(七)

 導かれるまま座してゆっくりと顔を上げれば見慣れぬ顔が並んでいる。この方達が武田のお迎え役か、と視線が泳いだ後ある一点に広がる真紅に目を見張り声を上げた。
「さ、真田……さまっ」
殿お久しゅうござる」
 そこには紅い装束に身を包まれた整った顔立ちの武人が居た。真田幸村その人である。は目を瞬いた。花婿たる人が何故此処にいるのか。婚礼の作法に則れば花婿はそれこそ嫁ぎ先で結婚の儀の直前まで顔を合わすことなどない。疑問が口を吐く前に、婿殿より上座に上がる訳にはいかぬと、はっとし、茵(しとね)から退いて急ぎ幸村に頭を下げた。
殿、今は貴女の護衛なれば政宗殿のお心遣いもお断りしてこうしており申す」
 幸村から発せられる聲に心の臓がどくりと鳴った。このような落ち着きを払った殿方であったろうか。我知らず恥ずかしくなって少し目を逸らした。
殿?」
「ハハ、幸村殿」
 花婿の声音に怪訝そうな色が浮かぶと同時に彼の横から豪快な笑い声がする。見れば声に反して理知的な印象を受ける容貌の武将がそこに居た。
「花嫁殿は殿御の立て方をちゃんとご存知のご様子。いやまた、それが微笑ましい。姫におかれては随分驚かれたこととお察し申す。私は武田家家臣山県昌景、後ろに控えるは馬場信春、高坂昌信にござる」
「武田の四名臣といわれる男達だ」
 いつの間にか後ろに居た政宗の言葉に、幸村と昌景の後ろに控えた二人の武将が頭を下げる。信玄公に近い年齢であろうその武士らは一人は上品な物腰、もう一人は鶴髪童顔といった言葉が似合いそうな目に強い印象を持つ武士だった。
「独眼竜にそのように言われると聊か照れますな、今一人、内藤昌豊は甲斐にてお出迎えの仕度をしております。以後お見知りおきを。花婿自らがこちらに参りましたるは、花嫁の御身の安全を願ってのこと。武田が飛ばしたる忍びの知らせによれば北条に不穏な気配あり。婚礼行列に何かあってはと自ら出向かれた由」
「北条……」
「戦をする気などないでしょうが、考えなしに忍びを送り込んでくることも在り得まする故。特に風魔小太郎などを送り込まれれば厄介至極」
「Ha! そっちの腕利きの忍びは来てねぇのかい? 風魔とカチ合ったら奴をぶつけりゃ事足りるだろ」
 これから婚儀の縁を結ぼうとする相手方に兄の物言いは不遜にも聞こえる。だが幸村はふと笑い意に介した様子もなく、どうしようかと一人気を揉めば脳天から声がした。
「はいはーい。勿論俺様も居ますけどねー、ちゃーんとお仕事もしますけどねー、人遣い荒いのは勘弁だよー」
「きゃっ」
 は驚いてきゅっと身を縮め、天井に在ったであろう気配はすっと幸村の横に移る。まじまじと見れば橙色の髪が印象的な姿があった。幸村に仕える忍び、幸村と話す時は彼とも話したしお団子を貰ったこともある。
「佐助どの」
「やあ姫ちゃん、あ、よろしくね御方様。それから佐助でいいよー」
「猿飛てめぇ」
「右目の旦那こんにちはー、てかさっきから聞いてたら大概失礼だよー」
 そうだ。吹き矢の件といい、すぐ連れ戻すとの兄の言葉、自身に至っては離れたくないとまで発言している。隣室に居たのならすべて聞こえていただろう。はたとして焦るも、兄は心なしか殺気立っているし小十郎は心なしどころではない。むしろ兄や小十郎は聞こえるように話していたのではないかとさえ思える。
 やめて下さい二人とも。私は今からこちらに嫁ぐんです。これでは武田の方々のお顔をまともに見ることも出来ません。は心底懇願したが男同士の話に女子が口を出すのも気が引けて、成実、綱元あたりが想いを汲み取ってくれまいかと俯いて袖で口を隠した。いっそ胸元の扇で隠してしまいたかったが流石にそこまでは憚られる。
 だがの想いを汲み取ったのは成実でも物静かに控える綱元でもなかった。
殿、お気になさらず。可愛い姫御を他家に出すとなれば当然のこと」
「さ、真田さま」
「uhhhh!」
「梵ー!」
「すごいっ旦那が女の子に気遣い出来てる! 成長したなぁ俺様涙がでちゃう」
「誠に」
 奥州側を尻目に、さあ、と促されてが幸村の手を取れば彼の大きくて長い指がのか細い指を絡めとる。外には既に輿が用意され導かれるまま進むしかない。階段に一つ足を掛けた時、兄が進み出て幸村に言った。顔は相変わらず不遜だ。
「おい真田、泣かすなよ」
「それはむろ……」
「ああっ! そういう訳にもいかねえな! なかすつっても例外があるよな。閨で啼かせる甲斐性でもなきゃあな!」
 大げさな兄の所作とその言動には動きを止めて目を瞬いた。なんのことだと考えて、周囲の空気となけなしの知識を手繰り寄せれば、それが嫁いだ後幸村との間に起こるであろう事柄だと思い至る。羞恥心に抵抗することも叶わず只々固まるが、それよりも我が手を握る御仁のことが気を掠めた。
 自分以上に、否、初心の塊のような殿方。彼の口から大音量でお決まりの科白が響き渡るに違いないのだ。
 そう、大絶叫ではれん……
「無論にござる。殿には閨の不自由はおかけ申さん。某、夜の帳が降りたなら直ぐに毎夜の如く殿の許に参じ想いの丈を囁きましょう程に。身も心も愛しんで奥州のことなど気に掛ける暇も与え申さぬ!」

