03


 乱世故に各国の情勢というのは日々変わっていく。惨劇のあの日に聞かされた今川滅亡の報から未だ喪失感の消えぬ私に齎されたのは今川を見限って付き従った織田が謀反によって滅び、豊臣が台頭しているという話だった。織田から距離を置き、暫く様子を見ていた徳川であったが、其れもとうとう終わるという。近々豊臣の縁戚の娘が家康の継室として嫁いでくるらしい。
 知らせてきたのは本多作左衛門重次だった。姫様にはどうぞお気を落とされぬようにと続ける顔は相変わらず愛想が無い。自分が気を落とす? と私は心の中で反芻し、ああそうかと思い至る。自分は家康の正室だった。謂わば豊臣の姫が嫁いでくるということは自分の立場を奪われるということなのだ。もう死んだものとされていたし正室の役割なんて一つもしていないからそんなもの何処か縁遠く感じていた。
 唯一つ思うのは、これで家康の執着も減るだろうか。此処に来なくなるだろうかということだった。――来なくなったらどうなるのだろう? 捨てられるのかな、殺されるのかな?
「私が要らなくなったら、なるべく痛くないように殺して頂戴」
 何れにせよ私に決定権など無に等しい。憂き節繁き川竹の流れの身、抱かれるだけの自分は遊女と何ら変わらない。そう応えて、作左の眉を僅かに上げることに成功したのだった。
 満開の桜が散り葉桜となって久しくなった頃、浜松の城内は騒がしくなった。件の姫が豊臣から嫁いできたのだという。家康は顔は見せるが一月程泊まりに来ず、何もすることのない私は香道具をよく手に取っていた。

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 煌びやかな上方と違い、浜松は質実剛健といった言葉が相応しかった。朝日の目は絢爛な装飾に慣れてはいたが、心落ち着くのは質素な建物だった。格段の扱いなど期待していなかったがそれなりの御殿を提供され彼女は今此処に居る。もっと板張りでも構わないのに、との言葉を呑んで。
 彼女にとって徳川家康に嫁ぐということは気苦労の連続だった。すでに夫を持つ身であったのに豊臣唯一の妙齢の血縁という事で無理矢理離縁させられ、夫は行方知れず。心の整理のつかぬまま敵地である徳川に嫁げば、遠路はるばる嫁いできたから疲れているだろうと一度として手を出さない新しい夫家康、余所余所しく何か含みのある家臣たち、そして何かあれば逐一知らせるようにと何度も文を遣す豊臣家軍師竹中半兵衛。
 どこぞへ嫁いでいた女を正室に宛がわれては徳川方とて穏やかなはずもない。まして百姓上がりの成り上がり者を何代も続く武家の家へと受け入れるのだから当然だ。警戒されているのは尤もであるし、そもそも武家育ちではない自分では奥御殿に居ても誰かの手を借りなければ正室の仕事をこなすことが出来ない。竹中半兵衛などは其れこそ内実を掴んで来いとでも言いたいのだろうが、奥御殿の仕事は阿茶局なる側室が握り自分の出る幕も無い。
 そういえばと思い当たるのは側室達の表情だった。阿茶局こそは明朗で話しやすい人柄であったが他の側室達の自分を見る目は何となしに奇異であった。上方に居て多数の武家子女を見ていたからこそ分かる奥御殿の確執、正室に向ける羨望と嫉妬の視線、側室同士の反目、そのどれもが無いのだ。
 側室達はそれぞれ子を育てながら、女子同士身を寄せ合い暮らしているように感じられた。そして自分に向ける視線は羨望なのではなく、――気の毒に。とでも言うかのような哀れみと不安を含んだものだった。
 そうなのだ、彼女達は確実に誰かを恐れている。誰を、と考えて朝日は首を振るった。その先を想像してもいい気がしなかったからだ。ただ一つ分かることは自分の思うまま物事が進むことなく日が過ぎていくということだ。
 嗚呼自分は何の為に嫁いで来たのだ。思い出されるのは前夫との穏やかな日々だ。気鬱は増し、食も喉を通らない。
「何もしてないのに疲れるなんて」
 上方に残してきた母はなんと言うだろう。怠け者じゃとでも頭を突くだろうか。先頃もまた半兵衛よりの書状が来た。徳川の気風はどうだ、家康君に変わったことは? 徳川の領内はどうなっている? 分かるはずもない。自分はずっとこの御殿で庭を眺めているのだから。半兵衛殿は何を焦り追い立てられているのだろう。嫁いで一月、書状の数はすでに十を越えようとしている。
「朝日様」
「どうしたの?」
 半ば嫌悪をこめて書状を眺めていると、広縁から侍女の声がする。朝日が応えると侍女はいつに無く忙しく中に入り近づいて息を呑むように耳打ちしてきた。
「実は主殿の家康様の御寝所の奥に不自然な部屋があるそうです。我らの忍びが見付けました。何故か厳重に徳川の忍びが配置されているとのこと」
「家康様の御寝所が近いからではないの?」
「其れにしては数が多いのです」
「それに奥に部屋があったって何らおかしいことは無いわ。いざという時の為に家臣が控えている場所とも考えられるでしょう?」
「確かにそうではございますが、しかし其れならば家康様が表で御政務にあたられるときにまで忍びを配置せずともよいはずでございます」
「……」
「家康様ご自身が隠れるためかもしれません。中は綺麗に清められていて時折豪奢なものがその中へ運ばれるのだとか」
「そう、ならば金蔵代わりに使っているのではなくて? それにいざという時隠れる場所は必要でしょう」
「そうではございますが……」
「貴女が半兵衛殿から何か言い付かっているのは薄々知っているわ。もう奥御殿も固まった家中のことを彼是詮索しなくてもいいじゃない」
「そうは参りません。豊臣は徳川に対して警戒を解いておりません」
「そんなもの調べて、暗殺でもするつもり?」
「――なんにせよ朝日様、これは何かございます。家康様が仰ったではありませんか。主殿には来てはならぬと。私おかしく思っておったのです。女子は言われずとも主殿に足を運ぶことなどほぼありません。其れを念押しなさる、これはどういうことかと」
「……そうね」
「寧ろ何も無くても部屋の存在は知らせるべきです。あちらもお隠しになるのは豊臣に対して何か含むところがおありになる証拠でございましょう。ならば此方も御殿の隅々までの正確な配置は知らせておかねばなりません。何かの為にも」
 朝日は大きく息を吐いて首を振った。この侍女は一度考えが凝り固まるとそう簡単に意見を変えないのを知っている。
「私をまた後家にしたいの?」
「……朝日様は豊臣の御縁戚。その様な物差しでお考えを縮められてはなりません」
「よくも言うわ……」
 豊臣の縁戚という名ばかりの手駒、其れが今の朝日で、前夫も多分そうだ。侍女の後ろにいるであろう軍師の顔を思い浮かべて只々辟易した。しかしながら、少しだけでもその振りをしなくてはならないのだろうなと、半ば諦念して頷いた。
「分かったわ。なら家康様が居ない日にでも見ましょう。内々にね。其れまでは大人しくして、庶事も徳川のやり方に従うようにしておいて」
「畏まりましてございます」
十日程後、朝日は家康の寝所奥にある部屋なるものの秘密を知ることになるのだが、それは前夫の温かな愛情しか知らなかった彼女には到底受け入れがたいものだった。



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