08
初めて見た江戸の町は鄙びた所だった。先の先まで見渡せる土地に家中はあっけに取られたに違いない。太田道灌が建てたという江戸城は老朽化しており、新たな縄張りと構成をもって立て替えられるようだ。その為、江戸城周辺は埋め立て山を削り、武家屋敷商家をはじめとする建築に忙しい。
私は江戸城内にある仮御殿の一つに入れられた。言うまでもなく家康の居室に隠れるように隣接した場所だ。外からは活気のある声が聞こえる。浜松の城を作ったことはあったけれど一からの町づくりに皆心踊り、武士も人夫も関係なく汗を流していると聞いた。家康自身も本多忠勝と共に手ずから木材を運んだそうだ。
これが只の妻であったなら、子供のようにはしゃぐ夫にしょうのない方ね、やら、気さくに民と触れ合う姿に微笑ましくまた頼もしく思いその背を追ったことだろう。総てが遠くて靄がかかっているように見える。此処は私の預かり知らぬ地なのだ。
城下が整えば今度は城に手が入る。江戸城は信じられないくらい大きくなった。室たちが住むための御殿は大きいが、その分家康の住む中心から大分離された格好だ。姦しい女たちに邪魔されたくはないんだ、と私の頬を撫でる家康が怖かった。
それでも少しだけ改善されたことがある。今までは舞良戸ばかりの部屋に押し込められるばかりだったが、今はその手前にある襖や障子越しの部屋に出ることを許されたのだ。時間は指定されたし制限もあったけれどそれでも構わなかった。
障子の隙間から、時折遊ぶ子供たちが見れたから。声をかけることは許されなかったけど本多忠勝相手に稽古をつける我が子の姿を見ることも出来た。私と家康に少しだけ似ていた。
伝え聞けば一番目の子は病を患って身罷り、三番目の子は相変わらず人質として大坂に出されたままだそうだ。付き添ってやれなかったことも、不帰の旅を見送ってやることも出来なかった無念に泪が止まらなかった。だが、知ることもなかった以前に比べれば家康様は譲歩されたと思います、などと半蔵に言われ、一人肩を震わせるしかなかった。
心に巣食う悔恨に苛まれながら子供たちを眺める日々は暫く続いた。
そして、急転直下は突如訪れた。江戸が整って暫くすると家康は豊臣に反旗を翻したのだ。家康自らが秀吉公を討ち取り、それに激怒した石田三成が西軍を編成して関東を完膚なきまでに叩き潰す算段だという。女達は慌てたが、表の男達は前々から決めていたのか淡々と再度戦仕度をしている。すでに奥州の伊達や雑賀衆とも結びついて東軍勢力が出来上がっているらしい。
男達は国替えの意趣返しが出来たと高揚するが、私は只一点だけに心乱された。大坂へやられた三番目の子はどうなったのか。可愛い可愛い私の子供の安否をどうして誰も教えてはくれないのか。千々に乱れて抉られた。
「暫くは戻れない。何かあれば才蔵の指示に従って移動してくれ」
「家康……、気をつけて」
「ああ」
「家康、家、やす……っ、あの、ね……あの子はっ……」
「大丈夫」
大丈夫、それ以外家康は答えてはくれなかった。戦の前に女子に触れてはいけないから、と私が拒んでも、家康は私を掻き抱いて離さない。時折うわ言のようにもう決めたんだと言う彼の背が震えている気がして私は何も言えなくなった。嗚呼私には母性がないんだろうか、もっともっと問い詰めるべきなのに。
翌日、出陣する家康の背を見送りながら私は思う。槍を持たなくなった家康の手は輝かしく抱く絆の深さに皆感嘆するのだという。けれど私には空いたその手に狂気を孕んだとしか思えないのだ。槍に押さえられ彼の欲が漏れ出でているようにしか見えない。其れを知るのはきっと私と極一部なのだ。
それから東軍の同盟者伊達が北にて武田と衝突したと報が流れると半蔵は私を主殿から奥御殿へ、そしてまた数日のうちにある家臣の屋敷や寺社へと転々と移動させた。何故そんなにも移動させるのか、と半蔵に侍女が問うと彼はこう言った。
「石田方からかなりの数の草が放たれている。後れを取るつもりはないが同盟者の武田の忍びまで使われたら戦に駆りだしている分此方も心許無い。本来ならば御主殿にてお護りするところだが其処が一番に狙われるだろう。故に委細を知るご家中の間を転々としている。侍女殿、姫様の御身辺なお一層ご油断召されるな」
「は、はいっ」
とは言ったものの、徳川方と石田方はまだ直接対決に至っていない。忍びを遣い、双方の本拠を忙しなく探ることは出来ても、兵となれば話は別だ。大軍の移動は行く先々で味方を増やしつつ中央へ進攻しているようで、恐らくは上方に近いところで刃を交えることになるだろう。
