07
梅雨も終わりを告げた頃、家康は朝日姫を伴って上方へと赴いた。朝日姫はそれから浜松にも、国替えとなった関東に行くこともなく、京にある聚楽第なる豪華絢爛な御殿で暮らすようになったそうだ。これは事実上徳川を従わせる為の人質としての役目を終えたということなのだろう。
その際家康は、年老いた母御が京に居られるとのこと、親子水入らずでお過ごしになるのが良い、自分は幼き頃より母親とは離れて暮らし親不孝をした、との言葉を言ったという。
それは家康が朝日姫に執着が無かった表れであると、本多正信は言った。同じ本多氏、本多作左衛門重次は、朝日姫に対する無礼により、家康から隠居を申し渡されたと聞き、ひどく驚いたが後に才蔵から委細を伝えられ、ああと眼を閉じた。あの特徴的な冷めた眼をした男は総てを被ってひっそりと去っていったのだ。
だが程無くして朝日姫が病に倒れ身罷ったとの報は私を震え上がらせた。上方に戻った後、気鬱になり薬を服用するようになったそうだ。それから外にも出なくなりどんどん衰弱していったという。その薬に何か、と考えるのは私の思い過ごしだろうか。そもそも豊臣のお膝元である聚楽第で過ごしているのだから、徳川の手が出を出すなど至難の技のはずだ。
あの人は悪い人ではなかった。寧ろ私へ女子としての同情をもって接してきた。それを屈辱とは思わないし、今川の侍女らが殺されてより数年、初めて親身になってくれた人ではなかったろうか。
侍女達の手を伝い密かに届けられた朝日姫の書状を手に私は眼を瞑る。この書状の隠し場所もまた才蔵が拵えてくれた。この息と、心と同じように小さく形を潜めて私はこの書状を大切に取っておくつもりだ。
そういえば家康は上方で親しい友人を持ったそうだ。まだ三河の小大名だった頃にも大層気の良い友人が出来たと話していた気がする。四国の長曾我部殿だったか。今回出来た友人というのは何方だろう。上方というのだから豊臣配下の武将に間違いはあるまい。
上方に経った家康が急いで戻ってきた夏のこと、家中は慌しくなった。文字通り上や下への大騒ぎで、閉ざされた私の居室にまでその物音がするほどだ。侍女達も荷を纏めたりするのに借り出されるようになり何事だろうと思っていれば、関東に国替えになったとのことだった。
関東といえば未開の地、更に本拠となる江戸は、城はあるものの老朽化した粗末なもので周りは寒村だらけということだった。ある程度の領民が付いて来ることだろうが、これを作り上げるのは一苦労だろう。
「、何を考えている」
「なにも……」
「では何故こうも気が漫ろなんだ?」
私は今宵も家康の腕の中にいる。今日はことに及ぶ気はないらしい。だが彼の太い上肢は、私の粗末な枝のような腕など軽がると持たれて手折られてしまいそうだ。すっぽりと覆われた我が身は抗うことは出来ないのだと再認識しただ広い胸に凭れるのだ。
「いいえ、……ただ」
「うん?」
「江戸へ行っても、……また、お日様のみえない部屋なの……?」
「……」
感情を露わにして言うと彼はあらぬことを考えるから私は極力力なく、感情乏しく呟いた。家康は僅かに身じろきし、私の髪を一掬い指に絡めて口付けた。
「もう少し、我慢してくれ」
「うん……」
「江戸までは長い行程になる。輿には柔らかい綿を入れて身体が痛まぬようにしよう。そうだ、久々の外だ。日に焼けぬよう被衣も良いものにしなくてはな」
「ありがとう」
「長旅だが安心してくれ。はワシが安全に移動させてやるからな」
「うん……」
家康は満足そうに目を細めると私に鼻を寄せてくる。その躯体といい此れまでの為様といい私にとっての彼は暴君と言っていい。なのに触れる手は相変わらず繊細で金細工でも扱うようだ。考えてみれば私の意志など関係なく事に及ぶものの、殴られたりしたことはない。彼は加虐に趣を見出さないのだろう。私が抗えば、また違うのかもしれないが。
