(十一)

 思えばあれがいけなかったのだ。
 お床入りの儀の顛末を思い出せば思い出す程は頭を抱える。思わぬ幸村の態度に心細くなって、かと思えば優しく手を差し伸べてくる彼に縋り付いてしまった。あれから自分の醜態に居た堪れず、侍女や家臣の前でも幸村と目が合えばことあるごとに頬が染まる。そんな自分に幸村は、可愛いからあまり言いたくはないが執務中には来てはならぬだの、今は他国の者の出入りが激しい故自分が許した者以外と口を利いてはならぬだのと言い含めてくる。普段ならそんな当たり前のことしませんと返すところだが彼のあの眸と声音には抗えないのだ。いつもいつも伏せ目がちにはい、と答えるのが精一杯だった。
 お陰で”御方様は初心な姫御前””初々しい幼な妻”などと侍女らは噂するようで恥ずかしくて仕方が無い。
 幸村は出立の言葉通り毎夜の許に来る。それがまた噂に拍車をかけている気がしてならない。閨では妖しい幸村に耳元で囁かれ翻弄され、平常心などどこへやら。朝には顔を赤くするしかない我が身。誰だ、手綱をしっかり握れば大丈夫だなんて言ったのは。とんだ見当違いだ。手綱を握られてるのは自分で大人の色香の漂う幸村に頭なんて上がらない。
 かと思えば、昼にみる幸村は婚前に知る彼のまま。槍を握り、鍛錬を欠かさず、主君武田信玄のこととなると熱くなる若武者、どちらが本当の夫なのか。自分はからかわれているのだろうかとさえ思えては日々悶々としている。
 こんなはずではなかったのだ。
「ねえ佐助」
 の為に上田城内に誂えられたという御殿の広縁に腰掛けて佐助が作ったおやきを手に取って言った。
「なーに、御方様」
「御方様って慣れないわ、で良いのだけど駄目なのかしら」
「旦那がいいってって言ったらいいんじゃないかな?」
「なら聞いてみます」
 素直だねぇと笑いながら佐助は木から下りての傍に来る。座ればいいのにと言えば彼は少し恐縮した。侍女らにも手渡しながら、一緒に食べましょうと再度誘うといつもの調子でひょいと反対側に腰をかけた。
「んで、どうしたの?」
「幸村さまのことです」
「うん?」
「幸村さまってご病気なのかしら」
「へ? 旦那は元気そのものだと思うけど……」
「だって……」
「どうったの?」
 佐助は少しだけ身を乗り出した。もし身体に変調があるようなら国の一大事だ。
「……だって人前と私の前では人が変わりすぎると言うか。別人なんですもの。……病気じゃなければ物の怪にでも取り憑かれているのかしら」
「ぶっ!!」
「酷い! どうして笑うの?」
「あ、いやいやごめんね。俺様の見る限りでは大丈夫だから安心して?」
 佐助は右手で口を押さえ左手の掌を向けて今だ笑いを堪えるように言うのだ。なにか変なことを言っただろうか、とは佐助をみると彼は可愛いね〜としか答えない。後ろに控える侍女らは侍女らで、ご夫婦円満のご様子、我らもほっとしております、と口々に言い笑顔を向けてくるのだ。
「あ、そろそろ旦那に呼ばれるかな、じゃあねお方……姫ちゃん」
「ええ、おやきありがとう」
「いーえ! 旦那のお嫁さんだもの。俺様尽くしちゃう!」
「口がうまいのね」
「こりゃ手厳しい」
 佐助は特に気を悪くした風でもなくへらりと笑うとの後ろに控える侍女達にも声をかけた。
「千代女さんよろしく。縫、紬、千代女さんの言うことよく聞いて、皆とも仲良くね。んじゃお嬢さんたちもまたね!」
「佐助殿もご苦労様にございます」
「はい長」
「万事滞りなく」
「んじゃ!」
 黒い靄が一瞬舞った、かと思えばもうそこに佐助の姿は無い。流石は忍びと言うべきか、彼はいつもそうやって去るのだ。
「雪が降ってまいりましたね、宜しければ中にお入り下さい」
「そうね」
 婚礼から一月、無事年も明けた。奥州ほどではないとはいえここ上田にも雪が降る。つい懐かしくて眺めていたが、自分に比べれば侍女らは寒さに慣れていなかったかもしれない。
「悪かったわ、皆寒かったでしょう」
