(九)

 武田領までの道のりは心配した襲撃もなく比較的安全に進んだ。比較的、と言うには訳がある。雪が予想より降り積もったのだ。信州上田も雪の降る処であるらしいのだが例年よりも遥かに降り注ぐそれに支城に足止めを食らい、出立すれば甲斐の者らは白銀に足を取られ難儀し、七日ばかり遅れて甲斐に着く羽目になった。
 大変ではあったがそれなりの収穫もあった。遅れた分幸村らと触れる機会も出来、沢山話をした。横に座って語らえば奥州を発った時の彼とは別人のように慌てふためき距離を取ろうとする。自分の知る幸村に戻ったのかとは内心大いにほっとした。また、奥州より送り役として付き従った成実、小十郎、綱元、そして古参の侍女らとも予定より長く居ることが出来たことも心が乱れずに済んだ要因だろう。
 結婚の儀は武田信玄の居館、躑躅ヶ崎館で行われる。家臣としては破格の待遇であり、信玄公がいかに真剣に幸村に家督を継がせたいか自ずと知れるというものだ。
 結婚の儀の前日は到着した一行はその足で信玄公と正室三条の方に挨拶をし、佐助曰く甲斐名物であるという幸村と信玄公の”殴り愛”が始まると、何度か目にした事のある伊達三傑はまたかと慌てず眺め、奥方の三条の方に至っては、冬やというのに暑苦しゅうてかないまへん、と二人をあしらい固まるの手を引きさっさと奥の間に場所を移してしまった。
 所在なげなに三条の方は、娘達がすべて嫁いでしまい寂しくあったがが来て嬉しい、と品の良い笑顔を向け、不都合があれば自分を頼るようにとまで言ってくれ、心密かに百万の味方を得た気分になった。

 三条の方が雅な公家言葉で、道中の疲れがさんの身体に障るとよくありまへんと言いながら花嫁を御裏方に誘導する様を見て、信玄は一旦”殴り愛”を止めて茵に腰をかけた。彼の背には甲斐源氏の始祖新羅三郎義光以来の家宝、楯無鎧が悠然と鎮座している。
「三条は花嫁が気に入ったと見えるな。良きことよ」
「ありがたきこと、我らも安心して奥州に戻れます」
 信玄の言葉に綱元が口上を述べれば甲斐の虎は満足そうに頷いた。
「幸村よ、雪以外に道中不都合はなかったか」
「はっ、やはり北条より豊臣でございました。二度程それらしい者らが盗み見ておりましたが万事滞りなく」
「アレだけの数じゃ手出し出来ないって大将」
「はは、そうであろうの。見たときは儂も驚いた、あの数だけで戦が出来るわ。北条などは城の中でさぞ怯えたことじゃろう」
「風魔が出てこなかったのは爺さんが護衛に手放さなかったからかもね」
「小者や侍女に至るまでかなりの武芸の心得があろう? 直ぐ分かったわ、これだから油断ならぬ。独眼竜の爪、ますます磨きがかかっておるな」
「甲斐の虎にそこまで言って頂けるなら主君も喜びましょう」
 今回の婚礼行列の人員を奥州側は一万近く用意してきた。通常なら武田領に入れば引渡しとなり半数は先に国に戻るが、それをせず本拠地近辺まで付き従った。他勢力の襲撃を警戒してのことと事前に連絡を入れてはいたが、同盟を目的とした婚儀である以上礼を失する行為である。信玄は失礼極まりない、奥州には含む処があるのか! と憤慨することもなく鷹揚に笑って受け入れた。その懐の広さを感じながら小十郎は静かに頭を垂れる。
「また、従者らを支城にお受け入れくださいましたことありがとうございます。結婚の儀が終わりましたら直ぐに引き返します故ご容赦願いたく存じます」
「なに、皆花嫁の送り役。それを武田以外の場所に宿を取らすは儂の恥よ」
 信玄は相変わらず愉快そうに笑い、茶と小姓に焼かせた煎餅(いりもち)を小十郎らの前に並べさせた。少しだけ目を開く小十郎、綱元に、宴続き故甘味と酒を抜かねばな、と茶を啜り煎餅を頬張った。
「ありがたく」
「なにかまわぬ。――それはそうと、本当に侍女や小者は残さぬのか? 花嫁も心細かろうて。それくらい何も言うまいぞ。奥州が何か仕出かすとは思うておらぬ」
「いえ、主君からそのように言い付かっておりますれば」
「ふむ、それならば儂が口を挟むことではないが。あれ程の姫をようこの甲斐までやってくれたもの。伊達の三傑よ、独眼竜にはこの信玄が礼を言っていたと伝えて欲しい」
「はっ」
「ふふ、堅苦しい挨拶は此処までよ。さあゆるりと食してくれ」
 口に運んだ煎餅は平凡な味だったが移動を繰り返した身には不思議と安らぎを与えてくれた。信玄の心遣いに成実などは内心年の功ならぬ虎の功かと笑い食した。次に焼き上がった煎餅は幸村と佐助にも渡される。
「大将」
「其方も食せ、疲れたであろう」
 忍びが天井裏にも隠れず、堂々とここに居ることだけでも厚遇だ。他家なら武将に混じって茶菓を頬張るなど考えられない。だが、信玄は忍びも家臣同様に扱った。主君と忍びの距離が近く強固な信頼関係がある。だから武田の忍びは強いのかもしれない。
「大将には適わないな」
 信玄は相変わらす悠然ともっと食えと進めるのだった。
「さて幸村、花嫁とはうまくやれそうか?」
 言葉少なに控えていた幸村が端正な顔を向けると信玄は満足そうに頷いた。
「幸村もとうとう嫁を迎えるか、こんなに嬉しいことはない」
「お、お館様」
「ん? なんじゃ?」
「某っ、殿と良い家庭が築けるか不安でっ」
 肩をすぼめた為様とその口調に、碾茶なんて忍びはめったに呑めないよーなどと言っていた佐助が見事にそれを吹いた。勿体無かったが前にいる人間に掛からなかったことが救いだ。
「ちょ、ちょっと旦那! お姫ちゃんは十も下でしょ! 旦那が引っ張らなくてどうするのよ!」
「真田、それは姫様では不満だと言いてぇのか!」
「ふ、不満はござらぬ!」
「なんだよ、甲斐に来る道中は二人で楽しそうに話してたし出立のときなんて」
「あ、あれは殿が御寂しい顔をされていたので、や、やめるでござるー!」
 幸村が慌てふためけば小十郎は途端に青筋を立て、綱元は何も言わないがその分盛大に溜息を吐き、成実は政宗が乗り移ったかのように若干にやけてその様を見守る。最後には誰あろう信玄公も参戦し幸村は窮地に立たされる。
「ほう? 儂に隠し事か幸村よ」
「いえ、そのような!」
「武の成実よ、何があったか教えてくれまいか?」
「そりゃも……」
「わー! もごぉっ!!」
「旦那諦めなさいっ!」
 その後、抵抗むなしく出立の遣り取りを暴露され、そんな言葉が言えるようになったかと褒められはしたものの、意気昂揚したのか幸村と信玄はまた殴り愛をはじめてしまった。佐助は傷が残らない程度にね、と言うだけで止めもせず、振り上げた拳を落とすことも出来ない小十郎は一人悶々とし綱元と成実は煎餅を口に運びながら気長に眺めることにした。

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2013-06-01

信玄公のお嬢さんは一万五千の兵に守られて氏政さんにお嫁入りしたそうです。