国替えの命を受けて後すぐ家康は上方滞在のまま江戸での仮屋敷の手配をしていたらしく其れが出来上がったとの報告が来た。城の縄張りから町の配置はこれからであるがその差配の為に主だった家臣と共に家中は関東へ移動をはじめた。
当主たる家康もその例に漏れず第二陣で浜松を後にした。私は家康実母伝通院や彼の異父妹らの輿にまぎれるように運ばれて関東へと向かう。今まで私をひた隠しにしてきた家康だ。だからてっきりひっそりと別に連れ出されると思っていたからこれには大いに驚いた。彼の身内に私の存在が明るみになってしまうだろうにと。
家康は休憩の度に私の乗る輿を覗き、姿を見ては微笑ん去ってゆく。逃げるとでも思っているのだろうか。
一度宿とした陣屋で羽を休めていると、家康の目を掻い潜って伝通院本人が足を運んできた。頭を下げるべきだとは分かっていたが、私の気を引いたとして姑まで家康の処断の対象になるのが怖くて、柱に身を凭れたままちらりと彼女の顔を見るだけに留まった。
「すまぬのう、殿」
彼女はそう言って目を押さえて泪した。彼女もまた家康の狂気を知っているのだろう。
「あれには可哀想なことをした故……執着が総て其方へ向かっておるのじゃ」
その言葉の後はすまぬ、狂わせてしもうた、の繰り返しだった。何も応えぬまま私も思う。皆の前で狂った振りをし続けているけど、本当に狂いはじめている気がして。だって今回家中の一大事である国替えになったことも、奥御殿のこともどうでもよくて家康のことばかり考え始めている。亡くした今川の侍女達のことを考えてもその先にいるのは家康だった。
嫌、嫌、狂いたくない。いつか心も身体も解き放たれたい。狂っては先へ進めない。狂ったら、そんな女を母親とする子供たちはどうなるのか。何か、誰か私を支えて欲しい。実家もない私の心の支え……。
伝通院、彼女も家に翻弄された。縁付けられ離縁され、そしてまた幼い家康を置いて他家へ嫁いだという。母、母、子供、家康の御母上。再会出来たのは家康が今川から独立して後のことだとも。
「会いたい、」
「え」
「若子に、私、の、若子っ……」
ごめんね、弱い母で。そう望めば貴方達に何が降りかかるか分からないのに。頬を伝う泪が止まらないの。
一度出してしまった想いを堰き止める堤などない。伝通院がなお一層打ち震えた気がした。
深夜、関東までの行程を確認し家康は眉間に手をやって息を吐いた。脳裏に浮ぶのは今日の道すがら、輿を探るように覗いていた者らのことだ。忍びの類、恐らくは豊臣の手の者らだろう。
家康は国替えを申し付けられた日、心内ちを読まれぬよう必死に笑顔を振りまいた。不満はないかと聞かれれば、東海道しか知らぬ故新天地は心踊るものです、と言ってみせもした。だが去り際竹中半兵衛に言われた言葉がその仮面を打ち剥ぎ、頭から離れなかった。
『本殿の宝物も丁重に移動することだね』
作左から朝日姫が姫の座所に侵入してしまったと話を聞いて以来姫の存在が露見したと覚悟はしていた。只豊臣は自分が予想するよりもはるかに早く行動を起こしてきたのだ。病で逝った朝日が居ない今、を人質として差し出せと言われでもしたら。やはり上方は油断出来ない。あの友もまた知ったろうか。
そうして埒があかぬと新城下の配置図を手にしたとき、家康の許に来客を告げる声があった。灯明皿に乗る炎はジジ……と音を立て彼の耳を撫でる。誰かな? と聞けば生母の名を告げられた。
深夜にお見えになるのは珍しい、明日も早いのに、と思いながら招き入れると母は遠慮がちに入ってきて下座についた。上座に席を譲ろうとすると母はいつも制止する。この母はどのような時も一歩引いて家康を見守る。それは幼き日に離れた後ろめたさから来るものなのだろうと家康にも想像が付いていた。寂しくはあったが離れても愛してくれたことは知っている。恨みなどしてはいないのに。
それで如何なさいました? と問えば伝通院は殊更言いづらそうに口を開く。口から発せられる文言は決して家康の望むものではなかった。