 ――え、今なんて?

 思わず恐れも恥じも忘れて見れば平然とした幸村がそこにあった。言葉の意味を紐解けば今度は全身の血が逆流して一気に頬が熱を帯びる。婚礼行列の為に控える周囲もまた各々うろたえ視線は否応なくに集まるのだから渦中の花嫁としてはこれ以上の居た堪れなさといったらない。
 であるのに。
「――Godd......Goddam! 真田ァァァアアアアァ! やっぱてめぇにゃはやらねええぇえ!!」
「政宗様っ! 六爪はいけません! 六爪は!」
「ひ、筆頭落ち着いて!!」
「わー……」
「成実殿、吹き矢をお返しください。すぐさま!」
「え、ちょ、小十郎何するの!?」
「当てるに決まってんだろうが!!」
「小十郎怖い! 目が笑ってない! 頼むから冷静になって!!」
 上から政宗、綱元、左馬之助、佐助、小十郎、成実。半ばそれは阿鼻叫喚の図に見えて頭痛でも起こしたくなる。
「てめぇにやるくらいなら成実にくれてやる!」
「むっ! それは本気でござるか政宗殿!」
「ちょっ! 俺そういう位置づけ? てか巻き込まないで! 俺怖い!」
「死ねぇ!! 真田っ幸村ァァァァッァァァ!!」
「往生際が悪いでござるぞ! 伊ァ達政宗ェェェェェ!!」
 とうとう、綱元が止めていた六爪も飛び出し、を横に避けた幸村が朱槍を手に取れば辺りに一気に砂煙が舞う。
「ああ、これはまた竜と虎の打ち合いとは」
「我らはめったに見れませぬなぁ」
「時間はまあよいか、お館様ならきっと笑ってお許しになる」
 などと、武田四名臣と言われる者達は気楽なものだが、余りの惨状をは只立ち尽くして見ていた。
 なんなのだろうこれは、さっきまで涙を我慢した別れはなんだったのだ。嫁いだ先を想い不安に駆られて過ごした夜はなんだったのだ。人の気も知らず、彼らは何をしているのだ。
 そう思えば眉はピクリと動き、胸元に閊える棘はたちまち怒りへと変わるのは致し方なきこと。
 この男二人、許さぬ。
 別れの涙などもう出ない。出るとすれば憤りの涙だ。花嫁の手はふるふると震えて留まらない。
「……兄さまも……」
「ん? ちゃんどうし……」
「真田さまも……っ」
「……どのっ?」
「大っ嫌いです!!」
 もうかまうものかとは打掛の衿先を掴むと身を翻して広間を抜け奥御殿の居室へと逃げ出した。後ろから、義姉がおろおろする様や兄や幸村はじめ皆が呼び止める声が聞こえたがもうどうでもよくなってしまった。
「あーあ、祝言も終わってないのに泣かせちゃってるよー……」
「あれは流石に泣くわ……」
 逃亡した花嫁の後ろ姿に佐助と成実が半ば独り言のように呟いてくるりと後ろを振り向く。二人からは婚礼の別れには相応しくない気が渦巻いてゆく。
「旦那!」
