09


 だが現実というのは実に皮肉なものだ。
 いつまでも起こらぬ激痛の代わりに訪れたのは手首を押さえる人の手の感触だった。
「お待ちを」
「……っ!」
「その御命、無駄に散らせてはなりません」
「何を……」
 何を言うのだ、と私は彼女を見た。私の腕を止めるくの一の手は侍女らの血に染まっているではないか。嗚呼こんなことなら、もっと早くに死を選べば良かった。今までなにをのうのうと生きていたのだろう、侍女達の顔が浮んでは消える。
「命を絶とうとなさるのは徳川殿の御為ですか? 貴方から総てを奪った男の為に死のうとなさる」
「離し、て!」
 渾身の力を持って腕を引くもびくとも動かない。何故だかこの忍びの言葉が頭に響いて逃れようとした想いを叩きつけてくる。家康の為に死のうとしている? 否、否! 私はただ武家の女として死にたいだけだ! この身を汚したくないだけだ! けれど、

 ――家康に散々蹂躙されたこの身は、とっくに汚れているのではないか?

「無駄なことをなさいますな!」
 足掻く私の手首をくの一が捻りあげて懐刀はいとも簡単に滑り落ちていく。身の均衡を崩す私を支えて彼女は囁くのだ。
「そう簡単に御命を散らそうとなさる前に、御子にお会いになりたくはありませんか?」
「――え、」
「家康様が見捨てた貴女様の三番目の御子は豊臣が手厚く保護しておりまする」
「み、す、てた……?」
「やはりご存知ありませんでしたね。家康様は御子を上方から引かせることもなく豊臣と戦端を開かれました。当然御子はそのまま大坂に留め置かれております」
「なん、て、こと」
 家康、酷い、なんて事をするの。そんなの戦国の常なんて言葉で片付けられようはずもない。この手に抱いたことがなくても私はあの子の母なのだ。嗚呼、でも、でも。
「私が、あの子に執、着した、から……っ、家康っ……」
 ここまでするの? あの子は貴方の息子でもあるのに! ごめんねごめんね、私の若子、名前も分からない、呼んであげられない私の赤ちゃん。
 堰を切ったように溢れ出る子供への想いに、四肢の力はいつの間にか抜けて懐刀もするりと地に落ちる。そしてくの一は読めぬ表情のまま口笛を鳴らして味方を呼び寄せたのだった。

 忍びの足というのはとても早い、知識では知っていたが其れを体感するのは今が初めてだった。二日も経たぬうちに私は豊臣の支城へと運ばれた。その間手荒なことはされなかったのは奇跡だろう。だが今は身を蹂躙されるよりもあまりに大きな嘆きに覆われていた。
「成る程、なよ竹の佳人の如き美しさよ。ヒヒッ、徳川が執着するのも分かるというもの」
 誰、と聞く気力ももうない。輿に乗ってゆっくりと部屋に入ってきたのは包帯に全身を覆われた男だった。反応の薄い私を可笑しげに見る気配がしたがそれもまたどうでもよかった。
「未だ何処かで徳川を信じている長曾我部に伝えてやろうほどに。徳川は己が妻を長年奥に閉じ込めて自由を奪い、表では何食わぬ顔で別の女子を娶って笑っておるような男だと」
 長曾我部、それは家康の古い友の名だと聞いたことがある。家康はその人とも袂を分かったのだろうか。私の存在を知られることはその人との縁を完全に断ってしまうことになるんだろう。
「やれ大人しく従え。我らからすれば徳川の室など穢多の群れにでも放り込んでやっても飽き足らぬのよ。其れを一応の礼節を持って遇してやろうというのだから感謝して欲しいものよな」
「……」
「死のうとはするな。従順ならば子にも会わせてやろうヒヒッ」
「本当に、無事、なのですか」
「おうとも、三成は卑怯を嫌う故なぁ」
 この男の名は大谷吉継といった。

