01


 小さな出格子から覗く光が今が昼なのだと教えてくれる。零れ落ちる光から浮き彫りになる塵芥さえ今の私には愛おしい。陽はもう私には眩し過ぎて、恐ろしくて、時として切なくなる。けどそれに舞う塵芥は少しだけ私と同類に見えるから。手を差し出してもほんの少しの風にも翻弄されるそれは大人しく私の掌に居付いてはくれない。其れさえも思い通りにならないのが現実だ。
 私は気怠い身体を起こしずり落ちかける打掛を直して室内を眺めた。綺麗に掃き清められた室内に生活を感じさせるものはない。昔は沢山あったのだ。実家から持ってきた婚礼調度も、好きな文書も、奏でることが趣味だった箏も。でも今は其れに触れることも興味を持つこともかなわない。私が興味を持たねばならないのは只一つだけなのだから。
「ああ……」
 嗚呼、どうしてこうなってしまったのか。私はあのままでよかったのに。青臭くても、実直で懸命で、皆に慕われて。雛者なんて言われても、俚俗と誹られても、そんなことどうでもよかった。そのままの貴方が好きだったのに。

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 私は駿河の名門今川家の一門の一つ関口家の娘として生まれた。父のみならず母も一門の中枢の生まれで何不自由なく暮らしてきた。白塗りの義元様は武士(もののふ)とは言い難く、何を考えてるか分からなかったけど、いつもそれなりに気を遣って下さって悪い印象のない御方だった。
 そんな義元様が持ってきたのが三河の徳川家康との縁談だった。当時の三河は弱くて駿河に臣従していたけれど家康はなかなか見どころのある少年だと、父も賛成し私たちは夫婦になった。
 三河は田舎で煌びやかな物とは縁遠くて、家康も少し三河訛りもあった。義元様は若干あれだったが、家康は素朴過ぎる印象が強かった。一歳だけ年長であるを傘にきて今思えば彼是と世話を焼いた。装束を調えたり、実家経由で都のものを取り寄せたり、家康が侮られないよう私なりに考えた結果だった。
 彼はそんなの要らないなんていったけど、私が用意したものには総て袖を通して、自分なりに行事に合うよう身に付けていた。時折照れくさそうに、いつもすまねえな、と鼻を擦る仕草が私は好きだった。
 家臣に慕われる家康の傍らに居れるのが嬉しかった。乱世には珍しい穏やかな夫婦関係、飯事と言われてもそれなりに幸せだった。三河の田舎であろうが、天下に程遠かろうが其れでよかった。なのにそんな日々は突如として消え去ってしまった。
 最初の転機は、桶狭間で義元様が討たれたことに始まった。混乱する今川から家康は袂を別ち織田に近づいた。今川家中は激怒して内通が疑われた父母が自害に追い込まれ、私は今川館の奥に閉じ込められた。父母や私を気の毒がる一部の者らから私の身は護られたが、家康に捨てられたという現実が私を打ちのめした。
 そのうち、双方の間で話がついたのか私は心の傷が癒えぬまま家康の許へ送られたが、岡崎の城へ入ることは許されず城外の築山というところに置かれた。理由は家臣と家康の実母の反対があったからということだった。元々徳川の家臣らは今川に臣従することを是としておらず、利用価値の無くなった今川の娘など邪魔以外の何者でもないのだろうと、告げられた言葉に何処か諦観した。家臣や実母の進言を受け入れたであろう家康にも、所詮私はその程度の存在しかなかったのだと思えば殊更悲しかった。父母が自害に追い込まれたのは貴方のせいだというのにというやりきれない想いも確かにあったし、遠くに見る岡崎城に貴方が居ると思えば、一人寝も心苦しく寂しくもあった。
 築山の御殿には私と古くから仕える侍女達、そして遠巻きに監視する徳川の武士たち、箱の中に閉じ込められて過ごす一生は多分虚しい。だけどそれ以上の苦しみがないのなら、甘んじて其れを受け入れるしかないのかもしれない。私にはまだつき従ってくれている侍女たちがいたからそれでもいいと思えた。
 
