(八)

 勢いに乗って自らの居室に戻ったものの、そこに広がるのは愛着のある調度品も何もない閑散とした空間だった。へたりと座り込んでぼうっとしていれば喜多が来て、思わずしがみ付きぐすぐす泣いて胸の蟠りを吐き出した。
 婚家は家督相続について一波乱あるやもしれぬ、他意ある者につけ込まれぬよう身を慎めとあれほど兄に言い含められて、目立ったことはすまい、真田の家風に合うように動こうと覚悟して嫁ぐと決めたのにあれはなんなのだ。ああも臆面もなく言うような男に嫁げというのか、兄も兄だ。これから嫁いだら周りはすべて甲斐の人間、あんな態度を取られて自分はどんな顔をして過ごせばいいのだ。そんなことを喚いたような気がする。
 喜多に優しく撫でられて、鼻を啜ると襖越しに俄かに声が耳に響く。
、いい加減出て来い。餓鬼じゃねーんだから」
 兄政宗だ。いつもは餓鬼だ餓鬼だというくせにこういうときには使い分けてくる。嫌な大人だ、と悪態を吐かずには居られない。
ちゃーん」
殿ー」
姫ちゃーん」
 成実、幸村、佐助の声も聞こえた。皮肉にも幸村の声がまたの神経を逆撫でしたのは言うまでもない。
「真田さまも兄さまもっデリカシーのない殿方は大嫌い! 兄さまなんて愛義姉さまに嫌われればいいんです!」
「前も言ったろ、天地がひっくり返ってもそりゃねーって」
「むぐっ……やっぱり兄さま大っ嫌い!」
「Hahahahahahahaha!」
「梵ー!!」
「政宗様ー!!」
「おっと喜多、waitだ」
 やはり悪びれもしない政宗に喜多も襖越しに怒鳴る。何が伊達男だ、無神経度は婿殿とあまり変わらないかもしれない。ああ嫁いでも嫁がなくてもこうなのか。前門の虎後門の狼ならぬ後門の竜、歳若い花嫁を盛大に眩暈が襲う。
「もうやだ、喜多や皆とも離れるの我慢してたのに」
 は沢山の婚礼道具や侍従らの行列を携えて嫁ぐが、婚礼が終わり一段落すれば人は奥州に返される手筈になっていた。それは奥州側の人間が武田に入り込むことで幸村の反対勢力を刺激しないための政宗の気遣いでもあった。当然付きの古参の侍女らも行列につき従いはするが甲斐に着けば返す刀で奥州に戻ることになる。いうなれば豪華な道具とだけが甲斐、いや上田の幸村の居城に置き去りになるのだ。
「まあ姫様……。ほんにほんに残念で御座います。私が男でしたら姫様をどなたにも差し上げませんでしたものを。政宗様も小十郎も綱元殿もめじゃありませんわ」
「おいおい喜多」
 襖越しの抗議に堪忍袋の緒がぷつりと切れたのか、喜多はすくっと立ち上がってを奥の間に隠すと政宗らが居る側の襖を勢いよく開いた。
「まったくなんですか! 政宗様も真田様も! お年頃の姫様に無神経にも程がありますよ! それでなくともお心細く夜は一人でお泣きになられていたと言うのに! お部屋に篭られて当然ですっ! お二人ともそこにお座りなされませ!」
「ぐっ」
「なっ!」
「姉上、さすがに奥州の者でない方にそれは」
「なんだというのです! 姫様の傳役である私には姫様を泣かす者はどなたも同じ! そこの忍びっ! お部屋に入ることは許しませんよ!」
「てっ」
 見もせずに懐の扇を勢いよく広縁の天井に投げつけると完全に不意を突かれたらしい橙の髪の忍びがドスンと落ちてくる。
「おおなんとっ」
「うわ、なにこの人! 俺様の気配もわかっちゃうの?!」
 山県はじめ馬場、高坂は感嘆の声を上げ、佐助は素っ頓狂な声を上げる。
「えーあー……逆らわない方がイイヨ。あの人梵を育てた無双の人だから。俺達何度も死に掛けたし。てか喜多に鍛えられたから戦場でも生き延びたんだと思う……」
「ひええ……」
「ぬ、政宗殿を? お館様並にお強い女人なのであろうか」
「旦那、何でもお館様を基準にして判断するのやめよ? ね?」
「む、うむ」
「相変わらずのお館様主義だなぁ、アンタ」
「無論、敬愛する主君なれば。政宗殿、喜多殿に怯んで聞きそびれたのだが、”でりかしぃ”とはどのような意味でござろう」
「Ah――気配り、配慮ってことだな。まー女心が分かんねえ鈍感野郎って言われたんだよ」
「なるほど」
 幸村は顎に手を当ててふむ、と思案したがすぐ合点がいったように笑って前に進み出る。その為様に思わず命知らずーっ! 成実と後から駆けて来た左馬之助が絶叫し、小十郎と綱元は息を呑んだ。だが当の幸村は何処吹く風で穏やかな口調でこう言うのだ。
殿、したがこれは某の本心、側室などとらずに殿のみを番(つがい)と考え共に過ごしたく思う心なればそのように毛嫌いなさらないで頂きたい。御心の不安この幸村よう分かっておりますれば何の曇りもなく某を頼って頂きたいのでござる」
 へ? 
 思わずの涙は渇水した滝のように流れを止め眸は瞬き、外の政宗以下一同唖然とした。彼らにとっては本日何度目の唖然であろうか。
「さあ殿、某を許していただけませぬか」
 更に幸村は立ちふさがる喜多を意に介さず草鞋を脱いで広縁、居室へと続く階段を上がる。その後ろで成実らが必死に喜多を宥め賺す声を聞きながら、奥の間に隠れたままのはなぜか一歩も動けない。ゆっくりと迫り来る跫音に心なし怯えてしまう。
 どうしよう、襖が開けられてしまう。ええ、ああ私はどういう顔をしたらいいの?
 だが、逃げる間もなく襖は静かに開いて微かな沈香の香りと共に視界はかの人の紅い装束に染まる。恐る恐る仰ぎ見れば幸村のまっすぐな眸にかち当たり、清ました顔が憎たらしくてどうしてかは涙目で睨みつけた。
「これはまた」
 幸村は目を細めてそう言うとをひょいと横抱きにして立ち上がった。突然の暴挙に花嫁は声も出ない。
「かわゆうてたまらぬ」
 婿殿の言葉にが目を丸くすると同時に彼の後頭部には政宗の蝙幅扇が勢いよく当たっていた。
「し、信じられない。あの真田が奇跡の大逆転かましたよ……」
 最後まで悪態をついた政宗とは対称的に、成実が半ば呆然として呟くと周囲は誰も彼もがコクコクと頷き、幸村の手によりが輿に乗せられるのを皆只々見送ったのだった。