 大谷は暫く私を眺めていたがやがて別室へと導いた。言われるままに足を踏み入れれば其処にはまた一人細身の武人が座し私を睨みつけるように見ていた。悪意ある視線にはなんとなく慣れていたから只静かに一礼をすると、続けざまに大谷が渡殿を挟んだ先にある部屋を覗くように指示した。
 其処には小さな童が僧に教わりながら無心に紙いっぱいに書の練習をしている姿があった。可愛い童だった。
「……?」
「如何した、ぬしの子に逢わせてやったというに」
「あの、」
「対面が早すぎるか? 確かに今しがた言ったばかりであったか。いやなに、ぬしは徳川に害された側であるが故逃げもすまいと思うたまで」
「……あの子が、」
「ヒヒッ、もっと喜んでもかまわぬぞ」
「……顔、知らないんです。……産んですぐ離されたから、腕に抱いたこともありません」
「――!」
「……それでも我が子大事にいつ命を取られぬとも分からぬこの場へ来たか」
「何も、してあげられなかったから、せめて無事に……」
 僅かに細身の武人が眉を吊り上げ、大谷は、母とは奇特、キトクよなぁと首を振った。

******

 力なく、顔を知らないと言いながらも只々愛おしそうに童を眺めていた家康の室をくの一に渡して大谷ははぁと息を吐いた。
「三成よ見たか」
「……」
「はてさて、これではあの子供が本当に徳川の息子なのか分からぬ」
「不快だ」
「うん?」
「あの女、まるで第五天のようだ」
「似ておるかもしれぬな。総てを奪われ、だが頼るべきは自分から総てを奪った男。だが狂気には駆られておらぬ」
 大谷の言葉に、石田三成は苛立たしげに鞘を畳に突き立てた。
「家康め、豊臣を謀り朝日様を娶りながら裏では妻を虐げる。絆を語る男が妻子の絆を奪うこの矛盾! 何が東照か!」
「愛おしい女が我らの手に落ちたとなれば徳川も平静ではいられまい。化けの皮を存分に剥ぐがよかろう」
「刑部」
「なんだ?」
「あの女は武将の室に相応しい待遇をしてやれ。下卑たことで秀吉様の名を汚すのは許さない。私の瞋恚は家康をこの手で切り刻んでこそ晴らされる!」
「心得ておる」
「それからこの件でこれ以上私の手を煩わせるな」
 大谷が相分かった、と返すと三成は振り向きもせず足早に広縁を進み行く。途中庭に植えられた木々が彼が横を過ぎ去ると同時に音を立てて裂けた。それが彼の居合いによるものだと知る大谷は釘を刺されたなと息を吐いた。
「やれやれ、絶好の切り札であるのだがなぁ。三成は潔癖故。此れが毛利ならばあらゆる手に使うであろうに」
 敵対する武将の妻、其れが最愛の者ならばなおのこと使い道は人質だ。無論、大谷はそのつもりであった。三成は前述の通り潔癖であったが、家康に敬愛する主君豊臣秀吉を殺され、家康憎しの感情があれば其れも辞さぬであろうと踏んだのだが見通しは甘かったようだ。哀れな姫に同情、とは考え難い、彼は不器用で何処までも真白な男なのだ。
 強行することも可能だろう。だがうっかり三成の耳に入れば彼は激昂して統率に支障がでる。それでなくとももうすでに自分は四国で暗躍しているのだ。
「困った、あの室どう使うか……。徳川の切っ先に突きつけてやる訳にもいかなくなった」
 ――今は小さな小石でも、天に昇って陽となる日が来るかもしれない。十分注意するんだよ。
 大谷の脳裏に今際の軍師の言葉が刺さる。軍師も言っていたではないか、三成よ今はその時はないのだと思案に暮れるも彼は総てを呑みこんだ。
「それでも動くのがわれの成すべきことであろうな」
 もう一度吐いた大きな溜息とともに大谷もまた部屋を去るのだった。



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