04


 家康の再婚、と私が言ってしまってもいいのか微妙なところだが其れが終わって一月と半近く経った頃、彼はもういいだろう、と久々に私の居室で過ごした。
 誰かが言っていた、家康様は穏やかな日の光だと。私は其れをまやかしだと思っている。触れる手は確かに優しい、だが、一度熱が篭れば内まで溶かされそうになる程声は枯れ、穿たれてこの身は焼かれていくのだ。
 これでもかと家康の匂いに包まれた我が身を引きずり、私は脇息に凭れる。湯浴みもしたはずなのに未だ彼が傍にいるようなこの感覚は何なのか。もう今日は考えが纏まりそうにない。
 少しだけ身を起こして、私は格子窓を見る。相変わらず僅かに漏れる外界の光。ほんの少しでいい、外に出なくてもいい、この舞良戸を取り払って日の光を浴びて咲き誇る花を見たい。叶わぬ願いだと分かっていても。
「なりませぬ。こちらはご城主様の御主殿にございます!」
 今日も今日とて無いもの強請りに暮れていれば、私付きの侍女の声が聞こえた。いつも家康の印象に残らぬよう皆同じように慎ましく小さな声を喋る彼女らの珍しく張り上げた声に私は反射的に出入口の方に目をやった。
 侍女に対して反論する言葉は随分高圧的で、其方は家康様付きの侍女か、ならば此方の御方が何方か分かるであろう! と怯む様子もない。直ぐに出入口付近、ひょっとしたら家康の寝所の外かもしれないが、其処は慌しくなり侍女のみならず辺りを警護する兵の足音も聞こえた。けれど制止するには憚れる相手なのか無理矢理に捕縛するということはしないらしく跫音は徐々に近づいてくる。
「ああっなりませぬっ」
 との声がして、あ、と思った瞬間には出入口の戸は勢いよく開けられていた。家康寝所外の光の入る障子はかなり先だけど、其れそれさえ私には眩しく美しかった。
 半ば呆然と眺めていると、少し年配の侍女らしき女が入ってきて、床の間の先にこのような、などと口走った。そして遅れて豪奢な打掛を着た女性も現れ、私の顔を不思議そうに眺め私付きの侍女に、此方は何方じゃ? と問うた。
 侍女達は声も出せず頬に手を当てて只々震え、なんということを、なんということをと口走るのが精一杯だ。その態度にはじめは憤慨していた見知らぬ侍女もその異常さに眉を顰め、私と私付きの侍女を交互に見る。不躾ともいえたが、私にはそんなことどうでもよかった。
 彼女らの後ろに迫る影が私にとっては恐怖だったからだ。
「やめてっ!」
 真っ青になった私の声に豪奢な打掛を着た女性がびくりとなった。
「半蔵っ!!」
 彼女の後ろには音も無く半蔵が立ち、その手にはすでに引き抜かれた小太刀がある。あ、と見知らぬ侍女が声を上げ防ごうとするも、その侍女も別の忍びに取り押さえられていた。
「なりませぬ。無断で此方に入る者、姫様の姿を見た者、総て殺せと承っております」
「なら知らぬと目を瞑って!」
 疲労に軋む身体に鞭打って立ち上がり半蔵に縋った。脳裏に浮ぶのは以前此処へ侵入した者のことだ。あれも確か家康の側室であったと思う。顔も分からぬ私への嫉妬に駆られ制止も聞かず此処へ踏み入り私を罵倒したのだ。
 突然取り押さえられたことと、私の懇願を見て姫君らしい人は固まり、その侍女はどうにか拘束を剥がそうと足掻く。
「忍び、この痴れ者! この御方は家康様の御正室にあるぞ!!」
「御正室は姫様、其方様は豊臣からの人質にござろう」
「なっ……! 其れが徳川の真意か!!」
 ”御正室”この単語を聞いて私はその姫君を見た。少ない知識を繋ぎ合わせれば、ああ、彼女が豊臣から嫁いできたという朝日姫かと合点がいく。第一印象は悪意のある人には見えない、その一点だけだった。
「貴女だめっ、此処に居たら殺されるわ! 全部に目を瞑って、此処に入ったことも、ここで見たものも忘れて!」
「……今、なんと? 、姫……?」
 彼女の目は見る見るうちに丸くなった。姫の名がどういう位置付けであるか、徳川に嫁いできたのならそれが最初の正室の名であることぐらい直ぐに分かるだろう。顔の半分が兜巾の中に隠れる半蔵の気色が変わるのが分かって私は更に声を上げた。
「半蔵だめっ! 家康には言わないでっ!」
「僭越なれどお聞き入れすること叶いません。この御方は豊臣の女子。駄目だと言い付けられた家康様の御主殿に入るという行為をなさる方、それは今後もこのようなことを仕出かし、ひいては徳川の機密を狙うということ」
「――っ! 無礼なっ!!」
「好奇心の強い御方は徳川の為になり申さぬ」
「半蔵、半蔵後生だからこれ以上っ……」
 この女性が家康の継室であろうが無かろうが、私には私を見たことで殺されるなんてことになるのが耐えられなかった。
姫様に落ち度があった訳ではございません。お気になさいますな。侵入を許してしまったのは我らが咎」
 と半蔵は抑揚のない声で続け引き下がる気配がない。もういよいよどうしようもないのかという時、心の臓が縮まる心持ちになれば、新たな足音がして侍女たちが頭を下げる姿が見え、私は息を呑んだ。
「作左にござる」
「……っ」
 本格的にまずいと思った。作左は私に懐疑的だから。いつもの如く愛想の無い顔が余計に絶望感を煽るのだ。作左は表情を変えることなく室内を見回し少し眉を吊り上げた。
「……これはまた大事にございますな」
「作左っ! 作左黙っていて! でなければこの人、殺されてしまうわ!!」
「……ようございました。朝日姫様に露見したのが本日であったことが不幸中の幸いにござった」
「え……?」
「本日、家康様は鷹狩りに出ておられる。直ぐに戻っては来られますまい。しかし半蔵らとは違う別の忍びに監視する命でも出しておられたら、ということも考えられまする。朝日姫様、まずは御移動を。其方でこの作左が委細総てお話致しましょう程に。ですがお知りになった後、これを家康様へ抗議なさるか、豊臣に話を流されるか、その後の身の振りようによっては朝日姫様の御命にも関わりましょう」
「た、太閤の血縁を如何にかするとでも!!」
「此処は浜松、上方ではござらぬ」
「――っ!」
 作左の言葉に、抗議した侍女も朝日も同時に息を呑んだ。作左は、姫様御身辺お騒がせ致し申した、と一礼すると有無を言わさぬ雰囲気で二人を誘ってゆく。なんとも言えない朝日と視線がかち合ったが彼女は何も言葉を交わすことなくそのまま背を向けた。嗚呼、彼女はどうなってしまうのだろう。
 意図せずして抜けてゆく力に私は抗えず床に膝を付く。半蔵はいつの間にか消えていて、この部屋の住人である私たちは取り残されたのだった。



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