(十二)

 鍛錬と執務が終わると幸村はの許へ来る。早に上がれば申の刻頃、通常は酉の刻頃だ。今日は忙しかったらしく戌の刻をとうに過ぎていた。膳を用意して待っていたに対し幸村は開口一番、先に食べてもかまわぬのだぞと言いおいて座するとにも食べるように促した。素直に頷いて、給仕は自分がするからと侍女を下がらせ椀に米を装い手渡すと夫は申し訳なさそうに眉を下げた。
「あいすまぬ。次からはすぐに知らせる故」
「いいえ、私が勝手にしたことですから。今日はお忙しかったのですね」
「ああ、本当なら羊の刻には終われるかと思っておったのだが予想外のことが起こってな」
「羊の刻とは早いですね、素直に酉の刻まで仕事をせよのと神仏の思し召しでしょうか」
「かもしれぬ」
 幸村は笑ったが顔には少し疲労の色が見え心配になって、今宵ははやにお休みになられますか? と聞くと彼は目を丸くした。
「なんと、其方から誘うてくるとは。これは破廉恥と言わねばならぬか」
「! ちがっ!」
 の顔が火を噴けば幸村はククと笑う。思わず箸が止まるを楽しそうに眺める眸が灯台の揺らめきと相まって酷く艶かしい。どう顔を見ていいか分からなくて後ろを向けば、と名を呼ばれる。嫌な予感がして何とか話を逸らそうと必死に口を紡ぐ。
「ゆ、幸村さま、お願いがあるのです」
「如何した」
「あの、私、御方様と呼ばれるのが苦手でっ皆に名を呼んで欲しいのですが構いませんか?」
「いや構わぬが。そのくらい俺の許可などいらぬぞ」
「よかった、ありがとうございます」
 格別、呼び名に拘る家風ではないらしいと知ると内心安堵の息が漏れた。家に依っては新しい風を嫌うものもある。些細なことでも気をつけねばならない。
「時に
「はい?」
「俺は憑かれてなどおらぬぞ?」
「!」
 ばつが悪くなってそっと後ろの夫を覗き見れば意地悪な彼の視線がを射抜く。
「聞いていらしたの?」
「ああ、たまたまな。違うと声をかけようと思うたところで早馬の知らせがあってな。今まで書院に逆戻りだ」
「左様に、ございますか」
「まったく可愛らしい考えよ」
「う……」
「そんな顔をするな。さて奥方、いかにしてその様な考えに至ったか教えてくれまいか?」
「う――だって幸村さま、余りにも違い過ぎるんですもの。二人きりのときと皆が居るときと。その、夜は特に」
 幸村は一層愉快そうにククと笑い、後ろからの肩と腰に手を回しそうして耳元で囁いた。
「どちらも俺よ」
「昔っ奥州に来られた時っは、そんな欠片一つもなかったのにっ。女子が苦手だったのではないのですかっ!」
「そのようなことはない」
 驚いて抵抗するなど意に介さないように幸村の声は乱れもせず涼やかままだ。
「え、だって愛義姉さまに!」
「ああ、あれか」
 が子供の頃、初めて幸村に会った時のこと。政宗に紹介された義姉愛姫が幸村に挨拶をした時だった。微笑んで穏やかに挨拶する愛姫に幸村は顔を真っ赤にして絶叫したのだ。
『そ、某、困るでござるー!!』
 と。そしてそのまま逃げ出し、後は佐助と兄政宗が、
『わ、どこ行くの旦那!』 
『Fool! 何が困るんだ! てめぇ愛相手に何考えやがった!』
 と慌てと怒りの形相の二人が追いかけたのだ。はその時愛姫の横であっけに取られたのを覚えている。それはあまりに強烈で伊達家では有名な逸話になっていた。が幸村を女子が苦手な初心な御方、と思っていたのは噂以上にこの件があってのことだった。
 幸村は驚いた風でもなく相変わらずを離さず続けた。
「あれはな、愛殿が俺に惚れてはならぬ故、顔を必要以上に晒さぬよう逃げたのだ」
「なっ!!」
「冗談だ」
「ぐっ……」
 からかわれた。幸村は酷く楽しそうに笑いを堪えて下を向いている。首筋に掛かる彼の息がまた居心地を悪くさせる。
「まあ正直に申さば女子が苦手、と言うことにしておけば面倒な婚礼話も来ぬであろう? 当時からお館様は俺に格別に目をかけて下さっておったのでな。それ故真田と繋がればお零れに預かれると思うた者らがひっきりなしに話を持って来る日々。話だけならまだ良いのだが寝所に潜り込んでくる女子まで出始めてな」
「し、寝所!?」
「しかも手管も分からぬ生娘をだぞ。俺も辟易したがその娘も無理矢理親に送り込まれたらしくてな、気の毒であった。以降そのようなことがあっては堪らぬ。それならば真田幸村は女子が苦手、武芸一辺倒と振舞った訳だ。奥州でのあの対応はその一環だったということだな」
「た、大変だったのですね」
 新妻は内心情けなくなるくらい平凡な返ししか出来ない。そんなを幸村は一手一手ゆっくりと追い詰めて、凌駕して、覆い尽くしてしまうのだ。
「ああ、これでも苦労しておるのだぞ。夫を労うて慰めてはくれぬか」
「あっ、ちょっ! 何をなさるんですかっ! ゆきっ! まだ夕……っ」
 彼の唇を耳元に感じたかと思えば、節榑立った右手が細帯の結い目に届く。何をするのかとは半ば本気で抵抗した。
「信じられない! 婚礼の前日までっ私と家庭が築け、るか不安だって言って、た、ひととは……っ」
「其方は本当に可愛いな。そう言っておけば片倉殿たちは安心して戻られるであろう? 横槍があっては其方をゆるりと堪能出来ぬではないか」
「!!」
 こ、この腹黒っ! 心中悪態をつくも細帯の攻防でそれどころではない。日ノ本一の武将の手と格闘しながらその歴然とする差を感じれば、耐え切れなくなっては懇願した。
「ちょ、と、ほんっに、やめっ!」
「このために侍女を下がらせたのではないのか?」
「違っ! 夕餉は一緒にっゆっくりたべよって!」
「ほう?」
「侍女だって、すぐ膳を下げに来ますからっ、お止め下さい」
 ふむ、と幸村は頷き手を解きそっと離れた。はほっとして間着の前を合わせ居住まいを正す。ふと幸村を見れば彼は立ち上がり障子を開けていた。
「誰か」
「はい、お呼びでございますか」
 二間先の広縁に控えていた侍女が進み出ているようだ。声からして香であろうか。ほら、やはり近くにいるではありませんか! と心内に吐き、そんなことは知らぬ幸村は淡然と続けた。
「膳を平らげるには時間が掛かる故、今宵は皆休んでかまわぬ」
「はぁ、お気遣い頂きませずとも皆お待ち申し上げますが……」
「いや、先にを平らげる故な」
「あっ、まっ!」
「!!」
「た、大変失礼致しました。心得ましてござりまする」
 香らしき侍女は慌てふためいて足早に去ってゆく。ガタガタと音がして香と一緒に控えていたであろう他の侍女達も去る足音も聞こえる。ピシャリと障子が閉まりは本格的に身の危険を感じ始めた。
「な、何を仰ってるんですか幸村さま。こっちに来ないで! 来ないで下さいぃぃっ」
 は、破廉恥さまのくせにっ破廉恥さまのくせに! 喉元に出かかる言葉を飲み込んで必死に周囲を見渡す。逃げようにも障子は幸村の後ろ。こうなれば左の襖を開けて隣の部屋から逃げるしかない。にじり寄る幸村に恐れを感じながらも後ろに下がる。襖の取っ手まであと少しだ。