 ――なのに。私はまた暗へやられることになる。
 
 家康が浜松へ居城を移した頃、思いも寄らない嫌疑が私に降りかかった。『築山御殿の御正室が武田と内通し徳川を混乱に陥れようとしている』そんな話を聞いたとき莫迦なと鼻で笑った。これだけ厳重に御殿の奥に置かれている私がどうして内通なんて出来ようか。私が潔白なのは私を監視する徳川の家臣共が一番知っていることではないか。
 只侍女達と手慰みに花を愛で、箏を鳴らすばかりの私に、外界のことなど知る由もない。義元様亡き後混乱していた今川はどうなったのか、織田と組んだ徳川がどうなったのか、其れすらも分からぬというに。
 呆れと、家康はそうまでして私を消したいのだという悲しさに押し黙る私に、家康の家臣が言った。姫様にはお心当たりがあると見える、と。
 徳川家中には本多姓の者が多いが、その者も本多と名が付いていた。無口な戦国最強とは違うその本多何某の目には明らかな侮蔑が宿り、其れは何の反論も肯定も無意味だと示していた。家康様が理由をお聞きになりたい故浜松にお越しあるように、との科白が義務的なものにしか聞こえず、私が、手間を取らす必要は無いこの場で処断せよ、と投げやりに言えば、そうはいきませぬ、と彼の後ろから多数の忍びが現れた。
 まだ家康の正室の位置づけであるが故か、くの一が恭しく私の手を取り輿に乗せられた。付き従おうと近づく侍女達に使者は、これは詰問である故ご同行は出来ぬ、とけんもほろろで、侍女らが食い下がれば、なれば一時ほど遅らせて参られよ、と膠も無く分断されてしまった。
 遠のく侍女と築山御殿を後にしてその後ろに広がる岡崎城を見る。ついぞ足を踏み入れることの無かった岡崎の城、家康の生まれた城。家康の実母が許さなかったということは今川出の私は嫁として認められなかったのだろう。小さな窓を閉めて自分だけの空間で目を閉じれば訪れる寂寥に泪は溢れるばかりだった。
 浜松に着き出来たばかりの木の香りのするお城は、家康が何もかも捨てて新しいことに進む心積もりのようにも感じられた。捨てられたものの中には無論私も居る。そんな想いの中、足音がして背後に立つ気配を感じて振り向くと精悍で清々しい印象を与える美丈夫な青年が立っていた。
、久しぶりだ」
「……貴方、いえ、やす……なの?」
「ハハッ、ワシ以外に誰が居るんだ? ――綺麗になったなぁ
 それは面変わりと言うにはあまりに変わった夫の姿だった。やんちゃな少年は目鼻立ちの通った青年になり、小柄だった体格は大きく、無駄の無い筋肉の付いた身体は女子なら惚れ惚れと見るだろう。
「今更なんの御用なの? 築山殿は武田とよしみを通じたのよね? 私が邪魔ならそんな回りくどいことせずにさっさと離縁するなり処断すればいいじゃない」
「さて、築山殿とは誰のことかな? なあ? 作左」
 そう言うと家康はわざとらしく顎に手を当てて恍けて見せた。今までの家康にはない仕草だ。
「はっ。築山殿といえば、仰るとおり武田と懇ろになり三河の内情を密告せし咎で、先頃小藪村にて御自害なされた由。忠義者の侍女四名がその後を追ったと」
「なにを……」
 居室の出入り口の傍に控えるのは二人の本多だ。私を侮蔑の目で見ていた本多何某、ああ思い出した。作左衛門と言ったか。それと他国を放浪し先日帰参が叶ったとのことで挨拶に来ていた本多正信だった。今思えば家康の命で私の様子を見に来ていたのだろう。
 正信が手を鳴らすと、障子の先で何かを移動する音がする。
 音を聞きながら私は作左の言葉を反芻した。私が小藪村で自害した? 侍女が四人後追いをした? 今川から付き従った私の近しい侍女は乳姉妹を合わせて五人だ。数が、まさか。
 やがて障子が開き、庭先に並べられたものに私は目を見開き、悲鳴を上げた。
「――っ、あ、ああっ!!」
 言わずとも分かるだろう、それは赤子の頃から一緒に居た乳姉妹の変わり果てた姿だった。打ちひしがれる私の背に家康の大きな手が添えられてまるで他人事のように優しい声音で言うのだ。
「ああ、可哀想に。生首なんて恐ろしかったな。こちらにおいで」
 私は構わず這うように広縁に出て庭先に下りた。晒された乳姉妹の顔は生前の柔らかい表情が嘘のように苦痛に歪みなお一層の悲劇を掻き立てる。
「なんてことっなんてことをっ……!」
 こんな姿を晒すのは忍びなくて、こんな目に遭わせる羽目になるなんて、もう早く楽にしてやりたくて、乳姉妹の首に触れようと手を伸ばした。だが触れる直前、私の乳姉妹は粗雑に蹴り上げられた。
