「どの」
慈愛を含んだ聞きなれた声がの耳に響く。鈴を転がすようなその声の様は迦陵頻伽にも劣らぬと周囲の者は常々思っている。誘われるままゆっくりと振り返れば声に違わぬ美しい女人が不安げにこちらを見つめていた。
「そのように端近にお出になってはいけません。また先頃のように不埒者の目に晒されてはどうします」
「申し訳ありません、愛義姉さま」
「怒っている訳ではないのです。さあこちらに」
「はい」
素直に従えば心から安心したように微笑み、誘う手は白く所作はその容姿に違わず嫋やかで美しい。物心ついた時にはもう自分の傍にいたこの心優しい義姉をは母のように慕い、そして憧れている。
は実父母との縁が薄い娘だった。婚家より実家大事であった母が一歳になるかならないかのを実家の甥に嫁がせようと画策したことが切欠であったらしい。父はそれを憂慮し、母の傍には置いておけないと祝言を済ませたばかりの長兄夫婦の許で育てさせた。当時兄政宗は十三、義姉愛姫は十一。兄達こそ飯事夫婦であったところに乳飲み子のが来たのだ。当初はさぞ困惑したに違いない。
それでも二人はこの歳の離れた妹を家臣の手を借りながら大層大事に育ててくれた。兄は母と弟の縁薄さから、義姉は実家から離れた寂しさの裏返しであったのかもしれないが。
奥に入って座すると愛姫は手に茶菓を添えてそっと手渡してくる。二十も半ばを越えた義姉だが時として少女のように可憐で、女子のも見惚れる様は花の顔(かんばせ)と呼ぶに相応しい。それを独占する兄政宗が少し憎たらしくもある。
「この前の御手蹟、とても見事だと政宗さまが褒めていらっしゃいましたよ」
「枕詞にあのはねっかえりが、とでもお付けになったでしょう?」
「まあどの。でも私も鼻が高いです。あんなに上手にお出来になって」
「愛義姉さまのお陰です」
そう言うとまた愛姫は笑む。
ここ数年の周りは騒がしい。十一を越えた頃から嫁取りの話が政宗の許に寄せられはじめ、最初の頃は侍女達は浮き足立ち衣裳をはじめ調度品を探してきたりもしたが、鬢批を終えた頃からは、主からの命なのか他国の使者がを見ようと露骨に奥御殿を覗いたり、過激なものに至っては忍びが侵入し浚おうとしたりするなど物騒な事態が多発し、黒脛巾組により事なきを得ているものの、兄は外出を禁じ、義姉などはすっかり脅えての動向に一層気を遣うようになっていた。
兄夫婦の気遣いは嫌ではないし愛おしんでくれる証拠だと理解もしている。しかし若干のつまらなさも感じているのも事実だ。以前は来客があったり珍しい物が齎されたりするとすぐに呼び寄せ引き合わせてくれたものだが、他国の者に晒すことを危険と感じているのかその一切が無くなったからだ。
兄と懇意だった西海の鬼長曾我部元親、甲斐の虎の使者という名目で手合わせに来ていた真田幸村、同盟を組む前後に足繁く顔をみせた徳川家康、それからふらりといつも現れて面白い話をしてくれた前田慶次、無愛想で難しい謎かけのような話をする毛利元就、もう何年会っていないだろうか。
そんなに対し一番心を砕いてくれたのはこの義姉だ。気が紛れるように華道も茶も書も歌も熱心に教えてくれた。にとってはこの美しく優しい義姉がすべての手本であり、いつの頃か義姉のようになりたいと人知れず努力した結果が今だ。
「政宗さまもどこへ出しても恥ずかしくないと仰いましたのよ」
「兄さまが? 珍しい」
「どのは辛口ですのね」
「兄さまにはですよ」
菓子をひとつ口に入れるとほのかな甘さが広がる。美味しい、と呟けば愛姫は破顔した。
「それは政宗さまがお作りになったのですよ」
「えっ、またですか。本当に多趣味ですね」
「ほんに。どのが美味しいと言ってらしたとお伝えしますね。きっと喜ばれます」
「やめて下さい、調子に乗られます」
「本当に辛口」
愛姫も侍女も笑いもまた微笑む。しかし、にはやはり気掛かりがあった。
「義姉さま、私はどなたに嫁がされるんでしょう」
「私にも見当が……。でも政宗さまのこと、どのが不幸になるような殿方には嫁がされませんよ。どのはどんな方が良いのですか? 御容姿とか人となりとか」
「困ったことに、基準が兄さまや成兄さま、後は小十郎、左馬之助になってしまってそれ以外思いつかぬのです」
