」
 幸村は目を細めたままの頬を撫でてくる。嫁いでからというもの幸村の独壇場だ。一度でも引っ掻いてやりたいのに一手が出ない。兄相手ならとうに次の言葉が出てくるのだが。
「幸村様」
「なにか」
 歯がゆさにも似た想いを抱いているとふと紬の声がする。縫と共に茶菓の用意をして戻ってきたのだ。
「申し訳ありませぬ、我らの長が火急のお話があると軒先でお待ち申しております」
「わかった。、布はまた後で選ぼう。俺の見立てでは牡丹がよう似合いそうだ」
「はい、お待ちしております」
 幸村は立ち上がると足早に出て行った。ほんの少しだけ沈香の香りが残る。
「なんのお話なのでございましょう」
「そうね」
 香か祥が半ば独り言のように呟いて、も曖昧に返した。佐助を呼び寄せずわざわざ自ら足を運ぶということはにも聞かせたくないことなのだろう。難しい話なのか、戦が近いのかには分からない。だが漠然とした不安が去来しは幸村が出て行った障子を止め処なく眺めていた。何故だかその日は針が進まなかった。

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2013-07-06

江戸に滞在することを義務付けられた江戸時代の正室に比べ、戦国時代の正室というのは大忙しです。
文中にありますように、金子の管理から食料、人員の把握など総て正室の仕事でした。子供を生むだけではなくいわば家中の統括すべてが正室さんにかかっています。ですから当然しっかりとした家から正室を迎えました。
正室側室の違いもそういう側面からか非常にはっきりしています。
戦国時代の正室は”妻”、側室はあくまで奥御殿=正室の下にいる”子を産むための使用人”です。いくらお殿様に寵愛されようと彼女らは”産む機械”で使用人という枠から抜け出せませんでした。
なので正室に子が無く、側室に男子(特に長男)が出来た場合は正室を男子の嫡母とすることが多く見られました。
また、正室亡き後側室を正室に格上げ、ということはあまりありませんでした。正室には家を纏める素養と家臣団が納得できる家格も必要だったのも要因の一つです。
夢のない話ですがお殿様が愛しちゃってるから格上げ、単純に嫡男の母だから格上げというのも難しかったようです。
側室が正室に上がりづらいように、其れよりしたの身分の炊事場の下女や農民の娘もまた身分に縛られました。彼女達に子が出来ても彼女達は室にすら上がることが出来ないのが殆どです。
出来た子供も兄弟としては格下ですし、認知されない例や他家へ養子に出されるのが常でした。
(譜代の家臣からすればどこの馬の骨とも分からん女性に頭を下げるって出来ないですよねー。寝物語を優先し正室が認められない家、というのは単純に考えて荒れそうです。)

例として幸村公の娘、阿梅さんは片倉重長公の継室ですが、これは正室さんが亡くなる直前に、阿梅さんを継室にと指名したために格上げとなりました。正室さんと仲が良かったようですが、素養は勿論、元は信州の領主たる真田家の、日ノ本一の兵と名高い幸村公の娘、というのが大きな要因だったと個人的に思います。

正室との仲が不仲でも正室を尊重したお殿様が多かったのは、やはり正室が妻であり家の中心で全てを握っていたからないがしろに出来なかったという側面が大きい訳です。