「梵! てか二人とも悪いよ! 刀出すまで暴れなくていいでしょうが!」
「Hun!」
「むう」
「はーでも旦那、幼子に手を出すみたいで気が引けるとか言ってたくせにしっかり応戦するんだもの。結構乗り気なのは分かったからさー」
「な、佐助、某は!」
「ほう真田、あいつが好みか、十も離れた娘に容赦なしに手出しする気か!」
「当然でしょ! 梵、諦めなさい! 六爪仕舞う! 小十郎! それ! 口に含んでるそれ! 下ろす!」
「右目の旦那どうしちゃったのよ……」
 成実と佐助、そして睨みあう政宗と幸村の様子に皆が戦々恐々だ。成実の言葉を借りるなら、どう収拾つけんのこれ? とでも言いそうな在り様に外野は目を泳がせるしかない。比較的冷静な綱元が、どう纏めようかと口を開きかけたところ、鈴を転がすような可愛らしい声が皆の耳を掠めた。愛姫だ。
「あらまあ政宗さま、人のことは申されませんでしょう? 愛とて貴方様に夜毎寝かせてもらえませぬ」
 唖然。
 愛妻の乱入に政宗はこれ以上にない位目を見開いて、対して思いもよらぬ言葉に幸村は顔を赤くして目を逸らした。小十郎に至っては手元にあった例の細い物騒なモノをポロリと落とし、成実と綱元、佐助ら武田側の諸将ですら同じように固まる。それでも愛姫は尚も微笑んで続けるのだ。
「睦まじいことは良いことにございましょう? 真田さまがどのを気に入ってくださればどのはきっとお幸せ。楽しみですわ、私とどの、どちらが先に御子が出来ますかしら。ねえ山県どの?」
「はっ! ええ、勿論です。どちらにも御子が出来れば双方一層栄えましょう。いやそれならばまこと喜ばしい」
 それまで目が点だった山県が張子の虎のように頷くのを皮切りに皆そうだそうだと口々にのり始める。愛姫は少しだけ幸村の傍に歩みを進めて微笑んだ。伽羅の混じった甘い香りが微かに漂ってそれが一層彼女を引き立てるのだ。
「真田さま、どのは私にとっては義妹でございますけど、ほんに赤子の頃から手元においてお育て致しました。歳は親子ほどとはいきませぬが、娘のように思って今日まで慈しみました。どうぞ幸せにして下さいましね」
「ハッ! むっ無論でござるっ!」
 赤面のまま拳を握り締めて叫ぶ幸村に、政宗は首を振り努めていつもの伊達男の顔に戻る。
「愛」
「はい?」
「……天然最強だな」
「え?」
「いや何でもねえ。――流石の俺も妻には適わねえってことさ。真田、を頼む」
「肝に銘じて」
「だがその前に、臍を曲げたをどうにかしなねえとな」
「いきなり難問でござる」
「おいおい大丈夫かよ」
 花嫁が逃げた先を見て政宗と幸村は聊か重い顔をしたのだった。

- continue -

2013-05-18

茵(しとね):当時の座布団のようなものです。