02


 言われるがまま築山御殿を後にしてしまった忌まわしいあの日から数年の時を経た。私は家康の意のまま主殿の奥に閉じ込められている。抵抗なんて無駄だった。新たに付けられた三河の侍女達は、正室が何故表向き殺されたことになって、此処に閉じ込められているのか図りかねていたようだが、尊敬する家康の正室であればと実に甲斐甲斐しく世話をしてくれた。そうすれば思い出すのは今川の侍女達のこと、私は其れを口に出すことも出来ず、夜になれば家康に抱かれ、ただ流されるままの時を過ごしていた。
 家康の執着ぶりは見境がなかった。
 好きな花があって眺めていれば傍に来て綺麗だと一緒に褒めた。だけど翌日には全部刈り取られていて、私が呆然としているとくの一の一人が家康が刈らせたのだと告げてきた。何故、と疑問が口を吐く前に、胸元で両手をぎゅっと握った侍女の一人が消え入りそうな声で語ってくれた。庭師に刈らせながら家康様は仰いました、姫様の気持ちを奪うものが許せぬ、と、お花を忌々しげに握り潰されるお顔はまるで別人のようでございました、と。
 聞きながら私は四肢の力が抜け落ちて視界に映る手は震えが止まらなかった。花すら、花にすら私は目をやってはならぬのだという現実と、否、花ならまだいい、これがもし人であったならという恐怖が心の臓を鷲掴みにする。
 私は知っている。その恐怖をすでにその身に受けた者らが居ることを。
 私は言った。
「貴女たちにも、屋根裏にいる忍びにも固く言い含めるわ。私はこれから貴女たちの名前も忘れる。必要以上に口は開かないし、貴女たちを物のような目で見るわ。だから貴女たちも私に優しくしないで、甲斐甲斐しくしないで、愛想よくしないで。それから忍びたちはどうか、これを家康に報告しないで、目を瞑って、お願い……っ」
姫様……っ」
 頭を垂れる私に侍女達が支えようと進み出て、音もなく忍びの一人が降りてきて告げる。
「徳川家家臣服部半蔵正成。伊賀同心を纏めており申す。姫様のお言葉、委細承知」
「頼みます」
 その日以来、私はその言葉を徹底した。あまりに急だと家康が不審がると思ったから徐々に。だがその間にも爪弾いていた箏も無くなり、鼓も消えた。障子は舞良戸に変わり外が分からなくなった。
 子も何人か産んだが其れさえも取り上げられた。一人目、二人目は耐えたが三人目の時は流石にもうこれ以上取り上げないでくれと追いすがった。家康はいつも通り穏やかなままどうした? と言い、ややあって得心したように頷いた。そんなにお前の心を占めるのならこの子は捨ててしまおうか、と続ける彼の顔は涼やかなままだったが、奥に宿る冷たい光と腕に抱かれた我が子を思えば私はその手を止めるしかなかった。
 子供達は其々名ばかりの側室らの手で育てられているという。私が取り上げないでくれと願った三番目の子は、とあるところに養子という名の人質に出されるのだと聞いた。何人産もうが、何年耐えようが私に対する家康の処遇は変わることは無いのだ。
 其れからもまた産んだと思う。そう、そうだ子は全部で四人。産んでは奪われ、そして抱かれ、何もない部屋で過ごす繰り返しに私は少しずつ殺がれていく。
 子の数さえおぼろげになる私を繋ぎとめるのは、子を産むたび密かに手渡された臍の緒だった。家康に近しい家臣が半蔵や彼の麾下のくの一を介して届けたのだという。隠し場所もばれないよう半蔵の手によって柱の死角に作られた。組み物の為の”ほぞ”のような穴を作りそこに臍の緒の木箱を入れ柱と同色の薄木で隠すという方法だ。一箇所に入れていたらばれたときに全部取り上げられるだろう。だから部屋の柱四箇所に作られていた。
 これらは決して私への同情で行われたものではない。彼らの忠義は総じて家康にある。彼は私への執着以外は完璧な主君だったから。私が壊れて、家康も狂うことを恐れている。その証拠に死を選ぼうとすれば何度も止められた。私が死すことで自分達に降りかかる咎よりも、家康の破滅が彼らには受け入れがたいのだ。
 そう、味方なんて誰も居ない。侍女達はひょっとしたら恐怖の中にも僅かな同情をまだ持っているかもしれない。今はもう、確かめる術はないけれど。
「ごめんね……」
 ――今日も私は三番目の子供を想い日がな臍の緒を眺めていた。