「何をしてるんだ。生首に触れるなんてお前が穢れるじゃないか」
 無残に転がる乳姉妹の首に私は更に悲鳴を上げた。蹴り上げた夫は私の腕を掴み居室へと引き入れようとする。手を伸ばしても遠のく忠義者の名を呼んで、これでもかと言うくらい私の喉は絞るような声を上げて悲嘆に暮れた。
「家康っ貴方は狂ってるっ! 私が嫌いなら私だけを殺せばいいのにっ、あの娘達は悪くないのにっ! 今川を追われても私に付いて来てくれた無欲で優しい娘達なのにっ……!! どうしてこんな!!」
「だからだ」
「え……」
 家康が止まり、更にぐいを引き寄せられて、否がおうにも二人は向き合う形になった。家康の口は見たことのないくらい歪んでいるのに目は一つも笑っていなかった。
が想い想われるのはワシだけでいいじゃないか」
「何を、言って、るの……」
「なあ、ワシは見栄え良くなったろう? 背も伸びておまえを軽々と抱えられるようになったぞ」
 家康の腕は太く長く、私の腕も腰もその気になれば一瞬で折られてしまうんじゃないだろうかとさえ思える。すでに部屋の中まで引き入れられた私は必死に彼の手を振り払い、距離を取ろうとずり下がって襖の傍へと逃げた。
? どうして逃げようとする? ワシが嫌いか?」
「家康、どうしてしまったの? おかしいわ、貴方おかしいわっ!! 放してっ放してぇ」
「ああ、恐ろしいものを見て混乱しているのか。大丈夫、これからはワシがずっと傍にいてやるからな」
「嫌っ、来ないでっ!」
「――悪い妻だな、夫を拒絶するなんて。いけないになったなぁ」
「ひ……」
 襖を開けて隣の局に逃れようにも家臣たちが控えている。前方からゆっくりと近づく家康、近くに居ていつでも取り押さえれるように構えている本多の二人。固まる私に作左が小さな声で言うのだ。
姫様、お堪えを。貴女様は我らが家康様の心のお支えなれば」
「しらないっしらないっこんな家康知らないっ……」
、聞き分けの無い子だ。ワシより年上なのだろう? いい子でなければ」
 家康の声は優しくて子供をあやす様だった。けれど私の手首を握る力は有無を言わぬ程強く抵抗むなしく私は家康の腕の中に納まってしまうのだ。家康が頷くと家臣らは去り、彼の言葉通り抱え上げられた私は奥の間へと運び込まれる。至極大切そうにゆっくりと褥に下ろされても、今までの恐怖とこれから起こるであろう恐怖に、保身なんて考えられなくて必死に首を振って抵抗した。それでさえ家康は幸せそうに笑うのだ。
「ふふ、築山殿はもう居ない。今川の娘を織田に差し出せと言われることもなければ奥御殿の煩わしい仕事にとられることもない。この手にあるのはワシだけのだ。誰にもやるものか、主殿の奥で、ワシだけを待っていればいいんだ」
 震える私に家康はなおも続ける。
は小さいなぁ。ほんの数年前まで同じくらいだったのに。ほら見てみろ、すっぽりワシの腕に納まるんだから」
「やめ、……」
 やんちゃそうに笑う顔は確かにあの頃の家康が見える。だけど、その分残酷に染まった彼が恐ろしい。家康の太く長い指が繊細に私の頬を撫でて、いつ牙を剥くのかと知らずに震え上がる私に恍惚を眸に宿して言うのだ。
「ずっと手出ししなかったもんな、待ってた甲斐があったよ。こんなに綺麗になって。そんなにはもうワシしか居ない。今川も、関口も、の侍女も……」
「え……今、川……」
「そうだ、とっくに滅んだよ。いいじゃないか今は。さあ、……」
「ひ……、や! 家康やめて!」
 圧し掛かる夫の重み、頭がくらくらするくらいに包まれる伴侶の香り、身体が繋がれば大人として本当に夫婦になるのだと言ったのは誰だったか。だがその日から、私は其れまでとは比べ物にならないくらいの虜囚となったのだった。

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 脳を廻るあの日の惨劇に私は力なく首を振る。
 嗚呼どうしてこうなってしまったのか。私はあのままでよかったのに。青臭くても、実直で懸命で、皆に慕われて。雛者なんて言われても、俚俗と誹られても、そんなことどうでもよかった。そのままの貴方が好きだったのに。
 何度も思い出して反芻して、だけど残るのは虚しさの一片だけ。
 私は陽を向いて静かに目を閉じた。思わず伝う泪が恨めしい。泣いたって何も変わりはしないのに。

……」

 障子が開く。ああ今日も夜が来る。あの人がやってくる。今宵も狂気に駆られたあの人が。