「これは天下分け目となりましょう」
私は表の家康を深くは知らない。私への執着と私を包み込むあの大きな体躯しか覚えていないのだから情けない話だ。彼は私の知らぬところで、とんでもなく大きな存在になっていたのだとこのとき初めて認識したのだった。
徳川所有の寺社、家臣の屋敷を転々する日々を繰り返すうちに、季節は芙蓉の花が咲き乱れる時期になっていた。侍女らは落ち着かないと言っていたが、私にとっては数少ない外に出られる貴重な時間だった。江戸に来て緩和されたものの、それまでは今目の前に生けられた花さえ愛でることが出来なかったから。
今いる場所は寺社とはいえ堀もめぐらされ砦並みの強固な造りになっている。何故寺社がと不思議に思うことはない。少し前までは寺社も大きな武装勢力であったのだから当然だ。
「……?」
ふと、跫音がしたかと思えば次いで怒号や悲鳴のような声が聞こえる。一気に慌しくなる屋敷内に侍女達も何事かと様子を探るに忙しい。だが直ぐにキンキン鍔迫り合う音と土壁が崩れるような音も聞こえて、これが半蔵らのいう不測の事態であると思い知る。
「お早く」
侍女の一人が床の間の隠し扉へと導きその先にある床板をめくれば下へと路が続いている。木枠で舗装された三叉の抜け道の一つへと足早にひっぱられる。他二つは罠であるそうだ。後ろを気にしながら侍女たちが言う。塀を破るような音が聞こえた、馬の嘶きと声も多く聞こえるし忍びだけではあるまい、恐らくどこぞの武将が兵を率いているに違いないと。
私たちは松明の灯りだけを頼りに進み、皆心細さに息を呑む。先行していたくの一が先にある戸板を開けてこちらです、というと同時に罠のあるふたつの路の方向から悲鳴が聞こえた。直ぐ先に襲撃者達が迫っている証拠だった。
戸板を登り外へ出れば堀より更に外に抜けて茂みに続いていた。小袖に付いた泥も払わず侍女があたりを見回した。
「敵はおりませぬが、馬も、馬は何処です? この場一刻も早う去らねば」
「馬はご用意出来ません。ご覧下さい。寺の周りが囲まれておりまする。あれほどの兵数ならこの辺りも直ぐに見回るでしょうし、そんなところに馬が配置されておれば直ぐに疑われます。この先の峠の下に炭小屋に馬を置いておりまする故其方に移動致します」
「なんと、半蔵様はその様なこと仰られておらなんだ。先程とて」
「そう、半蔵様は仰られておりません」
「……何を申す?」
くの一の言葉に私を含め皆怪訝そうに顔を見合わせる。そう言えば何かありましたらすぐに半蔵がお逃がしする、と言っていた彼がこの場に居ないのだ。不穏の気が心中に爆ぜ各々懐に手をやったその刹那だった。
「私の一存なのですから!」
「!! っぁ……!」」
くの一の小太刀が、侍女の首をひっ裂いたのだ。
「っひ!」
「な、……っ」
小太刀の一線は正確で、受けた侍女は何の抵抗もなく崩れ落ち、ひくひくと動く肢体が恐ろしい。
「其方いつからっ……!」
「さあ」
「お逃げをっ!!」
「っ……!」
残りの侍女達が次々と匕首を引き抜いて私と侍女の前に立ちはだかる。彼女達を置いて逃げるなんてしたくはないけれど此処に居ても足手まといになるのは自明の理。そして土地勘のない私には見事逃げおおせるなど無理に等しい。となればだ、彼女達も其れは分かっている。彼女達は私の自害の時間を稼いでいるのだ。
どこぞの木の陰でもいい、何処かの穴倉でも構わない、生き残って徳川の足枷にもなりたくなければおめおめとこの身を汚辱に塗れさすのもご免だ。この命を完全に掻っ捌く場所を求めて私は踵を返した。
「はぁっ……はぁっ」
幼い頃から館の奥で暮らしていた身体は思うようには動かない。打掛を脱ぎ捨て、少しでも身を軽くして距離を取ろうと当てなく走る。遠くで聞こえる侍女達の悲鳴や呻き声が恐怖より呵責を掻き立てて一層苦しい。やがて見つけた大きな岩に背をつけて私は忙しく袋の紐を取り払い懐剣を引き抜く。刃が光を弾き其れが終われば己が顔が映る。
――早く、早く、仕損じではならない! 公家にかぶれた家に生まれても、閉じ込められて存在を隠されても私は武家の娘なのだ!
「いざ……っ」
勢いよく振り上げ首目掛けて振り下ろした。次に見える景色なんてもう考えはしなかった。
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