 輿が抱え上げられ発つ時、再び雪が降り出した。城門を出て小窓から覗けば兄と義姉の姿が見える。
「幸せに」
 兄の口元はそう動いていた。先程までの憤りなどもう霧散している。目を潤ませながらは必死に二人を見た。父とも母とも慕った二人。その姿、絶対に忘れない。
 雪が酷くなる中、輿が坂を下り木々に遮られて互いが見えなくなるまで兄と義姉は城門にいたのだった。

 政宗は愛姫と二人、遠のく輿を眺めていた。小窓から見えた妹の姿は段々に見えなくなっていく。少しずつ強くなる雪に妻の身体が冷えてはと抱き寄せて苦笑した。
「やれやれ、今日は散々だ。妹は持っていかれるし嫁は名を上げるし」
「あら、なんでございますか?」
「山県に言われた。然しもの独眼竜も愛姫には形無しだとさ、俺は名を下げただけらしい」
「まぁ、政宗さまも小十郎もわざとで御座いましょう? 先程のは」
「Haha! 八割方真剣だったぜ? 真田には……いや、武田の人間にゃいい牽制になったろ。愛、おまえにはびびったがな。だからあきねーんだが」
「あら」
「独眼竜やその右目がそこまで大切にしてた姫を嫁がせたって思われればそれでいいんだよ。おいそれとに手出しは出来ねえし粗略にも扱えねえだろ。虎は大事にするみてぇだがその周りがな」
 夫の言葉に愛姫は少し微笑んで頷くと、もう点にしか見えない輿を精一杯眸に映した。
「でも、寂しゅうなりますね」
「ああ、寂しいっちゃ寂しいな、ずっと傍に居たし。まあいつまでも居残られても困る。――だがな愛」
「はい?」
「あいつが居ねえのは耐えれるがお前が居ないのには耐えられん。傍に居ろよ?」
「政宗さま」
 この方は落としどころをよくご存知だわ、そう思いながら夫の胸に寄りかかった。低い低い、だが心を捉えて離さない夫の声が愛姫の耳に響く。
「先に逝ったりするなよ?」
「愛とて政宗さまが居ないのは耐えられませぬ。愛が先に死にとうございます」
「駄目だ」
「まあ勝手」
「諦めろ、そういう男の妻になったんだからな」
「……ずっと一緒がようございます」
「ああ、そうあればいいな」
 肝心の妹の輿はもう見えないが婚礼行列はまだ続く。鳴り物入りで嫁がせたいと人員を奮発したが、少々やりすぎたか、と政宗は独り言ち、愛姫は良いのではございませんかと笑ったのだった。

- continue -

2013-05-25

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