06


 降り注ぐ雨の季節、辺りを包む湿気は悉く楮紙を攻撃する。竹中半兵衛はこの季節が苦手だった。大切な文書類が一気に痛むからだ。晴耕雨読などという言葉があるが、この時期こそ自分は書物を仕舞っておきたい心情に駆られる。尤も、田畑を耕す地侍などが聞いたらさぞ鼻白むことだろう。
 半兵衛は長く待ち続けた文を捲る。先日、浜松に派遣した忍びが悉く討ち取られたという話を別の間者から知らされたときには、朝日姫からの情報など得ることは出来ないと半ば諦めたが、今回届いた文は愕くほどの情報を携えていた。これならばことの為しようによっては城の間取り図、支城の配置図等よりはるかに有益といえた。まるで徳川の首根っこと掴んだ気分だ。
「ふふ、驚いた。まさかねえ……」
 書かれていた内容は家臣らの圧倒的信頼を受け、日の光のように眩しい徳川家康とは程遠い一面だ。頬を撫でながら半兵衛は考える。使えそうに見えてなかなか手強い相手なのではなかろうかと。
 雨が齎す湿気は人が通ればキイと鳴る広縁の音さえ消していく。雨音だけが響き、ふと見れば庭の紫陽花が滴を弾く様が美しい。
「そんな紫陽花にも毒があるんだから武将に毒の一つもあって当然だね」
「風流よな」
「ああ」
 雨音に遮られるまま訪れた包帯の男の言葉に半兵衛は格段驚く様子もない。男は輿を宙に浮かせヒヒと笑って半兵衛の傍に降りた。
「呼び立ててすまないね」
「なに、これも仕事なれば」
「勤勉勤勉」
「機嫌が良いな、何か収穫があったと見える」
「まあね」
 朝日君からだよ、と半兵衛は書状を男に手渡した。男の名は大谷吉継、通称は官位従五位下、刑部少輔により刑部と呼ばれている。尤も半兵衛自身は彼の名を呼ぶのが常だが。
 刑部は書状を読み進めると眉をピクリと動かし目もたまに丸くなる。彼だけでなくこの書状を読んだなら皆それなりの反応を示すだろう。
「やれ賢人よ、我はとても驚きに満ちている」
「だろうね」
「それで軍師は如何したい?」
「さてどうすべきかな。家康君にこんな一面があるのは僕も驚きだけど、其れが豊臣に対する失策ではないからね」
「朝日姫に対する処遇は」
「この書状では本多作左衛門の暴走だと書いてあるしこれに対して家康君は対処しているよ。まあ、そうじゃなくても女子の書状を証拠に持ち出して罰するなんてことしたら豊臣の程度を疑われるよ」
「だが、徳川に危険な一面があることは分かった。賢人よ、これを捨て置けば豊臣の為にならずや」
「そうだねぇ……、そういう子は上方から遠ざけてしまうのが吉と思うんだ。さしあたって関東辺りとかね」
「ならば罰ではなく、奥州に目を光らせる為などと適当な理由付けをすればよい」
「大人しく聞くかな」
「なに、処罰と感じても言えはすまい。御殿に柵はどうみても徳川方の失策。其れを豊臣が表向き処断しないと言うておるのだから温情として受けねばなるまいよ」
「怖い怖い」
「よくも言う。賢人はその先を考えているであろう? 国替え、しかも未開の関東となれば領国経営に専念せざるを得ない。拓かれた東海道を労せず奪い其処を拠点に豊臣の勢力を伸ばす魂胆であろう?」
「やれやれお見通しか」
「我が見ることなどよりはるか先を見ておるくせに」
 そう言うと刑部は目を細め、半兵衛もまた口の端を少しばかり吊り上げた。
「この時期に国替えを言い付けれるのは最高だね。そうだ、家康君が国替えとなれば当然その宝も持ち出すんだろうね。新しい城の間取り図と徳川の至宝の在り処、念入りに探らせておくべきかな」
「ふむ、異論はない」
「頼むよ」
「あい分かった、が」
「うん?」
「賢人よ、その件の宝は助け出さぬのか。朝日姫からは助けて欲しいと懇願されておるのであろう?」
「おや、大谷君にはそんな優しさがあったのかい?」
「なに、ほんの興味、キョウミ」
 その言葉に軽く頷いた半兵衛はまた書状に目をやって少し笑った。
「その娘には悪いけどいざというときの一手として残しておくよ。黙っていても家康君はそんな大切な宝を失くしたり傷付けたりしないだろう?」
「そうであろうな」
「まあ、姫の存在を叩きつけて人質に出さすという手もあるんだけど、国替えの処置をしたばかりの徳川に、すぐ最大級の刺激を与えたら本当に反旗を翻されかねないよ」
「ヒヒッ、軍師にしては弱気よ。勝てぬとでも?」
「意地悪だね、大谷君は。――豊臣が勝つよ。ただ回避策があるのに徒に戦端を開いて時間と兵の浪費をするのは僕の好みじゃないってことさ」
 半兵衛は立ち上がり障子の傍に立った。視線は中庭の紫陽花と透渡殿を通り越し、その先の一室で政務に励む青年へと向かっていた。
「……三成君は今日も真面目に仕事をしてるね」
「左様、太閤に尽くす事こそあれの悦び故」
「そう、家康君は秀吉と豊臣しか見えていなかった三成君がはじめて外部で得た友人だからね。簡単に排除するべきではないと思うんだ。裏があろうがそれはそれでいいよ。寧ろこの時勢武将は裏がなければやっていけない。三成君は真っ直ぐ過ぎるからね。刺激されてその性格に変化が出ればいいよ」
「親心よな」
「かもね。まあ、その娘のことは君と僕の胸の内だけに留めておこう」
「あい分かった。朝日姫にはなんと?」
「そうだね、――了解した。時期を待て、これだけで」
「ふむ」
「あと、家康君には何もしないでいいけど柵をめぐらせた本多作左衛門重次だっけ、彼には表面上処罰を求めないと駄目だろうね」
「心得た。浜松にはその様に書状をしたためよう」
「じゃあ僕は秀吉にこのことを伝えてくるよ」
 半兵衛はそのまま障子の外へと一歩足を踏み出す。が、ふと気付いたように大谷吉継を見た。
「その書状何かの為に取っておくのが吉だね。君に任せるよ」
「やれ三成に見つからぬようにせねばな」
「そうそう。じゃあね」
 配下の将が、さてどこに仕舞うか、と頭を捻る姿を後にして半兵衛は広縁を進む。きっと友はこの内容に、朝日は大丈夫なのか、とは聞かないだろう。分かったと言い、それきり総て自分に任せるはずだ。朝日姫は自分の一番ではない。だが、秀吉の信頼には応えたいと思う。
 良い時期に理由をつけて彼女を上方へ戻してやろう。そう考える半兵衛だった。



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