「許して、落ち着いて、幸村さまっ」
 幸村の不敵にも感じる笑みに早く行動に移さねばと、指先に掛かった取っ手を勢いよく開き隣室に入る。だが――
「紅蓮の鬼に背を向けるとは余裕だな。さてどこから食らい尽くしてくれよう」
 打掛を纏った女子の動きなどたかが知れている。相手が幸村ならばなおさらだ。直ぐに後ろを取られて羽交い絞めにされていた。先程と同じ体勢だ。悲しいかなの逃走劇はあっけなく終わりを告げ、自分の学習能力の無さに涙しながら最後の抵抗を見せた。
「さっきのお話をお聞きしてもどちらが本当の幸村さまなのかわかりませんっ」
「そうさな、刃を交えて血が滾るのも、お館様と拳で語るのも、其方をこのようにするのもすべて俺よ。女子が苦手は嘘であったがな。それ以外は飾っておらぬぞ。相手に対し血が滾れば吼え、敬愛すれば拳で語る」
「じゃあ私には特別意地悪なんだわ」
「さあどうであろう。同じよ、赴くまま其方に触れておるだけ」
 背に人の悪い笑みを浮かべる幸村を思い描いて泣きたくなる。兄は何を見てたのだ、貴方の好敵手はとんでもない男ですよ、と心中悔し紛れに叫ぶ。横抱きに抱えあげられ、目が合えば熱を帯びた眸が本当に食い尽くしに掛かってくる。死ぬ時は髪の毛一本も残らないんじゃないかしら、と達観しながらはもう呑まれていた。

 結局、この歳若い正室が夕餉にありつけたのは二刻後のことで、翌日は疲労の為寝込み奥御殿の業務は出来ず仕舞いだった。

- continue -

2013-06-29

戦国時代は一日二食で晩御飯はありません。朝と昼に取るというのが通例だったようです。でも大河でも夕餉シーンって多いですよね。
政宗公はどうやら遅めの朝食を取り、晩御飯を16時ぐらいに召し上がっていたようです。
また大体執務も14時ぐらいで終わるみたいですが、作中では現代の時間感覚で書いております。