「それはまた」
「私は奥州の何方かがいいです。だってそれなら兄さまにも義姉さまにも会えるもの」
「あらあら可愛いこと」
「あ、お二人のお邪魔にならない程度ですよ?」
「貴女を邪魔だなんて思ったことありませんよ」
「ありがとう義姉さま、でも兄さまには内緒ですよ。きっと仰いますもの、『は――』」
「『はまだまだ餓鬼だな』だろ」
「!」
が唇に人差し指を当てて悪戯っぽくそう言えば、部屋の出口から不遜な声が響く。振り向けば予想通り、襖に腕を置き声と同じくやはり同じように不遜な顔つきをした兄政宗が立っていた。ゆっくりと歩み寄ってに顔を近づけてきてその所作がまた様になっているのが憎たらしかった。
「美味かったろ?」
「……美味しかったです」
「Ha!」
「チッ!」
「おいコラ」
政宗は遠慮なしにの頭をがしがしと掻き撫でる。悔しくも腕の長さも腕力も適わないはわたわたともがくのが精一杯だ。
「んとにまだまだだなぁ? しおらしくしててもすぐ素が出やがる」
「むっ!」
「まあ政宗さま、驚きました。心の臓が飛び出まする」
兄妹の遣り取りは見慣れたものである愛姫の間延びした声が流れ、二人は目を留めて其々妻、義姉を見て手を止める。
「兄さま、いつから聞いてらしたの?」
「そのように端近にお出になっては〜からだな」
始めからか。
「立ち聞きですか? 独眼竜」
「聞かれちゃまずいことでもあんのか?」
「女子ですのでいろいろと!」
「Ha! いつの間に色気付きやがった」
さらにわしゃわしゃと頭を掻き乱す政宗には抗議の声を上げる。
「愛義姉さま! 兄さまのどこがいいんですか? こんな性格の悪い男!」
「残念、俺は愛には優しいんだよ。お前こそ男の基準が俺とか言ってたじゃねえか!」
「お陰で人生棒に振りそうですよ! 義姉さまは棒に振らないで!」
「減らねえ口だなぁ。オイ」
「いひゃいぃい」
「Haha! 白饅頭みてぇ」
頬を引っ張られ、表情も抵抗も情けないものになる。対照的に政宗はさぞ楽しげにそうするものだから気の毒になったのか愛姫がやんわり止めにはいる。義姉が言えばすぐに止めるのだからもそれを見る侍女達も内心苦笑いするしかない。
頬を撫でながら兄を睨めつけると彼はまたもニヤリと人の悪い顔をする。兄が大切にしてくれるのは分かっているのだがこういうところが憎たらしいのだ。
「おい」
「なんですか、妹の頬を伸ばしたことに多少の罪悪感を感じてくれましたか?」
「まったくねえ」
「いつか義姉さまに嫌われるといいです。というか今すぐ!」
「そいつは残念だったな。天地がひっくり返ってもそりゃねえよ。なあ?」
自信に満ちた政宗に愛姫は微笑むばかりで、そのうち政宗は少しだけ神妙な顔になって続けた。
「、愛が言うから分かってるとは思うが、端近に出んなよ。庭が見てえのも分かるが」
「はい」
「ついさっきも鼠が一匹入り込んでやがった」
「えっ」
「まあ、どこの手のものでしょう」
「さあな、今吐かせてるところだ。鼠もそれ程の手練れじゃなかったしそんなの雇ってるくらいなら小者だろうが油断は出来ねえ。北条の風魔並の奴が来たら厄介だ。奥御殿から俺んとこに来ることがあったら成実、小十郎辺りは呼べよ。黒脛巾組を付けてはいるがそれだけじゃ心許ねえ」
「はい」
も愛姫も誰かが侵入したなどまるで気づいていなかった。愛姫と控える侍女は青くなりも息を呑む。政宗は払拭するかのように今度は優しく頭を撫でて来た。
「んな顔すんな。身辺には気を抜かねえしそのうちいい男を見つけてやるよ」
他国に狙われるほどの血が自分の中にあることを知っている。それはが望み、腑に落ちることではなかったが。否応なしにくる者らに兄が常に落ち着かず義姉に気遣いされるのは申し訳ない。正直、兄達と離れたくないというのが本音だ。だが兄夫婦と国のことを考えればそれは無理だということも分かっている。嫁がねば状況はいつまでも変わらぬし、愛おしんでくれた分役に立ちたいという気持ちもある。複雑なのだ。割り切れない我が身は兄の言うとおり子供なのかもしれない。
ありがとうございます、そう返事しながら知らぬ間に溜息をついていた。
- continue -
2013-04-06
筆頭がお兄さんだったら嫁ぎたくないです。