(六)

 世界は白銀に染まっている。幸菱を浮織した白綾の小袖を纏った我が身がそれに溶けてしまいそうだ。
 今日、は真田幸村の正室となるべくここ奥州を発つ。昨夜はお暇乞の儀が行われ、かわらけで兄と杯を交わした。一口、それを飲み込めばもう本当に嫁ぐのだと郷愁の念に駆られる。寂しくて悲しくて兄の顔を見ることすらままならぬ様子に政宗は、困った奴だと呟いて奥州最後の夜は自分達夫婦の寝所で休むように差配してくれたのだった。
 早朝、真田家からお迎え役が到着したと連絡があった。彼らにも今頃酒を振舞われていることだろう。昼が過ぎればは彼らの前に姿を現して出立することになる。
「本当に、もう行かれてしまうのね」
 胸に迫るような声音で愛姫は言い、は目を伏せてはい、と呟いた。
「このようなこと言ってはならないのだけど、お嫁には出したくありませぬ」
「義姉さま……」
「おめでとうと言って差し上げねばならぬのに」
 愛姫の白い手がの手を撫でる。本当にこの義姉は可愛がってくれた。親との縁が薄くともそれを不幸と感じたこともなければ寂しいと思ったこともなかった。いつもいつも兄と義姉に満たされていた。今だってそうだ。白無垢も愛姫手ずから縫い、調度品は兄がすべてあつらえてくれた。なんて幸せなのだろう。
「義姉さま、義姉さま達にはありがとうしか言えないわ。この御衣裳のことも、婚礼調度のことも、何より今まで育ててくださったことも」
どののこと、きっとお幸せになれるわ。お相手は政宗さまが見込んだ御方ですもの」
 どちらともなく泪が溢れ、愛姫はの頬を優しく拭った。そうして衣擦れの音が聞こえれば喜多が静かに入ってくる。
姫様、政宗様が先方のお迎え役にお声を掛けられたようです。そろそろご準備を」
「……はい」
姫様、武田側も決して姫様を粗略に扱いはなさいませんよ。小十郎に聞きましたけどお迎え役は真田家ではなく武田家より来られてるようです。それも信玄公のご重臣である武田四名臣と言われる方々だとか」
「まあ本当に?」
「はい、愛姫様。こちらも伊達三傑全員が送り役を致しますけどどちらも引けをとりませんわ」
 それは信玄公肝煎りの婚礼故のことなのだろう。幸村に武田を継がせたい信玄、腹心達が幸村の下について彼を支持すると示したいのだ。
姫様、お気を確かに。あちらに着いてご婚礼が済みますまでは小十郎たちも侍女も同行致します」
 喜多は同行しない。成実、小十郎、綱元や侍女達が奥州を空けるため愛姫の身辺が手薄になるのを防ぐためだと聞いていた。小十郎らとはしばし間があるが、政宗、愛姫、喜多とはこれで別れとなる。寂しいわ喜多、と呟けば喜多もまた袂で目を覆う。
「武田四名臣と伊達の三傑を従えての甲斐入りでございますもの、皆の度肝を抜くぐらい鳴り物入りの初陣となさりませ。喜多は奥州にて陣太鼓を鳴らすつもりでお送りいたしますわ」
 そう喜多が言えば何にも負けない気がしては笑んで頷いた。 

 今日が最後だから私が、と愛姫はの手を取り広間である外御書院に誘う。そこには兄はじめ重臣一同が控えていた。もう見ることの出来ない顔、この目に焼き付けていたい。
、よく似合ってる」
「兄さま。……兄さま、長い間ありがとう御座いました。もう愛義姉さまと不和にならないで下さいね」
「ああ、お前のアレはもう勘弁だ」
「――兄さま、私、すごく幸せでした。えと、どの位かっていうと兄さまと義姉さまの娘に生まれたかったってくらいに」
 そう言えば政宗は僅かに目を見開いて口に手を当て下を向いた。心配になって兄さま、と顔を覗き込めば政宗はいつもの不遜な顔になってこう言った。
「Ha! あったりめえだろ。この俺が一等手塩にかけて育てたんだからな! 不満があったなんて言わせねえぞ」
「うっ……ぅ」
「泣くな小十郎!」
 そっと振り返れば小十郎は掌で目元を覆い涙し綱元も左馬之助も目を伏せ、そして成実は優しく笑んでいた。
「小十郎、可愛がってくれてありがとう。小十郎は私のもう一人の父さまよ」
姫様……なんとっ」
 そう言えば感極まったように肩を震わせ咽び泣く彼にも眸が熱くなる。幼い頃はよく肩に乗せて遊んでもらったものだ。強面で生真面目で竜の右目とまで名を轟かす彼が普段からは想像出来ないくらい破顔して相手をするものだからそれが嬉しくての自慢だった。父と縁の薄い分、二十二も上の小十郎に兄よりも父の影を見ていたのかもしれない。
 小十郎は目頭を時折押さえながら懐から薄い木箱を取り出してそっとに手渡してきた。何? と聞けば餞別のようなものにございます。と彼は言を紡ぐ。
姫様、真田が不埒を働きましたら直ちにこちらをお放ち下さい。吹き矢に御座います。黒脛巾組の粋を極めた作なればイチコロに御座います。また婚礼道具に短刀を忍ばせておりますればっ」
「何しれっと渡してんの! 仮にも婿殿に失礼でしょっ! ちゃんそれは持って行かないでね」
姫様のお為であればっ!」
「おい成、仮にもっててめえもひでえだろ」
「……成兄さま、兄さまと小十郎をよろしくお願いします」
「はは、無理かもしれないよ」
 成実はいつもの調子で笑いさりげなく取り上げた木箱をひらひらさせた。普段から想像もつかない小十郎の様に心が揺れ、視線を上げると兄とかち合う。すると抑えたはずの感情が一気に溢れ出る。
「どうしよう、兄さま……離れたくない……」
 その言葉に小十郎はふぐっおぉ……と男泣きをし成実や他家臣に宥められていたが、彼の男泣きは周囲に伝染したのか、外に控える伊達の兵からも啜り泣きが聞こえてくる。
「やっぱ餓鬼だな……」
「居れるなら、餓鬼のままでいい……」
 少し想いを吐き出せば途端被衣を外して泣き叫びたくなる。政宗はわずかに雫に濡れるの眸を見て一度笑って額を突いた。
「幸せになれよ? 前も言ったが泣かされたら直ぐに取り戻してやる。なあ? おめえら!」
「Yeaaaaaaaaaaaah!!!」
姫様、お幸せにぃぃ!!」
「筆頭ぉおおぉおおおお!!」
「俺達がちゃんと甲斐までお連れしますからね!!」
 政宗が一石投じれば波紋は広がり一斉に伊達軍の兵らは猛る。やはり兄にはこの声援がなくてはならない。兄を彩る荒くれだけど気のいい彼ら。甲斐の、上田の兵はどうなのだろう、彼らのような人たちだろうか、自分はちゃんと馴染めるのだろうか。ああ、もうやめて。ますます此処から動きたくなくなってしまう。
姫様、隣の広間に武田の方々がお待ちです。ご出立の前にご挨拶を」
「え、ええ」
 抗えるはずもない。兄と義姉に一礼し、ゆっくりとそちらに足を向ける。一歩一歩が心なし重い。この戸をくぐれば武田の重臣達が待っている。新しい世界に放り込まれてしまうのだから。

- continue -

2013-05-11

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