05


  朝日らが作左の誘導で自らの御殿に戻れば直ぐに阿茶局が姿を現した。彼女は奥御殿と側室らの統括をしており当然、あの寝所の奥に居た姫のことも熟知しているはずだ。挨拶もそこそこに、阿茶局とその後ろに控えた作左が難しい顔をして話し出した。
 それは新しい夫の及びも付かぬような別の顔と、必死に朝日らの命乞いをする佳人の哀れな身の上だった。侍女は心底怯えたようだったが朝日には強い同情しか起こらなかった。阿茶局はそんな朝日の心情を察したのか釘を刺すように言うのだ。
「何も知らぬとお耳を塞がれなされませ。姫様はやはり亡くなった御方だとお思い下さい。……以前、姫様への嫉妬に駆られた側室がおりました。何故家康様に愛してもらえないのか、何故恋敵の子供を育てなければならぬのか、そう憤っておったのです。その娘は言うてはならぬことを言い、してはならぬことを致しました」
「何をした?」
「家康様に自分を見て欲しいと懇願し、警備が手薄になった時間を狙い姫様の御座所に侵入致しました。そして酷い言葉を姫様に吐いたといいます」
「……その者どうなった?」
「翌朝には冷たくなっておりました」
 朝日姫らはますます息を呑み、阿茶局は目を閉じた。彼女の中にも承服しきれないものがあるのかもしれない。
姫様のことに触れなければ、家康様は比類なきご主君、惚れ惚れする武将であられます。其れにさえ目を瞑って頂ければ、たとえ前のご夫君を想われようと家康様は大切に遇して下さり穏やかな一生を送ることが出来ましょう」
「……」
「朝日姫様、これは何ら嫌味でも莫迦にしておる訳でもございません。一つに目を瞑れば他は総て穏便に収まる、ただ其れのみのこと」
 阿茶局が其処で言葉を区切ると、今度は一陣風が吹いだ。瞬きした次の瞬間には、先程朝日姫の首に小太刀を向けた半蔵が座っており胆を抜かれた。侍女は殊更警戒し睨み付けたが、其れを意に介した様子もなく、今度は作左が口を開いた。
「如何であった」
「潜みましたる豊臣の忍び、総て始末がつきました」
「そうか」
「なっ……!」
「乱世の常とはいえ感心致しませぬな。ですが消すもまた乱世の行い。これに関して双方言葉を荒げても詮方なきことと存ずる」
「よくも……」
「――さて豊臣の間者から漏れるのは防げた、が次は別のことよ」
「承知。家康様の忍びは我らのみに在らず。是ほどの大事なれば程無く家康様のお耳に入ったと考えるのが妥当に御座いましょう」
「ふむ、……朝日姫様」
「何でしょう」
「この作左に総てお任せ頂きたい。この作左の一存にてこれから無礼を致します。咎は総て作左が受けますが朝日姫様の御命を護るものと御心得になってお受け頂きたい」
「……分かりました」
 何をする気だろう、そう思うもいざという時身を護るはずの忍び衆を始末されたとあってはもう自分の命を託す相手は作左しか居ない。
「これより朝日姫様の御殿に柵をめぐらせる」
「な、その様なことをして豊臣には何と申される御所存です!」
「侍女殿、豊臣にはこう報告するがよい。豊臣との同盟に不服なる本多作左衛門乱心により朝日姫を御殿に監禁、家康様は其れを知り急ぎ取り払わせた、と。」
「何、を」
「――先程申した通り家康様には姫様の御座所に入られたこと直ぐに伝わると存ずる。したが豊臣の姫を殺すなどという事になっては徳川の家にどれほどの不幸が振るか分からぬ故、作左の一存で外部と接触できないよう監禁申し上げたとご連絡致す。家康様が戻られたら、豊臣の手前柵をはずすよう申されましょう」
 其処まで言って作左は居住まいを正した。その一挙手一投足に二人は只呑まれるばかりだ。
「正直に申す。此処で殺してしまっても生来虚弱な朝日姫様におかれては病死が通りましょうな。がしかし、それを文字通り暗殺といわれ豊臣に徳川攻めの口実など作らせたくはありません」
「……そうすることが、双方の為に良いという訳ね」
「左様」
「分かりました。貴方の言葉に従いましょう」
「はっ」
 本多作左衛門重次は不遜だった。只最後の一礼は彼なりの真摯な態度だと朝日には思えたのだった。

 日が暮れ、灯明皿には菜種油が注がれた。作左の言葉通り、御殿の周りには着々と柵が築かれその音がまだ聞こえる。
 ぼう、と灯りの燈る御殿の中で朝日は考える。知ってしまった家康の狂気、それに晒されるがままの前妻姫。否、前妻などという言葉はこの場合相応しくないのかもしれない。家康も徳川家中の主だった者らは今でも正室は姫だと思っていることだろう。それに関して朝日は格段嫉妬や憤りは持ち合わせなかった。
 あまりにも姫の境遇が気の毒すぎた。だから同情しか起こらなかったのだ。
 あの女性にとって、この家中に味方は一人も居ないのだ。あの明朗快活な阿茶局でさえ姫のことには目を瞑れという。其れは彼女の家康への情愛からなのか、家臣としての忠義からなのか、朝日の知るところではない。
 だが、はっきり分かることがある。阿茶局もまた家康の狂気から目を逸らしているということ、姫はその人身御供なのだということだ。
 朝日の目の前には擦られた墨と、整えられた紙と筆が鎮座している。手足である忍びを殺された自分には最早彼女を直接助け出すことなの出来ない。なら如何するか、其れは外部に助けを求めることだ。戸惑いのまま筆を手にして更に考える。
 半兵衛に助けを求めたとて彼女に同情することは無きに等しいだろう。助けた次は人質か手駒がオチだ。でも何も行動を起こさなければあの女性は一生あそこで生きていくことになる。幾ら愛を囁かれたとてその身に情を受けたとて一方的な処置はあの女性の権利を奪うものでしかないのだ。
 女子は政にも戦にも翻弄される。だからこそ、心通い合い夫婦仲良く穏やかな時を過ごせることこそ女子の悦びではないだろうか。今はもう行方の分からぬ、死んだとさえ言われる前夫と我が身、禄が多かった訳でもないが幸せだった。満ち足りていた。
 だから想う。只々逃がしてやりたいと。
 朝日は意を決して筆を走らせる。一つには私は貴方を明るい場所に出してあげたい、と書いて侍女に託した。そうしてもう一つはずっと返事を待っている軍師の密使へ、一理の望みを繋いで。



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