「まあそのような、お気になさらず」
 そう言うと侍女頭はじめ皆破顔する。
「おやきがありますから、熱いお茶をお持ちしましょうね」
「ええ、皆の分も持ってきて。皆で温まりましょう」
「はい、畏まりましてございます」
 嫁いで間もないには彼女らを気遣い信頼を得ることも大切な仕事だ。こちらに来ては思い知る。義姉がどれだけ大変だったか、身の振る舞いに気をつけるというのはなんと難しいことか。ちょっとしたことが侍女の身を酷使する。奥州にいるときは蝶よ花よと甘やかされるばかりで気づいていなかった。仕方が無い、あちらでは娘、こちらでは妻なのだから。
 侍女の香と祥が茶の用意の為に一旦下がり、他の者は炭櫃を弄る。皆手馴れたもので香らが戻ってくる頃にはすっかり暖かさを取り戻していた。
 付きの侍女は多彩だ。侍女頭の千代女(ちよめ)は信濃の名族滋野氏の分家望月氏の内儀である。滋野氏は海野氏、望月氏、祢津氏と家を分けたが、三家は滋野氏三家として緊密な関係を築き、滋野氏の嫡流として扱われている。くしくもの嫁ぎ先真田氏は海野氏から出た家であることから両家は遠くあるが縁続きである。
 また千代女自身は甲賀五十三家の筆頭の家の出であり信玄から直々にくの一の育成を命ぜられる程の者である。この度付きになったのも主君の采配であると聞いている。
 千代女に下には、真田忍隊つまり佐助直属のくの一と、そして真田家譜代の家臣の娘らが侍女として仕えている。先程佐助が名を呼んだ縫と紬はくの一であり、茶を運んできた香と祥は家臣の娘である。身分差がある為、何かしら揉めるのではないかと心配したこともあったが両者は実にうまくやっている。千代女がしっかり抑えているのも勿論ではあるが、忍隊の長である佐助がことあるごとに顔を出しているのも要因だ。譜代の娘達は佐助に憧れる者が多く、言い方は悪いがそれに託けて双方の間を立ち回っているようだ。
 手渡された茶を飲みながら女子同士華が咲く。
「幸村様はとても女中に人気がおありでしたけどほとんど興味を示されず皆寂しい思いをしておりましたよ。ですけど御正室様がいらしてからは、佐助殿が奥御殿にも顔をよく出されるので皆機嫌が良いのですよ」
「あら、佐助のおかけで私は嫉妬されずに済んでいるのね?」
「そういうことになりますかしら」
「まあ」
 千代女のこういう受け答えは喜多に似ているかもしれない。くの一の育成を任されている程の女傑なのだから腕っ節も喜多に劣らないだろう。彼女は上田についてからの侍女頭となったのでお床入りの儀の時には居なかった。人づてに事の顛末を聞いて、奥御殿の女中は自分が鍛え上げると相当息巻いたらしい。それを思えば似てるではなく喜多そのものかもしれない。
「そういえば、御か……姫様は蒼がお好きですか?」
「え?」
「いえ、御衣裳には蒼の色が多御座いました故」
 誂えられた衣裳の中身を思い出して聊か沈潜する。衣裳は兄が布を揃え義姉が整えたものが殆どだ。兄は蒼を好む。普段の衣裳から陣羽織、そして陣旗に至るまで青や紺でうめ尽す程だ。蒼は言うなれば伊達の色。改めて今纏っている紺桔梗の打掛を見るにつれ、これは政宗の幸村への嫌がらせにも感じられた。
「蒼も好きだけど、紅も好きよ」
「まあ!」
「でしたら是非、緋色の御衣裳を増やしましょう」
「真朱(まそお)等がきっとお似合いになりますよ」
「そうですね、幸村様が猩々緋や深緋(こきひ)故、薄紅、淡紅藤も捨てがたく存じます」
 意外に、衣裳の色味を皆は気にしていたらしい。確かに幸村の色とは対照的過ぎる色であるのは自明の理だ。たかが色、されど色。改めて本当にたくさんのことに気を掛けなければならないわ、と思いながらは頷いた。新米正室の日々の大変なのだ。

- continue -

2013-06-22

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