「ああ、は今日も綺麗だな。白い肌に打掛が良く映える!」
 政務が終わり家臣らとの談笑も終われば当然家康は主殿のへ戻る。主殿の奥には家康の寝所があり、その先に二間程私の居室がある。其処は内装こそは豪奢なものの、出格子は小さく障子も竹格子が廻らされているからもう庭を眺めることも出来ない。出入口もまた閂に鍵が掛けられている有様だ。侍女や家康が其処から出入りするのを私はいつも他人事として見ている。
 家康は手に何かを抱えて上機嫌に近づいてきた。小さな声でおかえりなさい、というとますます機嫌良く、ああと返してきた。正直に言えばもう家康が怖くて仕方がない。だからいつも反応は最低限だ。ほんの少しでも反応すれば家康は其れで満足するし、私の余計な言動で何かがなくなったり傷つくのも嫌だ。そして私ももう泣くことに疲れた。
「香道具……?」
「お前に手慰みがないと流石に可哀想だと思ってな。どうだ、珍しい細工だろう?」
「ありがとう、大切にするわ」
 ほんの少し家康が眉を顰めた気がして私は香掬を手にして下を向いた。どう言えば家康は満足なんだろう?
「だって、家康が選んでくれたんでしょう?」
、ああ、そうだよ。ワシが選んだ」
 その言葉に漸く彼の気配が穏やかになった。本当に珍しいこともあるものだ。私から取り上げるしかしなかった家康なのに。彼に取り上げられなかったものといえば何だろう。ああ、衣裳は取り上げられるどころか増えた。彼は私を着飾らせることが好きだから。

 一頻り道具を見た後、侍女にいい場所に片付けておいて、と添えた。侍女は香道具を手にして静々と下がろうとした、その時だった。
 かしゃん、と耳障りな音がして音に引かれるまま見遣れば聞香炉が転がっていた。手にした侍女の手が滑りうっかり落としてしまったのだ。不味いことに香炉の端が欠けてしまっている。しまったと思った。この侍女とて家康の狂気を目の当たりにしているのだから手が震えぬはずがないのだ。真っ青になり申し訳ありませんっ! と畳に額を擦り付ける侍女を見ながら私はどう庇おうと息を呑む。家康が身動ぐ気配がして、考えの纏まらぬまま咄嗟に口を吐いた。
「いいわ」
「……、ひょっとして気に入らなかったのか?」
「いいえ、でも悲しくないの」
「え?」
「だってまた家康が選んでくれるんでしょう?」
「――!」
「お手間を掛けてごめんなさい。また選んでね? お昼は家康だと思ってこれを傍に置いておくから」
 一か八かの科白だった。目を見開く家康に気付かない振りをして私は他の香道具を手にしながら、欠けた聞香炉の前で固まる侍女に言った。
「其れ、直るかしら。直るなら直してまた持ってきて? ふふ、家康が選んでくれたものが二つになるから得をしたわ」
 畏まりましたと更に頭を擦り付ける侍女を、行って、と極力興味のない素振りで下がらせ、私は家康の手を取った。
「楽しみ、次はどんな柄かしら」
 そう言うと家康は私を横抱きに抱えた。灯明の揺らめく光に照らされる家康の顔は楽しそうにしているようにも、腹に一物あるようにも見えた。彼は口を寄せてきて良く通るあの声で囁くのだ。
はそんなに香が好きだったのか?」
「いいえ、でも家康が選んでくれたから……」
 あまり興味を示せばまた奪われる、そんな経験が過ぎって私の声は小さく目も逸らした。その仕草が羞恥から来るものだと取ってくれたかは分からないが、彼の口からは満足気な息が漏れ、顔を逸らしたことにより顕わになった私の耳朶に吸い付いてきた。私に触れる彼はいつも素絹に触れるが如く繊細に扱い、あの恐ろしい家康と似ても似つかない。抵抗することも出来ず、戸惑いと惑乱の中へ放り込まれるのだ。

 褥へと誘われて縫い付けられているのはこの身体か、それとも心か。



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